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第10話 隠し事

 真紘まひろに気持ちを伝えようと決めてから、陽向ひなたの生活が激変したかというと、残念ながらそうではない。


 相変わらず学校にバイトにと忙しい毎日を送っている。ただそこに、以前よりもさらに比重をかけて真紘のことを意識している。


 諦めなければと思っていたときも、好きでいるのは陽向の自由だからと、好き勝手に真紘を想っていた。けれど今は諦める前に告白するという、一つ前向きな課程が増えた。


 無意識のうちに抑えつけていた欲求までもが全開放されてしまった今、日々自分を制御するのが難しい。


 満員電車での密着が大胆になった。部屋でくつろぐとき、真紘が膝枕を求めてくるのがもっと嬉しくなった。練習兼ケアと称して真紘の手に触れると、前よりもさらに幸せな気持ちになった。あらためて恋を自覚して、真紘のどんな仕草にもときめいた。


 好きだなぁ。

 毎日、何度もそう思う。


 しかし専門学校へ通う二年間で少しずつ真紘への想いを整理していこうと決めていた作業とは、一旦別の方向へ舵を切っているため、正直どうしていいのかわからないというのが本音だった。


 いきなりなんの脈略もなく告白っていうのも違うしなぁ。


 どうせ玉砕するのなら卒業間近にして潔く散ってばいばい。お互い仕事頑張ろうね、じゃ! という流れの方がいい。玉砕して気まずいまま残りの学生生活を送るよりも、真紘と毎日楽しく過ごせる日が少しでも多い方がいい。

 元々は陽向の中でのみ完結する想いだったのだから、言い逃げみたいになったとしても、勇気を出して告白するという前向きな行動を取るだけでも上出来だろう。


「……とは言っても、最近真紘といる時間減ったけどね……」

 無念を多分に含んだ小さな独り言に返事はない。


 現在陽向は、街が起きてぎらぎらと眩しい繁華街を横切り、一人でバイトへ向かっている。

 真紘は遅刻せずに行っているはずで、陽向は二時間遅れで出勤する。

 ここ最近の陽向と真紘は期末試験を控えていて、これまでに増して忙しい。放課後残って練習、家でも練習の毎日。バイトも休まざるを得ない状況になることもままあった。


 そんな状況なので、真紘とは帰宅時間が違うこともしばしばだ。メッセージアプリでやり取りはしているけれど、お互いの部屋の行き来も減っていた。

 親たちは「まさかこんな日がくるなんてねぇ」と、陽向と真紘のすれ違い生活を見て笑っているけれど、『こんな日』はこれから当たり前になっていくのだ。寂しくてたまらない。

 ずっと真紘と、おはようからおやすみまで一緒にいられたらいいのに。





 ラブホに着くと、客室清掃を担当する従業員たちは、客室の清掃がひと段落して地下の待機所で休憩しているところだった。

 陽向は急いで身支度を整え、今日の班編成を確認する。

 あ、やった。今日は真紘と一緒だ。


 働き始めて一ヶ月以上経つけれど、まだまだ真紘と二人で組める機会は少ない。

 遅刻して申し訳ないと思いつつ、練習頑張ってよかったなと現金にも思った。


「あの、真紘ってどこにいるかわかりますか? 喫煙所ですかね」

「二人ともまだ喫煙所にいると思うよ」

 喫煙者の客室清掃の一人が言った。

「ああ、八木やぎさんとですか?」

 今日の出勤メンバーの中で喫煙者なのは、陽向の問いに答えてくれた先輩と八木だけだ。

「そうそう。相変わらずゲスい話してるからおじさん先に降りてきちゃった」

「ありがとうございます」

 礼を言って喫煙所に向かう。


 ゲスい話とはなんだろう。陽向が知る限り、真紘も八木もそのような話をするタイプではないのに。

 喫煙所は外にある。きちんと仕切られたスペースがあるわけではなく、配電盤や謎のタンクがある辺りの空きスペースに、足付きの灰皿と古いパイプ椅子が置かれているだけの簡易喫煙所だ。


 喫煙所に繋がる階段を上がっていくと、真紘と八木の声が断片的に聞こえてきた。


「――入野いりのくん可哀想にね」

 突然自分の名前が出て、陽向は反射的に足を止めた。


「彼、柳木やなぎくんのこと童貞って信じてるよ。きみ結構遊んでんのにね」

「その話何回するんすか。もうそろそろ陽向来る時間だしやめてもらっていいすか」

 不意に心臓が跳ねた。

 いったい、誰の声だろう。

 ほぼ十八年間毎日聞いてきた声のはずなのに、冷たくて深いところを這うような声。まるで雰囲気が違う。

 戸惑っている間にも二人の会話は進んでいく。八木の声音には真紘を挑発して遊んでいる色が濃く含まれていた。


「だってさー、入野くんの前では聖人の真似事とかまじでウケる。この前だってさ、柳木くんより年上の女と歩いてなかった?」

 ……え?

「やめなよ、こんなバイト先に近いところでさー」

 ……なに?

 いったい八木はなんの話をして――。


「この前のは、別にやるつもりでいたわけじゃないすよ」

「柳木くん的にはでしょ、それは。結局やったんだから」


 ざっと思考に紗がかかる。

 やるって、なにを。


 ――彼、柳木くんのこと童貞って信じてたよ。

 八木の言葉が頭にまわる。


「別に相手なんか誰でもいいんで」

「うわー、モテる奴の発言こっわ。てかどこで引っ掛けてくるわけ?」

「向こうからくるんすよ」

「で、断らないと。入野くんに嫌われても知らないよ」

「なんであんたはなにかにつけて陽向陽向言ってくるんだよ」

「だって柳木くんの弱点っしょ。そこ突いたらボロ出すから面白くって。なんか年のわりに落ち着いてるとこあるし柳木くん」

「……陽向に余計なこと言うのやめてくださいよ。あいつには知られたくない」


 走馬灯のように駆け巡る真紘との思い出。陽向が知っている真紘が遠のいていく。


 この間っていつ? 最近は練習が忙しかったんだよね? だからバイトの日以外の帰りは別々だった。そうだよね?


 真紘は陽向に隠し事なんてしない。嘘もつかない。陽向は真紘のことならなんでも知っている。

 ……違うの?


 真紘が陽向に隠したかったことは、これだった。

 嘘をつかれていた。

 なんで。

 どうして。


 思えば真紘は、一度も童貞じゃないとは言葉にしなかった。付き合わなくても体の関係を持てる人もいる。けれど真紘がそれをする人だとは思わなかった。

 だって真紘は陽向に言った。むやみやたらに童貞を卒業するもんでもないって。


 ……それなのになんで?


 教えてくれたらよかったのに。一人で童貞童貞と騒いでいた自分がバカみたいだと思った。真紘なら陽向のことを笑わないと確信があったからこそ、馬鹿正直に話していたのに。


 でも本当はずっと笑ってたの? 勘違いしてる俺見てどういう気持ちだったの?


 八木が言っていることはなにかの間違い。そう思いたいのに当の真紘本人が否定しない。

 裏切られた。

 シンプルに陽向はそう思った。

 真紘は、好きな人じゃなくても抱けるんだ――。


「じゃあせめてなんで彼女つくんないのか教えてよ。べつに実は男が好きなんですとかじゃないんでしょ?」

「……」

「え、やだ、まじでそうなの? なんだじゃあ抱いてよー。俺けっこう柳木くんの見た目タイプなんだよね」

「俺は違う」

「じゃあなに今の沈黙。期待持たせるようなことやめてくんない?」

「あんた陽向のことちょっかいかけてたくせに、俺が目当てかよ」

「それは柳木くんがおもしろいからじゃん。陽向くんと俺が仲良くしてんの嫌だったっしょ」


 陽向に過去の話を聞かせてくれて、背中を押してくれた八木が、こんなにも軽く付き合ってもいない相手を誘うことができる。

 つらい経験があった。後悔したと語ってくれた八木が、こんなにも軽薄なことを口にできる。


 悲しくて、両者ともに信じられなくて、放心して身体に力が入らず、陽向は壁に背を預けた。その拍子に、片足を滑らせてしまった。


 ゴムソールの草履が、ジャリと音を立てる。

 ――っ。


 途端に話し声がやむ。陽向は息を詰めて階段の先を見る。

 気づかないで。

 念じて、地上に背中を向け、もつれそうになる足で急いで階段を降りる。


「あ、入野くんだ、おはよう」

 八木の声に引き止められた。

 直ちに去りたいのに、先輩である八木が挨拶をしてきては足を止めざるを得なかった。

 なるべく平静を装って陽向は振り向いた。


「おはようございます。あ、真紘もいたんだ」

 たった今来たばかり。真紘を探していたわけではない。そういう自分をとっさに演じた。

「陽向、お前……」

「なに? 俺、戻らないと」

 急ぐ仕事はないと喫煙所で休憩していた二人なら知っている。

「……話、聞いてた……よな」

 本当に陽向にばれたくなかったとわかる話し方だった。おそるおそる、違うと言ってくれ、のような。


 真紘は隠したがっている。陽向はひと言「聞いてないよ」と言ってやればいい。そうすればいつも通り、真紘のことならなんでも知っている陽向でいられる。

 けれど陽向は聞いてしまった。なかったことにはできない。真紘のことならなんでも知っている陽向には戻れない。


「……陽向?」

 好きな人から呼ばれる自分の名前が好きだった。でも今は――。


「……幻滅した」

 たったひと言、真紘には到底向けたことのない軽蔑を滲ませた声で。

 真紘が息を飲む。


 外の暗さで照明の下にいる陽向から真紘の表情はよく見えない。反対に、真紘から陽向の表情はよく見えているだろう。

 きっと痛い顔をしている。幻滅したと口にした途端、胸が痛んだ。真紘はどんな表情をしているんだろう。なんとか取り繕おうと慌てているだろうか。

「陽向っ、違うんだ」


 なにも違わない。階段を駆け下りながら、見知らぬ女を抱く真紘を想像した。間違いなく陽向の知らない顔がそこにはある。

 誰かを抱く真紘を陽向は知らない。好きでもない相手でも抱ける真紘を陽向は知らない。


 せめて、と思う。

 相手は真紘の好きな人ならよかった。そうしたら、陽向だって真紘の幸せを願って諦められたのに。真紘が好きになる子ならきっといい子だからって。

 なのに、ただの遊び。理解ができない。

 痛んだ箇所から怒りが湧いてくる。

 欲を発散したいだけなら、俺でもいいじゃんか。

 言えない気持ちはじくじくと傷口を広げ続けた。


 待機所に戻るとほかの従業員たちと不自然なくらい積極的にコミュニケーションをとった。できるだけ真紘や八木に話かけられる隙をつくりたくなかった。


 その後客室に動きがあり、清掃に入る直前になって、陽向が出勤時に見た班編成が変わっていることに気づいた。本来なら真紘と組むはずのところが、陽向の相手は真紘たちがゲスい話をしていると言った先輩になっていた。


 さすがにまずいと思った八木が機転を利かせたのか、それとも真紘本人が申告したのかはわからない。どちらにしても、陽向にとっては都合がよかった。

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