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第8話 沈殿する想い

 六月も半ばになると、梅雨の話題で持ちきりだ。

 バイト先に着き地下の待機所に向かうと、八木やぎを含む他の先輩従業員たちが「今年は長くなるんだって」「レイングッズがいくらかわいくなっても嫌なもんは嫌よ」などと、ニュース番組などから得た情報をもとに会話を繰り広げていた。


「あ、入野いりのくんだ、おはよう。今日、柳木やなぎくん遅れるんだって?」

「はい。放課後残って練習してるみたいで」

「大変だね。入野くんはいいの?」

「今日のところは大丈夫でした」


 八木と雑談としていると始業時間になった。従業員たちはそれぞれ〈清掃待ち〉の部屋へ散っていく。

「じゃあ俺らも行こっか」

「はい」


 独り立ちした今でも、八木と組む機会は比較的多い。その日の班編成は社員が決めているので、八木が根回しして……ということではないと思うが、疑ってしまうほど班が一緒になる。

 真紘まひろのことが好きだと八木にばれてからというもの、真紘との出来事を根掘り葉掘り訊こうとしてくるので、かわすのに苦労している。


 従業員用エレベーターに乗り込み階数表示をじっと見ていると、

「どうせ俺と組むの多いなーとか思ってたんでしょ」

 と、図星を突かれた。言い返せない。


「前も言ったけど、入野くんわかりやすいんだってば。入野くんからしたら俺は要注意人物なのかもしれないけど、俺は嬉しいからさ、仲良くしようよ」

「仲良く……」

「そ。だってさ、今まで誰にも言えずに秘めてきたわけでしょ?  誰かに話せるって楽じゃない?」

「それは……そう、かもしれないですけど」


 エレベーターが目的の階に止まり、〈清掃待ち〉の部屋へ入る。八木の言うとおり、正直なところ陽向は少しほっとしていた。

 真紘への想いを口にしても許される場があるというのは、思いのほか陽向の気分を軽くしてくれたからだ。


「話せるときに話しとかないとしんどくなっちゃうよ。長いこと自分の中に秘めてるとさ、宝物みたいだった気持ちが、あるときどろどろに溶けて膿みたいに変わっちゃうこともある。そしたら自分で自分の気持ち疑うようになって、しんどくてたまらなくなるから」

 八木の声にはやけに実感がこもっていた。


「そうならないためにも、誰かに話せるっていうのは大事なんだよ。自分以外の誰かが自分の気持ちを知ってくれてると、自分が相手に抱く気持ちが嘘じゃないって証明になる」

「……そんなふうに考えたこと、なかったです」


 八木が柔らかく笑った。

「大事にしてほしいよ。入野くんが柳木くんを思う気持ち。なにも間違ってないんだから」


 八木に言われるまで思いもしなかったけれど、陽向も宝物を自らだめにする可能性を秘めているのだ。恋を諦めることと、真紘を大事な存在としておくことは、両立できると思っていた。


「いろいろ訊いちゃったし、警戒してると思うけど、俺は誰かに言いふらしたりしないから。同性を好きになる戸惑いも苦しみも、少なからず知ってるつもりだよ」

 恋愛対象が男だとはっきり自覚している八木の言葉を疑うつもりはない。

「八木さんが……というよりも、ただ、今まで誰にも言ってこなかったので」


 真紘との日々の何気ない会話やちょっとした触れ合いに、どきどきと胸を締め付けられて、その度に大切に大切に磨かれていった想い。それらは誰にも触ることのできない奥深く、大切なところにしまい込んでいた。


「だから、どうしていいか……本当に、戸惑ってます」

「そうだよね……。ちょっと無神経だった」

 八木は目を伏せた。

「よーし、入野くんの恋心を腐らせないために俺頑張っちゃうぞ!」


 ……はい?

 なぜそうなる。無神経だったと目を伏せたばかりだ。てっきりこれで、根掘り葉掘り訊かれることはなくなると思ったのに。

 想いを否定されないのはありがたい。けれど、依然としてデリケートな部分かつ、話題であることには変わりないのだ。


「……ええっと?」

 引きつった口元をなんとか笑みで飾り、八木を見た。


「で、入野くんは柳木くんのどこを好きになったのかな?」

 清掃の手は止めずに、八木は期待に満ちた視線を向けてくる。


「……い、言いませんよそんな……」

「もっと楽になるかもよ」

「べつに俺は楽になりたいわけじゃないです。この気持ちが重いとか邪魔だとか、そんなふうに思ったことはないですから」

「だからだよ」

「え?」

「普通はさ、長い間じっと誰かを好きでいるって簡単じゃないんだよ。途中で虚しくなってしんどくなる。自分の想いは返ってくることはないってわかりきってて、それでも好きでいるのは難しい」

「……膿っていうのは」

「そ。そういうところからも出てくる。簡単な話、拗らせちゃうんだ。見返りなんていらない。ただ、好きでいられたらそれでいい。そうやって始めて、育ててった恋なのにさ。ふとした拍子に怖くなるんだよ。行き着く先が暗いんだ」


 ――行き着く先。

 陽向と真紘のこれから。ネイリストとヘアスタイリスト。専門学校を出たら別々の時間を過ごしていく。

「入野くんがどれくらい長いこと片思いしてるのか知らないけど、辛くなる前にさ」

「俺は本当に真紘とどうこうなろうと思ってないんです。見返りも求めてない。だからこのままでいいんです」

「それで入野くんは先が明るく見えてるの?」


 見えない。だから諦めるんだ。

「実は俺、もう真紘のこと諦めようって思ってるんです。専門通ってる二年でちょっとずつ、真紘のことをただの幼なじみって思えるようになろうと思って」


 陽向がゆっくり言葉を選びながら言うと、八木はとんでもなく呆れたと言わんばかりに大きなため息をついた。


「あのね、入野くん。諦めようって思ってる時点で、自分と同じものを相手にも返してもらえたらいいなって思ってるんだよ。ただ想ってるだけでよかったら、そもそも諦めようなんて考えにはならない」

「――それは……」

 その先は言葉にならず、宙に浮く。


 真紘が彼女を作らないのは、もしかしたら。

 何度となく頭をちらついた期待。

 そうだったらいいのに、は陽向の都合のいい解釈だ。

 相手にも同じだけの気持ちを返してもらえたら幸せに違いない。でもそれは難しい。

 だったら、想っているだけで、いい? 本当に?


「……っ」

 喉がつかえた。どくどくと心臓が否定の音を立てる。


「ほらね、やっぱり外に出した方がいい。入野くんには言っても許される場所がある。今の場合は俺だから、俺に言ったらいいよ。……内に溜めてダメにしたい?」

 八木に問われ、陽向はゆるゆると首を横に振った。

「それがいい。入野くんの想いはまだ腐ってない。生きてるんだから」

 ね、とウィンクが飛んでくる。


 八木でなく他の人間がやれば見事に空振るであろうその仕草は、陽向が少しでも話しやすいようにという、八木なりの配慮のような気がした。


 想っているだけでいいなんて、自分をなにか美しいものにでも形容したかったのだろうか。


 本当は綺麗じゃない。大なり小なり期待はあって、同じ想いを返してもらえたら幸せだと思っていた。予兆はすでにあったのだ。


 それらの予兆は当たり前の感情であると同時に、一度持つと深く根ざしてしまう。

 きっと陽向は無意識に危険な要素を引っこ抜き、好きだと思うだけでいいんだという殊勝な心構えだけを残していた。

 それでも水を与えすぎたら腐る。


 だからその前に自ら根元から手折って――。


 自分のしてきたことを理解して、陽向はぞっとした。

 これはある種の傲慢だ。

 背中をぞわぞわと這い上がるのは目を逸らしてきた本音だ。


 陽向はこわくなった。

 こわくてたまらなくて、彷徨わせた視線が辿り着いた先で、八木はすべてをわかっているように一つ頷いた。


 誰にも話したことのない宝物――気持ちの始まりを語るための第一声は、やけに緊張した。


「……真紘に、金平糖をもらったことがあるんです」

 ひと言打ち明けた途端、ふっと心が浮く感じがした。

 次いで、鮮やかに色づいた記憶がきらきらと言葉になって口からこぼれていく。


「うんと小さいときの話です。たぶん俺と真紘が五歳くらいのとき、俺はなぜか泣いていました」


 母に怒られたのか、なにか特別悲しいことがあったのか、内容はいくら思い出そうとしても思い出せない。

 一向に泣きやまない陽向を見かね、真紘は走って家に帰ってしまった。そのあとも陽向が泣き止むことはなく、気がつけば再び真紘が陽向の前に立っていた。


 真紘は小さな手をずいと陽向に突き出し「家から持ってきた」と、手のひらいっぱいに淡く色づいたカラフルな星粒を差し出した。

「これ食べて元気になって」と口に入れられた星粒は、すごく甘くてやさしい味をしていた。


 ――こんぺいとうっていうんだよ。

 そのとき初めて、星粒の名前を知った。


「たぶん真紘は覚えてないと思いますけど、真紘と真紘がくれた金平糖が俺の心を丸くしてくれたんです」

 星粒を摘んだ真紘の小さな指の、ぽっと温かな温度が嬉しかった。

 この甘くて優しい星粒の記憶が、おそらく陽向が真紘を好きだと思った出発点だ。


「……なんかめちゃくちゃロマンチック」

「昔のことなんでだいぶ美化されてるとは思いますけど」

 ロマンチックかはさておき、大切な記憶だということは確かだ。

「ほんとに柳木くんに気持ち伝えないままでいいの?」

「それはいいです。こうして八木さんに聞いてもらえただけで十分です」


 これで陽向が真紘を好きでいたことの証明ができた。自分以外の誰かが知っていてくれる。なかったことにはならない。だから――。

「八木さんに話せてよかったです」

 自然に笑顔が溢れた。

「……ちょ、ちょっと待って! 一回落ち着こう!」

「え?」


 わりとスッキリした気持ちでいた陽向は、なにか焦っている様子の八木を見て首を傾げた。


「なんか今の入野くんさ、こう……なんというかさ!」

 そうじゃないんだと八木は嘆く。


「抱え込むのって苦しいしよくない。だから少しでも入野くんが楽になってくれたらいいなって思った。それは嘘じゃない。でもなんかちょっと楽になりすぎてない!?」

「え……そうですか? やっぱり話す前は俺なりに葛藤があったし戸惑いましたけど」

「いやね、結果オーライではあるようだからいいんだけど、なんかもう全部終わってスッキリしましたみたいな顔してるからさ」

「はい、スッキリしてます、驚くほどに。あと八木さんに知ってもらえたおかげで、もし俺がいなくなっても、真紘への想いは嘘じゃなかったって証明にもなるからって」


 八木は人差し指でびしっと陽向を指差した。

「それ! それだよ! 俺言ったよね、入野くんは想いはまだ生きてるって」

「はい……」

「入野くんがあと二年で諦めることにしたのも、たぶんすごい悩んで決めたんじゃないかと思う。でもなんか……これは俺の単なるお節介で押し付けなんだけどさ」


 八木はわずかに逡巡し、言った。

「なんていうか、後悔しないかなって。入野くん、諦めるための二年間のプランに、柳木くんに告白するって項目は入ってる?」

「ないです」

「それ、ほんとに後悔しない? 俺がさっきから言ってるのはこれなんだけど」

「もともと伝えるつもりなかったですから」

 結果的には八木によって、相手にも同じ気持ちを返してもらえたらという期待を抱いていたことには気づかされたけれど。


 だからといって、自分から気持ちを伝えようとはやっぱり思えない。真紘を悩ませるのは嫌だし、亀裂が入って最悪の場合、真紘が離れていくことも考えられる。その方が陽向は耐えられない。このまま幼なじみを続けていけた方が幸せだと思う。


「頑なだなぁ。その点、柳木くんの方が柔軟というか」

「……真紘?」

「なんでもないよ」

 八木は仕方がない、もうお手上げ、といったふうに頭を横に振り、ソファに座り込んでしまった。


「時間オーバーしちゃいますよ」

 ひと部屋を仕上げる目安は約十五分だ。

「まぁまぁ、ちょっとくらい大丈夫だって」


 大丈夫では、ないと思う。一応手は止めずに話していたけれど少し時間が押している。うなだれて動かない八木をよそ目に陽向は風呂を拭きあげにかかった。


 拭きあげを終わらせて出てくると、八木が決然たる顔をして、

「ちょっと昔話をしようと思う」

 と急に切り出した。


「やっぱね、フェアじゃない。……うん、フェアじゃない。入野くんも話してくれたんだし」

「八木さん?」


 八木はしきりにうんうんと頷いたあと、ゆっくりと話し始めた。

「俺ね、今は特定の彼氏っていないんだよね。というのも、ちょっと過去に辛い恋があって、というありがちな話なんだけど」


 そう前置きがされた昔話というのは、八木が心底好きだった相手についてで、その相手が今はもう会うことのできない距離にいるという内容だった。

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