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第10話 四足獣

 力を込めてガラス窓を拭いていた純悟だったが、窓枠がぎしりと嫌な音を立てたことで慌てて手を止めてしまう。存外、丈夫な作りをしていたようで一安心したが、思わずため息をつきながら窓の奥に広がる庭園の景色を見つめてしまった。


 1階の窓からは純悟らが入ってきた玄関の鉄門が確認できるが、改めて見てもその佇まいは日本の家のそれとは思えない荘厳なものであった。門から続く庭園には切り揃えられた植木がいくつも並んでおり、合間を無数の花が埋めている。


 人気のなくなった豪邸のなかで、純悟は雑巾を絞り上げながら周囲を警戒した。建物自体は異様に広いというのに、誰も住んでいないことから辺りは静寂に包まれている。


 ただ一つ、絨毯が張り巡らされた廊下に、赤いヒールの甲高い音が鳴り響いていく。つなぎ姿で掃除を続けている純悟に、見取り図を手にした結子が歩み寄ってきた。


「ざっと見ただけだけど、おおよそは毛塚ちゃんからもらった資料通りの間取りだね。こんなところに住んでたってのは、本当、羨ましいったらないよ」


 結子は壁際に置かれた鞄に資料を戻し、代わりに中から缶ビールを一本、取り出した。純悟は一瞬、「あっ」と声を上げそうになったが、相変わらず結子は躊躇することなく蓋を開け、ぐびりと豪快に酒を口にする。

 呆けてしまっている純悟に気付き、結子は首を傾げた。


「どうしたのよ、純ちゃん?」

「いや、別に……今回もやっぱり、飲むんだなぁ、って」

「ったり前じゃないのさ。なにせ今回は、なかなかの大仕事だから気合入れないとね! 勝負所だと思って、ちゃんと多めに持ってきたんだぁ」


 言いながら結子は鞄を開き、中身を見せてくる。清掃用具のその隙間に、ビールのロング缶がいくつもひしめき合っていた。

 いつも通りの彼女の姿に、純悟は肩の力が抜けてしまう。思わず丸眼鏡を直しながら、話題を今いる場所――依頼人から任せられた諏訪邸へと移していった。


「まぁ確かに、これはアパートだのマンションだのとは規模が違うよな。それでいて随分と放置されていたみたいだから、そこら中、ほこりだらけだよ。全部掃除しようとしたら、何日あっても足りないぜ」

「さすがに全部ってのは無理だよねぇ。けれど、一応セキュリティは維持し続けてるみたいだよ。屋敷中に設置された“監視カメラ”はまだ生きてるっぽいしさ」


 結子が親指で指示した先を見つめると、確かに天井の隅には監視カメラが配置されており、赤いランプが駆動中であることを伝えてくれる。誰も住んでいない豪邸だが、空き巣や盗人の類が侵入しないように監視し続けていたようだ。


「“けがれ”ってのがどこにいるか、場所とかのあたりはついてるのか?」

「いんや、まだ全然。だからとりあえずはこの玄関を起点に、怪しい所を探しに行く必要があるねぇ」


 酒を飲みながらあっけらかんと言ってのける結子だったが、純悟は次の一手を想像し「うへえ」と声を上げてしまう。

 とにもかくにも、まずは問題を起こしている“穢れ”がどこにいるのか、その場所を特定するために足を使う必要がありそうだった。


 純悟はスマートフォンで時刻を確認したが、まだ午前10時と早い。しかし、屋敷をくまなく捜索するとなった場合、二人きりではとても間に合わないのではと、不安になってしまった。


 純悟は持ってきたスポーツバッグの中から、掃除用に使う水――結子の力を込めた“御神酒おみき”のペットボトルをいくつか担ぐ。その他にも見慣れない道具がいくつも入れられており、思わず手に取ってしまった。


「しかし、改めて見ると随分な大荷物になっちゃったよな。これ、本当に使うのか?」

「どれもこれも、万が一のためってやつだよぉ。使わなければ、それに越したことはないんだけどねぇ」


 純悟の問いに、結子はどこか間延びした声で答えてくれる。その様子だと、着実に酔いが回っているらしい。

 あまりこうして悠長に喋っていても良いことにならないだろうと、二人は最低限の荷物だけを持って直ちに散策を開始した。


 まずは1階から順番に巡っていくのだが、辿り着く部屋はどれもこれも“広大”の一言で、純悟が住んでいるワンルームよりも遥かに広い。人が立ち入らないためほこりこそ被ってはいたが、それでも西洋風の家具が所々に取り残されており、生活感がそこかしこから感じられる。


 部屋の扉を開くたび緊張が走ったが、あいにく、“穢れ”と思わしき存在は見つけられない。結子も別段、何か感じるわけでもないようで、徐々に二人の探索は緊張感を失いつつあった。


「う~ん、外れ続きだな。この前みたいに、実は部屋のどこかに隠れてる、ってことはないのか?」

「いやぁ、それはなさそうだね。私もあれ以来、慎重に視るようにはしてるけど、おぼろげな気配すらないよ。こりゃあ、1階じゃあなさそうだ」


 “穢れ”の察知については純悟ではどうにもならず、あくまで結子頼みになってしまう。その彼女がいないと言うならば、間違いないのだろう。二人は諦めて、おとなしく2階へと移動することにした。


 階段を昇ると、2階の窓から外の広大な景色がより鮮明に見渡すことができる。館の外に広がる庭園はもちろんだが、人里離れた場所に建っている屋敷ゆえに、周囲を取り囲む青々とした自然がなんとも鮮明に視界を染めていた。

 都会では見ることのできない光景に、純悟はたまらずため息を漏らしてしまう。


「本当、すげえ所だよな。都会から30分足らずで、こんな場所に辿り着けるなんてさ。静かな所だし、老後とかには最高のシチュエーションかも」

「そうだねぇ。まぁ、近くにコンビニとかないから、お酒を買うのが一苦労だろうけどねぇ」

「そういうのは確かに、不便かもな。けど、そのあたりも使用人たちがなんとかしてくれるんじゃあないか? なにせ、金はたっぷりあるだろうし」


 とりあえず“酒”を基準に考える結子の思考回路が実に分かりやすく、純悟は自然と笑ってしまった。とはいえ、普段、コンクリートに囲まれて暮らしている純悟らにとって、大自然のなかにぽつんと建てられたこの豪邸での暮らしは、どうにも浮世離れしたものがある。


 2階の廊下を歩きながら、純悟は思わずこの屋敷での人々の暮らしを想像してしまった。きっとここで彼――諏訪京志郎とその家族は、数多の使用人たちに囲まれながら、まさしく“勝ち組”としての暮らしを謳歌していたのだろう。


 そんな光景が、庶民として生きていた純悟にはただただうらやましくてならない。熱く、深いため息を漏らす純悟だったが、不意に窓ガラスを打ち付けた水滴の音に、はっとしてしまう。


 朝は快晴だったはずの空に、いつのまにかどんよりとした灰色の雲が混ざっている。どうやら相も変わらず天気予報が外れつつあるようで、純悟は少しだけ辟易してしまった。


「ったく、やっぱりこうなるか。どうやら今日も、俺の“雨男”っぷりが発揮されちゃったみたいだな」


 苦笑しながら、純悟はすぐ隣を歩いている結子へと視線を戻す。何気ないトーンで語りかけた純悟だったが、その目に飛び込んできた光景に「えっ」と声を上げてしまった。


 気が付けば結子は廊下の真ん中に立ち止まり、遥か彼方を真剣なまなざしで見つめていた。手にした缶ビールこそちびちびと飲んでいるが、これまでにない鋭い眼光を前へと向けている。


 何事か、と純悟も視線を前に向け、丸眼鏡の奥を覗き込む。長く続く2階の通路奥に蠢く“それ”に、思わず動きを止めた。


 黒く、大きな“もや”のようなものが、通路をこちらへと進んでくる。音一つ立てず、それは一歩、また一歩と淡々と距離を詰めてきていた。


 今となっては純悟も、それが何なのか理解できてしまう。だからこそ担いでいた荷物を咄嗟に置き、たまらず身構えてしまった。


 “穢れ”――唐突に登場したそれを前に、結子が一言、鋭く告げる。


「純ちゃん、動かないで。私が合図するまで、じっとしてて」


 思いがけない指示に一瞬、結子の横顔を見つめてしまったが、その眼差しはやはり真剣だった。純悟は言いつけ通り、じっと立ち止まったまま前を向く。


 黒い塊が近付くたび、その輪郭が少しずつあらわになっていった。長くすらりと伸びる“脚”と、その先にある鋭い“爪”が見える。前傾姿勢で歩くそれの胴体は長く、白い毛並みのそこかしこが朱に染まり、汚れていた。


 ゆっくり、着実に“穢れ”が近付くたび、あらわになっていくその大きな姿に、純悟もついに呼吸を止めてしまう。邂逅してしまった存在のいびつさが、純悟の肉体に強烈な感覚を植え付けた。


 巨大な“四足獣”が、二人の目の前に立っている。犬のような、猫のような、狼のような――無数の動物のイメージを無理矢理に張り合わせたような、いびつな存在がそこにはいた。


 だがもっとも異様だったのは、その胴体だった。脚に連なる細長い胴体のそこかしこで、無数の目や鼻、口が張り付き、それぞれのリズムで蠢いている。巨大な頭部にすらおびただしい量の目や口が並び、がちがちと牙の音を響かせていた。


 一歩、またしても“穢れ”が踏み込む。黒い靄のその隙間から、ぼたぼたと赤黒い体液が零れ落ち、地面を濡らす。怪物が地面を踏みしめた途端、確かな振動が二人の足裏にも伝わってきた。


 目の当たりにした怪物の姿に、純悟はうまく呼吸ができない。だが間違いなく、目の前のこの存在こそ、諏訪邸で人々を恐怖に陥れていた元凶なのだろう。


 なんとかしないと――そんな一心で覚悟を決めていた純悟だったが、結子が前を向いたまま、直ちに行動に移る。


 彼女は缶ビールを握りしめたまま、強い波長で告げた。


「純ちゃん――駄目だ、逃げろ!」


 突如放たれた結子の言葉が、きぃんと残響のように空間を震わせる。その一声がきっかけとなり、硬直していた誰しもが一斉に動き始めた。


 対峙していた怪異が吼える。怪物の喉元から放たれたそれは、あらゆる動物の鳴き声を混ぜ合わせ、無理矢理に繋ぎ合わせたような異形の波長となって二人の体を叩く。


 四足獣は躊躇することなく床を蹴り、その巨体を一気に加速させた。彼方にいたはずのどす黒い気配が、瞬く間に距離を詰めてくる。

 その速度はもはや、考える余地すら与えてくれない。訳も分からないまま純悟は一歩、大きく後ずさるが、退避するその速度よりはるかに早く巨大な獣が飛び掛かってくる。


 突風が真正面から肌を叩き、わずかな痛みすら走らせた。気が付いた時には目の前に“穢れ”の姿があったが、その間にあの“紅蓮”の姿が割り込んでいる。

 結子は持っていた缶ビールを放り捨て、両手を振り上げていた。突風によって彼女の束ねた赤髪がばさりと舞い上がり、炎のように空間を染める。


 “穢れ”は大きく裂けた口を開き、立ちはだかる結子に食らいつこうと突進してきた。ばっくりと開いたその口の中に、大小さまざまな牙が並んでいるおぞましい光景を、純悟もはっきりと認識する。


 襲い掛かる巨大な“穢れ”目掛けて、結子はすぐさま己が内に秘めた“力”を解き放った。


 びしり――と空間そのものが軋む。怪異の巨体は視えざる力に衝突し、寸前で食い止められてしまった。


 しかし、なおも四足獣の姿をしたそれは、前へ前へと肉体を押し込んでくる。結子の力は巨体をひたすらに押し返そうとするが、少しずつ、数センチずつ互いの距離が縮まりつつあった。


 純悟は唖然としたまま、足を止めて突風の中心を見つめる他ない。無色透明の空気が幾度となく光を放ち、その度に床が、壁が、天井がぎしぎしとたわんだ。


 そんな純悟の目の前で、結子が一歩、明らかに後ずさりしてしまう。両手を掲げたまま歯を食いしばる彼女の表情には、これまでのような余裕の色は微塵も浮かんでいない。


 突風によって、結子が浮かべた冷や汗が一筋、後方へと吹き飛んでいく。これまでとは明らかに違う彼女の“異変”に、純悟はたまらず彼女の名を呼んでしまった。


「――結子?」


 びきり――と、音を立てて廊下のガラスにひびが入る。襲い掛かってくる圧を受け止めながら、それでも結子は必死に叫んだ。


「駄目だ……こいつ――ただの“穢れ”じゃあない……ッ!?」


 また一つ、巨大な獣の牙がこちらへと近付いてくる。四足獣が前足を振り回すことで鋭い風が生まれ、結子の透き通った肌をわずかに斬り裂き初めていた。


 力を持たぬ純悟には、なにが起こっているのかを理解しきれない。しかしそれでも、目の前で苦しむ結子と、それに迫ってくる巨大な獣の姿から読み取れることがある。


 これまで幾度となく、遊子屋結子という女性はその身に宿った“力”によって、奇々怪々なる存在たちと渡り合い、退けてきた。向かってくる怪異の力にもろともせず、真っ向からそれをねじ伏せるだけの圧倒的な実力がその赤い体の奥底には眠っているのだ。


 その結子の力が、通用しない――なおも結子は前を向いたまま「逃げろ」と告げるが、あいにく混乱のさなかにある純悟の肉体は、まるで思い通りに駆動してくれない。


 前を向いたまま、それでもなんとか純悟は一歩を踏み出す。その足に、自身が運んできたはずのスポーツバッグが引っ掛かり、爪先に鈍い感触が伝わった。


 転びそうになってしまう純悟だったが、不意に視線を走らせ、我に返る。足元のスポーツバッグからは、これから清掃に使うであろう“水”を収納したペットボトルがいくつも覗いていた。


 迫ってくる脅威に対し、「逃げなければ」と何度も本能が叫んでいる。こちらに向かってくる圧倒的な殺意を前に、少しでも距離を取れと心の奥底にいる自分が訴えかけているのだ。


 そんな防衛本能に抗うように、やはり純悟は視線を走らせ、なおも耐えている“彼女”を見つめてしまう。結子はその赤い体を必死にたわませ、自身の何倍もある“穢れ”を食い止め続けている。


 この場から逃げるということは、すなわち彼女を置き去りにするということだ。今危険から目を背けるということは、一人の女性を犠牲にするということなのだ。


 逃げろ――結子ではなく、純悟自身の心が強く叫ぶ。


 だが痛いほどに打ち付けるその感覚に、純悟は歯を食いしばり、真っ向から反抗した。


 気が付いた時には、純悟は足元のバッグから“水”の入ったペットボトルを引き抜き、それを目の前の怪異目掛けて投げつけていた。“御神酒”がたっぷりと入ったそれは放物線を描いて飛び、真っすぐに四足獣の頭部へと迫る。


 純悟のまさかの行動に、結子までもが息をのんでいた。一方、“穢れ”は自身に飛来するそれを複数の目でしっかりと見据え、鋭く並んだ牙で瞬く間に嚙み砕いてしまう。


 無色透明のプラスチック容器は、怪物の牙を受けて一瞬で瓦解した。しかし、その内部に満ちていた“御神酒”が溢れだし、怪異の口元で弾ける。


 この一瞬の“奇跡”に、結子は賭けた。彼女は一歩を強く踏み込み、気合一閃の雄叫びと共に力を“穢れ”へと集中する。


 結子の体から流れ出た力が、“御神酒”を媒体として一気に空間に広がっていく。わずかな灯が燃料を喰らい業火となるように、明確な炸裂音と共に廊下全体を無秩序に貫いた。


 霊感を持たぬ純悟にすら、すぐ目の前の空間を稲妻のような輝きが駆け抜けるのをしっかりと知覚してしまう。閃光がほとばしる度に火花が散り、そこら中で生まれた熱は肌を容赦なく焼いた。


 音が消え、視界が白一色に染まる。

 臨界点を超えた力は制御を失い、一気に膨張――炸裂してしまった。


 一撃は巨大な“穢れ”の肉体を弾き飛ばしたが、周囲の壁や床もまとめて砕き、破壊してしまう。力の奔流は翻弄される純悟の肉体をも巻き込み、容赦することなく真横へと吹き飛ばしてしまった。


 意識が加速し、景色がスローモーションに流れていく。コンクリートの床が崩れ、壁が剥がれ落ちるなか、なおもその真っ白な世界の中心に“紅蓮”が踏みとどまっていた。


 足場が消え、空中に体が放り出されるそのなかで、純悟はとっさに彼女の名を叫ぶ。しかし、どれだけ手を伸ばそうとも、放たれた力は容赦することなくその体を吹き飛ばし、遠ざけてしまう。


 天井が崩れ、視界が瓦礫で埋め尽くされる。天地上下を失った純悟の肉体は、固い感触に幾度も叩きつけられながら、途方もない奈落の底へと落ちていった。

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