とろんと溶けていくチーズのようだった。
体内からじわじわと発生する熱は吐息となり、唇をチリチリと焦がす。
テオは曖昧な感覚の中、腰につけたエプロンを解き、くたびれた木製の階段を一段、また一段と登った。
階下からは常連客たちの賑やかな笑い声。
酒場から二階の自室へ向かいながら、腕を持ち上げスンと鼻を鳴らす。
手首から香る、かすかな甘い香り。
どうして気付けなかったのか。
今日は朝から調子があまり良くなかった。
全身が妙に気怠いというか。
昨晩、子犬の怪我を早く治したくて力を使いすぎた。なので、風邪でもひいたのだろうとばかり思いこんでいた。
まさか
酔っ払い客に指摘されるまで気が付かなかった。自分が淡泊な体質なことを改めて良かったと思う。症状が酷くキツい体質であれば、即座に客の理性を奪い、餌食となっていたことだろう。
定期的に、誰かれかまわず誘惑し、獣にしてしまう呪われた体質のオメガ性。
しかし、
オメガは傷や病を癒す特別な力があり、男女の性別に関係なく能力の優れたアルファ性の子を確実に授かることができる。まさに存在自体が奇跡の固まりなのだ。
テオもその教えを信じ、誇りに思って生きてきた。たとえ両親と暮らせなくても、この奇跡の能力を守り、育むことこそ、オメガ性に生まれてきた使命なのだと信じてきた。
奇跡の裏にある代償。呪いの意味を知るまでは。
ヒートなんて来なければいいのに。
自分の性が恨めしい。
だからこそ今、頭に浮かぶのはベッドの上で寝そべる無垢な子犬の姿だった。ドアを開ければ顔を上げ、尻尾をブンブン振る。キラキラした瞳で純粋にテオを待っていてくれる愛しい子犬。テオの性がなんであれ、関係なく慕ってくれる。
一時的に保護していたはずの子犬をテオはいつしか、唯一気を許せる相棒のように感じていた。
……そろそろ名前を付けてやろうか。
ぼんやりした頭で考えながら扉を開き飛び込んできた光景に、テオの目は大きく見開かれた。
全裸の男が背を向けて立っている。
盛り上がった臀部。ガチガチに引き締まった筋肉がくぼみを作る。その筋肉がピクッと動き、男が振り向いた。
暗がりの中で、窓から差し込む月光を浴びた金色の髪。無造作に肩まで伸びた髪は緩やかにウェーブしている。青ともグレーとも言えない不思議な色をした目がこちらを見た。
呼吸もできず固まるテオを認めると、男はバッと勢いよく全身で振り返る。
股間を隠すそぶりもなく、堂々としたいでたち。だが、そんなことよりもなによりも。
「っ!」
へそと股間の間に見覚えのある黒い模様。
テオの驚きがサッと恐怖へ変わる。
それは教会で散々見させられてきた警告の証だった。実物を目にしたのは初めてだったが、忘れるはずもない。決して忘れてはいけない模様。
暗黒の空に広がる翼のように左右対称に伸びた黒い柄。燃え盛る炎のようにも見える、ドラゴン族特有の痣だ。
体の不調も吹き飛び、テオは反射的に後ずさった。
「……なっ、なんで……」
全身が痙攣したようにガクガクと震える。
男は「あ」と小さな声をあげ、薄く微笑みを浮かべながら近寄ってきた。長い手がゆっくりテオへと伸びる。テオは呆然としたまま腰を抜かし、ヘロヘロと床に膝を突いた。男の視線がゆっくりテオを追い、腰を屈める。
ヤラレル────
「来るなっ! でてけ、出てけよっ!」
テオの叫びに、男の手がビクッと震え止まった。
ドラゴン族に出くわしたのは初めてだった。ドラゴン族とは変身の能力を持つアルファ性の集団である。恐ろしい竜の姿になり空を飛ぶこともできるし、人間の姿のまま大きな翼を生やし縦横無尽に浮遊することもできる。狂暴で邪悪。力も強い。山から降りてきてはオメガを
人間には、アルファとオメガ、そのどちらでもない男女のみの性を持つベータがいる。しかしドラゴン族には男のアルファしか存在しない。
その種を守るため、確実にアルファを産み落とせる人間のオメガを連れ去っては、種族維持の道具とする。
オメガにとって天敵とも言える、おぞましい存在────。
その恐怖を、教会で育てられたテオはさんざん教え込まれていた。
教会は聖なる力で守られており、ドラゴン族の襲撃は受けない。だからこそオメガは教会で保護されている。しかし、テオはその聖域を飛び出してしまった。
外の世界にはドラゴン族が実在する。今まで見つからなかったのはたまたま運が良かっただけなのだ。
テオの全身から冷たい汗が噴き出した。
もうおしまいだ。
ガクガクと震えながらギュッと目を閉じ、テオは無茶苦茶に腕を振り回し叫んだ。
「うわああっ、ああああっ! わああああああああっ!」
テオの叫び声に、ドヤドヤと階段を駆け上がる足音が響く。
「テオっ! 大丈夫か!」
部屋に飛び込んできた店主マルゴの大声が、テオの意識を呼び戻す。 ハッと見渡すと、部屋はすでにもぬけの殻だった。
「えっ……あっ、男は? ドラゴンは!?」
皆がザッと青ざめた。
「ドラゴン族だって!? この部屋に入って来たのか!?」
テオはマルゴを見つめたまま、顔を左右に振った。
「部屋の中に、いた」
「いたって、そんなもん見ちゃいないが……」
マルゴが顔を強張らせる。客の男達もざわついた。
「お、お腹に、あ、痣があった……」
まだブルブル震えているテオの言葉に、客の一人が窓から顔を出し外の様子を伺う。またある者は外へ様子を見に階段を降りていく。
マルゴはブルブル震えているテオを抱え、ベッドへ運んだ。
「大丈夫、辺りに怪しいやつはいない。安心していい」
「ドラゴン族って、本当にいたのか?」
「しかし、な、なんでまた、テ、テオの部屋に?」
話していた男たちが一斉にテオへ目を向けた。テオを捉えるその目には妙な緊張の色が浮かんでいる。マルゴがテオへバッと毛布を被せた。
「一昨日の、隣町で起きた襲撃の残党かもしれない。こいつぁ、体調が悪いんだ。怖い目にもあったばかりだし、ゆっくり休ませてやろう。みんな、騒がしくして悪かった。ありがとうな」
マルゴは立ち去ろうとしない客達の視界を塞ぐように立ちはだかり「ほら、飲み直ししよう。今日は店のおごりだ」と部屋から客たちを追い出した。 毛布からテオがそっと顔を覗かせる。
「……ゆっくり休め」
一言残し、マルゴは振り向きもせず後ろ手でドアを閉めた。
そんなマルゴの背中が、テオにはいつもより大きく逞しく見えた。
階段を下りていく足音が遠ざかっていく。
先ほどまでとは打って変わり、部屋は怖いほどの静寂に包まれた。 テオは混乱していた。 初めて目にしたドラゴン族。それがなぜ自分の部屋にいたのか。
そしていなくなった子犬。
あの男の様子は明らかに揺るがない事実を示していた。しかしテオは、その事実をどうしても受け止められない。
毛布をギュッと握り締める。
名前をつけてやろうって思ったのに……。
クルンと丸まった尻尾をピクピク振って喜ぶ姿を思い出し、テオの目に涙が滲んだ。