保健室の網戸を隔てた傍で、向日葵がふわふわと揺れていた。
青と琥珀の交じる空に、金色の輪郭が浮かぶ。
斜陽に照る1輪の花を見つめながら、呟く。
「もうこんな季節か……」
グラウンドを走る生徒は真っ赤だった。
服や眼鏡を残して、人の皮膚の色だけが紅く色づいている。運動することで、体温が上がっているのだ。現に、走る前は緑色もところどころ交っていたわけだし。
人間らしくない。僕の目に映るのは、無機質な
これじゃあ、化け物だ。除け者も同然だ。
眼鏡を押し上げた僕は、再度大きく息を吐いて翻した。
保健室にあるのは、2台のベッドと医療用具の入った棚。それから、生徒を診るための机と椅子。
西日が部屋を照らし、塵を煌めかせていた。
「いないじゃん」
お化けが出ると言われ、同業者に頼まれて来たんだけど。
ただの、ごく普通の保健室じゃないか。
肩からずり落ちた白衣をかけ直す僕は、苦笑いを浮かべていて。
床に落ちている包帯の切れ端に、独り言ちた。
「空振りかぁ」
————何が、「空振り」なの?
聞こえないはずの声に、思わず振り返る。
黄金色の陽が差す教室で、そして僕は息を呑む。
乳白のカーテンが、ひらひらと踊る中で。
——黄昏に、少女のカタチが浮かぶ。
舞い踊るカーテンを背にして、いつの間にか少女が立っている。ベージュ色のセーラー服を纏った、おかっぱ頭の少女。触角のような2本のアホ毛が、そよぐ風に揺れる。
僕が息を呑んだのは、背後に取られたことに全く気付けなかったからではない。
少女のすぐ隣で、1冊の手帳がぷかぷか浮いているからでもない。
ただ、この目に映る彼女が、信じられなかったから。
淡いミントグリーンの髪色をしたその子は。
高い声で歌うその子は。
——首元や膝下の輪郭がうっすらぼやけていて。
限りなく人間から遠いのに、どうしてだろう。
——
窓の柵をふわりと降り、少女はクスクスと笑う。
床に足はついていない。
「つーかまえた♪」
その言葉に、無意識に肩が跳ねた。
遅れて思いいたる。
この子が、噂に聞くお化けだろうか。
「佐藤……下の名前は、えっと……」
僕の胸元にある教員証を覗き込む少女。
「ねぇねぇ、これ何て読むの? 木、風?」
「かっ、かえで」
声を裏返しつつも答えると、彼女は嬉しそうに袖と袖を合わせる。
「『かえで』って読むのね! 初知りだヨ~」
口元に袖を当てて、ミドウは感心の色を見せる。
「君は……」
尋ねると、少女はくるりと回って答えた。
「アタシはミドウ」
そうして、ミドウと名乗った少女はしゃがんで僕を見上げる。
やっぱり、彼女がお化けなのだろう。
膝を屈める彼女の脚は床から僅かに離れている。
その上——ミドウの影は、僕と比べて曖昧で朧気だった。
「貴方が、せんせー?」
緑青の瞳は、濁り1つない。生まれたてのように、無垢だ。
「え、あ、まぁ……一応、職業上は……?」
お目当ての「先生」かは分からないけど。
しげしげと僕を観察するミドウに、聞いてみる。
「どの先生をご所望なんだい? その、先生も色々いるけど」
「さぁ、日記に書いてないもん」
そう言い終えるのと同時に、脇で浮いている手帳がぱらぱらとページ遡っていた。
そして、ミドウは手を使うことなく目的のページを見つけて読み直す。
「ほらほらっ、これだヨ」
4月9日
今日は初めて、副担任の先生と話した。
男性は苦手だから最初は緊張したけど、優しくてすぐに馴染めた。ぽかぽかと穏やかな気持ちになったけど、これもトキメキ?
先生はお菓子を作るのが好きみたい。今度教えてもらおうかな。
「やっぱり名前は書いてないみたい。あーでも、副担任でお菓子を作れるせんせーが良いヨ」
「うげ。僕当てはまってんじゃん……」
しまった、つい口に。
後悔するも時すでに遅し。
ミドウは目を輝かせ、身を乗り出した。
「おお~! すぐに見つかったヨ~」
朗らかな声で、続けて言う。
「この日のトキメキは達成っと。順調だヨ」
何やら達成したみたいだ。
「……それで、僕をどうする気? 呪い殺したりでもするつもりかい?」
「ほヨ?」
きょとんと首を傾げる。
「どうしてコロスの?」
顔には、微かな困惑の色。確かに殺す気はなかったらしい。
「そんなことできないヨ、アタシはヤサシイもん。だけど折角だし……」
ミドウが目を細める。
「協力してほしいな、ほらほらっ、放課後が終わっちゃう前に!」
「……何に」
僕が問うと、ミドウは悪戯に笑った。
「
————
「アタシはあの子から……みどうから生まれたの。でも、アタシはみどうのことあんまりよく分からなくて……」
廊下を歩く僕に、不思議少女ミドウは言った。
「だから、日記を辿ったら分かるかなって」
「ふぅん」
窓の外を眺めながら、僕はミドウの主張を聞いていた。
地平線付近は黄金色に彩られ、空の青には少しずつ夜が染み込んでいる。雲は銀色に陰り、夕日は柔らかくも眩しい。
「せんせーって、色んなことを知ってるって書いてたの。みどうのこと、何か知ってる?」
「そんな名前の子、聞いたことも無いなぁ」
「そーなの?」
「そーなの。……というか」
僕は、自分を包囲する黒板消しだのチョークだのを見下ろす。
「いい加減、これを何とかしてほしいんだけど」
「やーだ。だって逃げられたら困るもん」
「逃げないって」
「ほんとー?」
ジト目で問い詰めるミドウ。
「逃げてもどうせすぐ捕まるだろ? わざわざ疲れるようなことしたくないんだよ僕は」
「その割には、お化けを探しに来たんだヨね? アタシを捕まえに来たんでしょ?」
「頼まれただけだよ。……引き延ばすと後々面倒そうだし。人畜無害なら、適当に誤魔化すつもりだったしさ」
「ホント~?」
「ホントホント。平々凡々な平和主義者なもんで」
「ほヨ~。でもせんせー、他の人とは違うよね?」
その言葉に、踏み込んだ足の裏がほんの一瞬力む。
「……分かる?」
「なんとなく。やっぱり、違ったんだね」
自分が負うモノを確かめるようにして、僕は口を開く。
「僕は、
声音は冷たく淡白だと、自分でも感じる。
「呪い……ってことは、すごい技とか出せたり?!」
「いやぁ、無理無理。できたら凄いけどねぇ」
「見てみたかったヨ〜。じゃあ、精神操作に暗示、回復とかもできないの?」
「君は呪術をなんだと思って…………」
「運命の人と結ばれるとかは?」
「どーだか。……というか、呪いなんて無い方が良い」
人を呪い、天使を殺し、世界の摂理を変えるための一族。
いつのことかは分からないけど、神による災いを鎮めるために色々なコトをやっていたらしい。もちろん、代償はつきもの。
痛みも伴うし、結果として……語れないことだってある。
世界を変える救世主は、人間の皮を被った孤独な化け物でしかない。
そして、その呪いに溺れている僕もまた——。
僕はポケットから教室の鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込んだ。
「僕の目は少し変でさ、人の身体の温度が分かるんだけど。……あんまり好きじゃないし」
「どうして?」
「……自分だけ違う景色を見てるって、なんか……寂しいじゃないか」
僕は、どこにも行けないみたいじゃないか。
鍵を回す僕に、ミドウは問うた。
「だったら、アタシのこともサーモグラフィーみたいに見えるの?」
ミドウはいつの間にか顔を近づけている。純粋に興味があるのだろう。真っ直ぐ僕を見つめていた。
答える僕の声は、自分でも驚くほど優しかった。
「なんでか君は普通に見えるんだよねぇ」
言って、ゆっくり教室の扉を開けた。
「ここが最後。1年5組ね」
鍵を開けると、ミドウが先んじて教室に入る。
宙を浮いて室内を彷徨く様は、幽霊みたいだ。
だけど彼女に言わせれば、幽霊ではないらしい。
「騒霊だったっけか……」
「そうそう、別名ポルターガイストだヨ!」
それゆえ、ミドウは校内の物を自在に動かせる。さっき黒板けしやチョークを僕に纏わせたのも、その力によるようだ。
今だって、手を使わずして生徒名簿のページを開いてしまった。
「みどう、みどう……どこにもいないヨぉ」
「言っただろ? 過去の記録にも無かったしさ、みどうって子はここの生徒じゃないんだよ」
「うーん」
納得できないらしい。
「でも、何かヒントがあるはずだヨ!」
そう言いながら、机の中を1つずつ覗くミドウ。僕は適当な椅子に腰掛け、その様子を眺めていた。
「……喉渇いたなぁ」
そういやさっき、ミルクティー飲めなかったんだった。
この新校舎から、旧校舎の生徒会室までは距離がある。何より……
「みどー、どーこー」
帰らせてもらえそうにない。
「ミドウちゃん、食堂に行かない? ひょっとしたら、そこに何かあるかもだし」
「行く行く! 急ピッチで捜索だヨ!!」
あそこには自販機がある。そこで何か買おう。
僕の後を行くミドウのアホ毛は、ぴょこぴょこと跳ねている。
そして、気のせいだろうか。ふっと、ほんの一瞬消えたような気がした。
人の居ない食堂に足を踏み入れる。
部屋の大部分を占める3台の長い机と、各テーブルには十数脚もの椅子が乗っていた。
テーブルに潜り込んで、みどうの手がかりを探すミドウ。かと思えば、一瞬ですり抜けてしまった。これも、ポルターガイストの力だろうか。
一方僕は、テラススペースにある自販機で、飲み物を決めていた。
自販機会社に物好きがいるのか、なぜかラムネ瓶がある風変わりな自販機だ。
出てきた紅茶のペットボトルを持って、テラス席に腰掛ける。
「夏と言えば、甘いものだよねぇ」
歌うように呟き、白衣のポケットからガムシロップを取り出した。ボトルの口からシロップを入れ、軽く振って一口。
地平線に朱を残した、夜の始まる紺の空を眺めて、癒しの一杯だ。
「沁みるなぁ」
「せんせーサボってるヨ」
「うわっ」
僕の顔を、逆さになって覗き込むミドウ。
口をへの字に曲げ、眉をしかめて僕を睨む。
「いいだろ、休んだって。君も何か飲んだら?」
僕の言葉に、ミドウは自販機に顔を向ける。ラムネが気になるみたいだ。
「1本ぐらいなら出したげるけど」
「……」
何か考えているのだろうか。
しばらく黙っていたミドウだったが、
「ありがとね、せんせー。……でも……」
ふるふると、静かに首を横に振る。
緑青の瞳は、微かに揺れていた。
「これじゃあ、飲めないから」
痛々しいはずの笑顔が、夏の空に染み込んで。
薄く、淡く、曖昧になっていく。
無いけど痛む。無いから痛む。
「
夕日を背にしたミドウの顔には、濃い影が刻まれていて。
辛うじて居座る太陽に、少女の身体は少しずつ溶けていく。
——もう、ただ1人の彼女の貌さえはっきりと見えない。
生徒会室へと続く廊下を、僕らはゆっくりと歩いている。
ミドウはみどうの日記に目を凝らし、ヒントを探していた。
空になったペットボトルを手に、ミドウを一瞥する。
日が沈むにつれ、ミドウの実体が無くなってきている。
理由は分からないけれど、胸騒ぎが止まない。
体温と同化しそうな生暖かい微風が、不安を掻き立てる。
はっきりと見える顔も、少し大きいセーラー服も、今やほとんど透明。
廊下の壁や窓の外の濃紺が、当然と言わんばかりにミドウと混ざる。
はっきりと輪郭を持っているのは、みどうの日記だけだ。
触れてしまえば砂塵のように消え失せそうで、少し離れて歩いていた。
顔を合わせるのが気まずくなって、目線が下がっていく。
この子は気づいているのだろうか、知っているのだろうか。
探りを入れようと顔を上げた僕に、ミドウの声がかかる。
「せんせーは物知りなんでしょ?」
諦めたような、それなのに縋るような貌。
さながら、太陽を見つめるだけの向日葵だった。
次の言葉を待ちながら、どうにも息がつまる。胸がツンと痛む。
「みどうになるには、どうしたら良いかな?」
騒霊の身体は、今にも世界に打ち消されそうだ。
化け物と言われ、除け者にされているよう。
「今日も明日もその次も…………消えたくないよ」
……どうして、この子に限って見えてしまうのだろう。
自分に似た貌を、こんなにも鮮明に見てしまうのだろう。
「明日になったら、また会えるよね?」
とも、呟いた。
浮かべているはずの笑顔が、沈みつつある闇に翳っている。
この子が原本に縋るのは、消えるのが怖いから。
日が昇ればまた生まれるけれど、
「みどうになるには……ねぇ」
僕は踵を返す。
ポケットから鍵束を出し、1つだけ先を突き上げる。
「せんせー? どこ行くの?」
「んー、探し忘れた場所」
首を傾げるミドウだったが、階段を降りる僕を追うようにふわふわとついてきた。
電気をつけると、2台のベッドと医療用具の入った棚が目に入る。
もうじき、日は完全に落ちる。
窓から見える向日葵が、恋しそうに空を見上げていた。
「保健室?」
「そ。ここはまだだったろ?」
言いながら、棚を開ける。
救急箱を取り出して、椅子に腰かける。
「包帯?」
救急箱の中から現れた医療用品に、きょとんとするミドウ。
「ああ。ちょっと手出して」
そう言いながら、僕は包帯の先を伸ばす。
まだ大分あるみたいだ。これなら、十分足りる。
ミドウは戸惑いながら、左手をおずおずと差し出した。
手と言っても、ほとんど透明で輪郭も曖昧だ。
「教えてあげる。僕が知ってる、たった1つの呪い」
呟いて、包帯を一噛みする。
すると苦い繊維の味とともに、口の奥から熱が迫り上げてきた。
「せ、せんせー……? 何して……」
不安そうな、ミドウの声。
それもそうか。突然人が包帯を噛みだしたら、誰だって驚くだろう。
——あつい。
全身を焼く熱を、貌を焙る呪いを、口を伝わせて包帯に移す。
この痛みは、知らない方が良い。
この呪いは、独りよがりだから。孤独でありたいから。
「おまじないってやつだよ」
「……痛い?」
「痛くないよ」
「ホントに?」
その先は、聞こえないふりをした。
ひとしきり熱を込めた包帯を、ミドウの手に巻く。
触れた包帯に肩をぴくりと跳ねさせたミドウだったけど、すぐに力を抜いてくれた。
「ふしぎだね」
ミドウは囁いた。
「あったかいよ」
柔らかく微笑んで、巻き終えた掌を見つめた。
愛おしげに、嬉しげに。
身体に熱が巡り、ゆっくりとミドウのカタチが蘇っていく。緑青の瞳も、薄緑の髪の毛も、セーラー服も、元の色を取り戻していく。
そんな自分の変化に目を丸くしたミドウだったが、やがてしみじみと浸るように零した。包帯を巻いていない方の袖を、胸に当てて。
「トクトク言ってて、ちょっと擽ったくて……変な感じなのに、うっとりしちゃうの」
ミドウの手が徐に、僕の手に合わさる。朱くなった指先に白い手が絡まる。
「やっぱり物知りだヨ。すごいヨ、せんせー。……でも」
そして哀しげに、見上げる。
「ホントは、痛いんでしょ?」
その言葉が、合図だった。
僕の身体を焦がした温度の波が、少しずつ引いていく。
「もしも消えちゃうなら、一緒が良いの」
「なんだよ、それ」
「アタシの、おまじない」
消えやしない。明日も会える。そういう、
そう思っていると、ミドウが無邪気に笑った。そして、僕の手も纏めてぎゅっと力を込めた。
——あたたかい。
この手に伝わる体温は、僕のものだろうか。
それとも、君が痛み分けをしているのだろうか。
力を注ぎ終えると、熱が皮膚を通して外へと逃げていく。脱力感と、後から節々がじわじわと痛む。
夕暮時と言っても暑いからか、それとも込めた力が熱いからか。汗が額に滲むのを感じた。
それを白衣の袖で拭う僕に、
「ねぇせんせー、明日はどこを探す?」
ミドウが身を乗り出して聞いてきた。待ち遠しそうに、アホ毛を弾ませている。
僕と同じように疲れているはずなのに、これが若さというヤツだろうか。
「結局やるんだね、続き……」
「もちろん!」
「明日は休みにしない? ついでにその次の日も……」
「やーだ、みどう探しは年中無休だヨっ」
「……はいはい」
2人繋がるぬくもりが、
そうして僕らは、ここに浮き上がる。
普通じゃないのに、普通だって
——薄明の終わり、幻肢痛をこの身に宿して。