揺れる満員電車。
この息苦しさは二十年経っても変わることなく、背後から押し寄せる仕事帰りのスーツ労働者達の圧から両腕を壁に突き囲うように守ってはいるが、距離が近いせいかソフィアの機嫌はすこぶる悪い。
ずっと俯いているし目も合わせず、唇は尖って、怒りのせいか耳まで赤い。
このあとどうやって機嫌を取ろうか……。
不可抗力とはいえこんな至近距離でおっさんに密着されたらそりゃしんどいわ。
後この沈黙の時間が俺にはとても堪える。
何か話題を振ろうにも無反応だった場合の精神的ダメージを考慮するとどうしても守りに入ってしまい中々最初の一言が出てこない。
会話できる時はそれなりに弾んでいるようにも感じるんだが、シャロシュの言うようにこういった無意識の考えが既に若者にとっては『おっさん』なのかもしれない。
そんな思考と俺以上の『おっさん』達に揉まれながら、ふいに大きく電車が揺れる。
「——っと、大丈夫か?」
電車初体験のソフィアは当然この揺れ具合に慣れておらず思わずバランスを崩したところで咄嗟に肩を抱いて支え、
「——。近い」
「あ、す、すまん」
がっつりと俯いたまま表情を伺うこともできず軽く腕を押し返して淡白な応答。
難しいな、十代。
***
あれから電車を乗り換えること数本。
俺の地元へと向かうにつれて乗客の少なくなる電車の中。
特段不機嫌なわけでもないが無言のソフィアと、何か話題を切り出すべきか敢えて沈黙を貫くべきか悶々と考えた挙句、現世に戻ってきた事で蘇った『当時聞いていた楽曲の鼻歌』を歌って場をやり過ごそうとする浅はかな逃避を図ってしまった俺。
掠れた蚊の泣くような鼻歌が静寂の中に漏れ出しているという痛々しい空気感。
何がというわけではないが、辛い!
「それって、勇者の作った歌?」
「ん? ああ、いや、昔俺が聞いてた歌手の歌だよ……今はもう流行ってないだろうが、当時は」
まさかの鼻歌に興味を抱かれてしまった。
ただ会話のきっかけが生まれたことに多少気持ちが和んだ俺は話をしようとして僅かに口を紡ぐ。
面白いのか?
俺が今しようとしている『知りもしない昔の歌手の流行っていた頃の思い出話』っ!?
待て、考えろ涼真。
【思考加速】を最大限活かし、ソフィアがこの問いを放った本質を見極める。
今この瞬間に相応しい最適解をっ——。
「この世界に来た時から感じてた。この世界には色んな『音』が溢れてる。色んな人達の何気ない声、重たい機械の音、吟遊詩人——じゃなくて歌手? が近くにいるわけでもないのに何処からともなく沢山の『歌』が色んなお店から聞こえてくる」
どこか嬉しそうに口元を綻ばせる美少女の横顔に、俺はいつの間にか見惚れて。
「勇者の世界には、平和な音が沢山溢れてる。たまにうるさく感じても、心を惹きつけられてしまうような不思議で素敵な音でいっぱいの世界、お父様はどう感じたかな」
ソフィアの純粋で透き通る夜空の様に澄んだ笑顔。
僅かに自分の鼓動が早まるのを感じる。
ただ最後呟き溢した寂しげな台詞に、
「勇者、引きずるのが長すぎ! 笑ってくれないと話しづらい。ねぇ、勇者はお父様ならこの世界を見てなんて言ったと思う?」
「あ……」
思わず掠れた声が出た。
なぜこの子はこんなに強いんだろうか。
考えたところで、呆けている俺の顔を覗き込む膨れっ面の少女の顔を前に思わず納得と自然な笑みが溢れた。
ベリアル。おまえの娘は確かに『魔王の娘』だよ。
「ふん、脅威を忘れた人族の繁栄か。貴様らの『娯楽』がどれほど我に通ずるか試してみるがいい」
「へ?」
ベリアルの真似をしながらアイツの言いそうな台詞を語ってみたのだが。硬直するソフィア。
これは……やってしまった空気——。
「あは、あはははっ! 何それ! お父様がそんな勇者みたいなこと言うわけないのにッ! あははっ! 顔も全然似てないしッ!ふふふっ、お腹、お腹痛いっ」
堰を切ったように笑い声を上げるソフィアの姿に、俺は今までの色々が吹き飛ぶ様な高揚感と心から可笑しそうに笑う少女の笑顔に救われ、
「はは、ははは! そうか? 案外イケてたと——」
「いや、それはない」
「あ、はい。そうだな。全然似てないもんな俺とアイツは」
「うん、似てない」
スンと表情を切り替えたソフィアが空返事で俺の行き場のない高揚感を受け流しつつ窓の外に視線を向ける。
「綺麗な景色——」
少女の機敏な感情の移り変わりについていけない三十五歳。
地上最速と謂れるヒョウ系の獣人族にすら足で追いつけるんだぞ俺はっ!
虚しさしかない無駄な抵抗を遠くに放り投げ、手に顎を乗せながら何処となく不貞腐れてしまった表情で景気を眺める。
「お、もうすぐ着くな……懐かしい。この景色は変わらないままか」
駅近くには大手ショッピングモールやマンションなんかも立ち並んでいるが、少し遠くに視線を向ければ自然豊かな山々や田畑も見える、程よく都会な田舎の風景。
「ねぇ、勇者。私もこの世界の『歌』、歌える様になる?」
到着のアナウンスが流れる。
景色を眺めていた窓から振り返ったソフィアの湛える笑顔に、やはり感じてしまう鼓動の早まりを抑え、笑顔で応えた。
「ああ、絶対にソフィアなら上手く歌える」
「そっか……楽しみ」
歯に噛むソフィアの頭を思わずポンポンと兄心とも呼べる感情で撫で付け、
「——そうゆうの、ズルい」
俯きながら何事か呟いた少女の小声を駅構内の雑音が掻き消し、疑問符を浮かべる俺の背中を少女の手のひらに押されゆっくりと開いた電車のドアから駅のホームに足をつける。
ダンジョンという不可思議な要素が加わった故郷でも変わっていない景色があることに感慨。
ソフィアを伴って童心に返った様な気持ちを抑えられず改札の出口へと向かい、
「えーっとお客さん、〈デバフォン〉の電源切れてないです? 改札が反応——え? 現金乗車? はぁ、今時現金……」
反応しない改札の扉に堰き止められた俺の童心は、渋い対応や後方から聞こえる小さな舌打ちにパッと鳴りを潜め、哀愁漂うおっさんの対応で方々に平謝りを繰り返し、粛々と改札を後にしたのだった。