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 梅が咲けば冬はもう終わりと聞くのに、横殴りの風は凍えるほど冷たかった。


 終電まであと数本も電車が残っていない夜のことである。吹きすさぶ冷気は制服の襟元から鎖骨を辿って体の芯にまで染み入り、路上の冷たさといったらローファーを貫通して足裏と言わずふくらはぎと言わず突き刺してくるようだった。


 そのせいもあってだろうか、新宿駅西口のバス停前を通る人はまばらだった。時刻が時刻だというのもあるかもしれない。通りがかるわずかな人々は誰もが前のめりに傾いで道を急いでおり、百貨店のロゴの下にちょこんと灯された行灯に目を向ける人はいなかった。


 四方の紙に赤い『占』の一文字の上から黒くバッテンを書いた行灯は、折りたたみ机に星空模様の布を敷いただけの簡素な店の看板である。そのしつらえの向こうには壁を背にした店主がキャンプ用の小さな椅子に座っていて、とても景気が良さそうには見えない無表情で車通りを眺めているばかりであった。


 場所は良いと思うんだけどねえ、と池田いけだ小夜さよは一歩下がってから指で額縁を作ってみた。


 見れば見るほど、客が寄りつきそうにない店である。


 まず第一に言えることは、暗い。それにつきる。百貨店も閉まった時刻、それでも新宿の夜は明るい。バス停の光、通りの向こうに輝く電気店の派手な光、駅の入り口を示す大きな四角い光、煌々と人を呼ぶそれらによってより深くなった闇の中に行灯の小さな光は儚すぎるのである。


 第二に、圧倒的に小道具が足りない。深夜の町に出没する占い師の出店にしてもだ、もう少しそれらしい飾り付けというものがあるのではなかろうか。水晶玉やカードの束、蝋燭にペンデュラム、あるいは錬金術師めいた天球儀とか置き時計とか、その手の商売っ気がこの店には一切なかった。卓上に並んでいるのはメモ用紙の束とボールペンと――どちらも可愛くない――ラミネートが数枚、それだけだ。


 それらの向こうに無表情の店主が座っているわけだが、これがまたいけなかった。映画のマトリックスさながらの風貌をしているのである。長身を黒いジャケットと黒い丸首シャツ、それから黒いパンツと金具付きの黒いブーツで包んで、顔には夜も遅い時間だというのにサングラスをつけている。それもただのサングラスではない。黒いフレームの自己主張がやたらと激しいスポーツタイプである。こんなものをつけている人なんて野球選手か釣り人か、はたまた強面の格闘家しかほかに知らない。髪だって短く刈ってはいるがしゃれっ気のひとつもないただの黒である。その上に微動だにせず姿勢良く座っているとあっては、いっそのことなにかのパフォーマンスだと言われた方が納得であった。


「話には聞いてたけど、お店、良いところに出してんだね」


 様々な感想を心の中に押し込め、きっちり蓋をしてから小夜は笑って見せた。店主のほうはうんでもすんでもない。真一文字に結んだ口が開かれる気配はなく、小夜は「ほら」とおのぼりさんのようにバス通りの向こうを指差した。


「鳥の巣が目の前! すごいね!」


 新宿の真ん中にぜいたくにも確保された空間は百メートル四方はあるだろうか。ぽっかりと拓けた空の向こうにはコクーンタワー、通称鳥の巣がにょっきり突き立っているのが見える。


 鳥の巣ってよりお菓子みたいだな、と小夜は思った。白い線が絡み合ってボート型を描いているのが、ちょうどチェック柄のパッケージみたいで可愛らしい。開けると細く切った紙がそれこそ鳥の巣みたいに入っていて、その真ん中にちょこんと二粒か三粒のチョコレートが鎮座していて――途端に甘い物が食べたくなってしまって、小夜はそんな場合じゃなかったと頭を振った。こんな夜中にわざわざ市ヶ谷からやってきたのはちゃんとした目的と、店主殿に頼めば帰りのバイクを出してくれるだろうという打算あってのことである。


「今日来たのはね。これを見てほしくって」


 通学カバンから取り出したのは一枚のお札である。金箔入りの和紙に漢字やうにゃうにゃした線が墨で書かれているもので、見ようによっては有名人のサインにも見える。漢字として読める部分は『日』と『月』と『鬼』だけだ。それ以外の部分はまったくの解読不能で、古文の先生や美術の先生に見せてみても首を捻られるばかりだった。


 店主は一応、お札を見てはくれたようだった。微動だにしなかった頭がわずかに上を向いている。表情らしきものはさっぱり見つけられないが、彼がこういう男だと心得ている小夜は特に気にせず事情を話すことにした。


「友達が騙されたの。このお札、金運が高まるって言ってネットオークションに出品されてたんだって。友達はけっこう頑張って落札したみたい。オークションのシステムは知ってる? 品物を落札すると挨拶とかお礼とかひととおりしたあとに振込先や送り先を教え合うの。相手が変な人ならだいたいはそこでわかるんだけどね、友達が言うには気になることはなかったって。お金を払ってしばらくしたら封筒が家に届いて、中にはこのお札と説明書が――ええと、あれはプチプチって言うのかな、とにかく緩衝材に包まれて入ってた。説明書には落札のお礼とちょっとしたコメントと、あとは魂を込める儀式をするようにって書いてあったんだって。なんかね、それをしないとお札が効力を発揮しないんだってさ」


 強風によって指で摘まんだところからお札が破れてしまいそうだったので、小夜はそれをテーブルに置いてから勝手にメモ用紙とボールペンを借りて重しにした。


「あと書いてあったのは、人間が踏む場所に置いちゃ駄目ってことと、効力が弱まったら太陽の光に当てるってのと、いらなくなった時の処分の仕方。とにかく友達はその通りにしたわけ。でも、全然効果がなくってさ。ある日、バイト仲間に愚痴ったの。そしたら、バイト仲間からそれって騙されたんじゃないのって言われて。友達もちょっと考えちゃったらしいのね。だってさ、せっかく大金を払ったのに偽物だったら腹立つじゃない? それで決心して出品者に連絡を取ったんだって。封筒に住所が書いてあったからそこに手紙を送ったんだけど、そしたらさ、なんて返ってきたと思う? 金運が上がらないのはあなたがお札の力を疑っているからです、だって! 友達はちゃんと信じてたんだよ。説明書に書いてあったことはちゃんと守ったし、それ以外にも毎日お祈りしたって言ってた。でも、なにも起こらなかったから疑ったの。なのにさ、ひどくない!?」


 喋っているうちに腹が立ってきて小夜は口を尖らせた。店主は卓上のお札をじっと見下ろしているようだ。けれどもなにも言わない。そもそも微動だにしない。強風が短い髪を揺らす以外にはピタリと静止しているその様は、まるで出来のいいフィギュアかマネキンのようだった。


「ちょっとケイレブってば! 聞いてるの!」


 空いた手でバンっとテーブルを叩くと、ゆっくりと店主――ケイレブは顔を上げた。

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