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エピローグ

エピローグ

 放課後、退屈な授業も終わり、僕は旧校舎へと向かった。

 古ぼけた円形の校舎に入り階段をあがる。

 最上階まで来たところで鍵がかけられた両開きのドアに手をかける。もう何度も開けているので今更目を閉じて集中する必要もなくすぐに鍵が解除された。

 部屋に入って鍵をかけなおす。近くのパネルに手を伸ばし、室内の照明を点ける。

 段階的に室内が明るくなっていくのを感じながら階段をくだっていつも座っている席へ向かう。

 パッと蛍光灯が点いて僕がいるところも明るくなる。

 湾曲した長い椅子で、田喜野井海美が寝ていた。

「……この人はもう」

 両手を組んでお腹の上に置き、仰向けで寝ている。起こさないようそっと近づいてゴムが入ったアイマスクを掴み、ググッと引っ張って離す。

 パァンッと小気味いい音が鳴り、田喜野井海美がびくんっと身体を九の字に曲げる。

「いたぁ~い……」

 高い声で痛みを訴えながらもぞもぞと動く田喜野井海美。やがてむくっと起き上がってアイマスクを外した。

「んなぁ……あれ? ゆずピじゃん。なに、もう放課後?」

 ぐにぐにと顔のマッサージをしながら田喜野井海美がぼそぼそ喋る。

 僕はハッと明後日の方向へ息を吹き、離れた席に座った。

「せっかく高校に潜入してるのに放課後まで寝てるなんて『組織』は随分暇を持て余してるんですね」

「ん~? あぁ、そんなことないよ。『組織』は忙しいし、私の部下だって日々監視に務めてるんだから」

「……あんたは暇そうだ」

「暇になるために努力してるんだよ。ゆずピもお仕事するようになれば分かるよ」

 急にマウントをとってくる田喜野井海美。そういえば高校に潜入してるけどこの人本当はいくつなんだ。いい大人なんじゃないのか。

「それで? ゆずピ、紫帆ちゃんはどう?」

 どう、だなんてあまりにも大味な聞き方に僕は不快感を隠すことなく睨む。

 しかし彼女はそんな視線など気にも留めず、いつも通り不敵な笑みを浮かべるだけだ。

「アンタ達が監視してるんだからどうもなにもないでしょ」

「やだなぁ、私達じゃなくて、ゆずピの意見が欲しいんだよ。大切な人なんでしょ?」

「僕にとってはね。向こうにとっては知らない人ですよ」

 椅子の下に隠しておいたヘルメットを取り出し、スーツも用意する。

 ヘルメットは充電されてるし、スーツもこの前洗ったから大丈夫だろう。

 これで僕はいつでもスロウになれる。

「……まだ思い出してないのね」

「……そうですね」

 市道紫帆が海に落ちて溺れ、そこから僕が助けたものの、ひとつだけ障害が残った。

 水瀬柚臣に関する記憶を全て失くしていたのだ。

 スロウに関しても、ネットで出てる情報くらいしか憶えていないようで、スロウの正体が僕だということも忘れていた。

 医者は溺れたときの影響で脳にダメージが及んでしまったみたいなことを言っていた。幸いなことに日常生活において僕のエピソード記憶を失ったことはなんら支障がないので、今彼女は普通の生活を送っている。

 納得はしがたい。でも、これが現実だ。受け入れるしかない。

「紫帆ちゃんはゆずピに関する記憶を全て失ったのに、君はどうしてスロウであり続けているの?」

 ヘルメットの状態をチェックしていると田喜野井海美が訊ねてきた。

 チラッと視線を向けると彼女は頬杖をついて僕を見つめていた。いつもの揶揄うような、弄ぶような表情とは少し違う、シリアスな顔――本当の彼女は、こういう人なのかもしれない。

「理由はいくつかあります。まぁしいて言うなら2つですかね」

「気になるな。聞いてもいい?」

「僕がスロウを続けていれば、もしかしたら紫帆が思い出すかもしれないからです」

「君に関する記憶を?」

「僕とスロウは繋がってますから。なにかのきっかけになるかもしれません」

「2つめは?」

「……それより、どうして田喜野井先輩は紫帆を殺さないんですか。それが仕事だったんでしょ?」

 気になっていたけど、聞けてなかったことだ。なぜ聞けなかったのか理由は簡単で、全然会わなかったから。ただそれだけ。

 メンテナンスの作業を中断して身体を向けると、彼女は頬杖を外し、足を組んでこちらを覗き込んできた。

「あれは上からの命令。私だってできれば殺したくはなかったよ。なんて、言ってもゆずピは信じてくれないと思うけど」

「そりゃあそうでしょう。ていうか、そんな簡単に信条を変えるような人は余計信用できませんよ」

「私の信条は変わらないよ。付和雷同、長い物には巻かれろ、組織において代わりの利く歯車であれ、人生は機械のように物事を処理するのが一番楽で疲れない」

「ご立派な信条ですよ」

「ゆずピも大人になれば分かるよ。まぁとにかく、紫帆ちゃんを殺さないで監視してるだけなのは命令。殺せって命令が覆ったから。ただそれだけ」

「その命令が覆ったのは、紫帆が僕に関する記憶を全て失ったことに関係してるんですか」

「うん、それはもう」

 田喜野井海美が両腕を机に乗せ、肩を竦める。少し目線をさげて、ポツポツと隠された話を始める。

「紫帆ちゃんの現実改変は、あの日以来行われていない」

「林先輩が田喜野井先輩達を出し抜いて紫帆を誘拐したあれですか?」

「いや、その後だよ。あれが観測した中では最後の現実改変だった」

「その後? どこかで現実改変が行われたんですか? 近くをボートが通って僕達が救助されたこととか?」

 それらしい出来事を出して訊いてみる。しかし田喜野井海美はそうとは言わず、視線をあげてゆっくりと僕を見てきた。

「市道紫帆が水瀬柚臣に関する記憶を全て失った。おそらくそれが最後の現実改変」

 思わず言葉を失う。紫帆が僕を忘れたのは溺れたときの影響で――いや、そうなるように現実を、自分ごと改変したっていうのか。

 しかし、もしそれが本当だとしたら、彼女が忘れることを望んだのなら、もう一度思い出すということはないかもしれない。

 それに僕に関する記憶を思い出すということは、スロウへの願いも一緒に思い出すということだ。そうしたら、また現実改変が起きて彼女が狙われて――

「待てよ、現実改変が行われなくなったから狙われなくなったのか? そんな簡単に脅威って取り払われるものなのか」

 頭の中で突如生じた疑問を口に出し、答えを求めるように僕は田喜野井海美を見る。

 彼女は僕の言葉を聞き、再び前を向いた。

「ゆずピの言う通り、現実改変は行われてないだけで、その超能力を喪失したわけではない。少なくとも、組織はそう考えている。もちろん私もね」

「じゃあどうして命令が上書きされたんだ。アンタ達にとっては危険なのは変わりないんだろ?」

「最後の現実改変が行われたとき、彼女は意識的に超能力を使用した可能性がある」

 田喜野井海美の言葉に僕は再び言葉を失う。

「彼女はスロウが、つまり君が生き残る方法として私が直前に示唆した方法を試みた。自分が犠牲になること。それが無理ならスロウという存在が生まれなければいい。自分が記憶を失えば、君がスロウを続ける理由はなくなる。そう思ったんじゃないかな」

 今もスロウを続けてるのは想定外だっただろうけど、と付け加えて田喜野井海美が背もたれ代わりの後ろの席の机に寄りかかる。

「本当に、意図的に現実改変を起こしたのか? 確かに、直前でそういうことは言ってたけど……ほら、あれだ。レストランでの人質事件。あれだって直前に僕が超能力者の話をしてたんだ」

「超能力者同士の対決は、彼女が昔から望んでいたことではあった。幼い頃からね。無意識下にあった願望のひとつに過ぎない。ゆずピとの会話がたまたま引き金になっただけだよ。今回のケースとは違う」

「……もしも意図的に現実改変を行えるとしたら、紫帆はどうなるんだ」

「まだ分からない。ただ、利用価値があるかもしれないから抹殺は取り止めになった。それが事の顛末ってやつ。安心した?」

 安心できるわけがない。つまるところ、組織の連中は紫帆のことを実験動物扱いしているわけだ。

 いい成績を残せばさらなる実験へ、悪ければ殺処分。はらわたが煮えくり返る。

 ただ、猶予がもたらされたのは事実だ。それにもし現実改変が制御できるようになればきっと――ピーッ、ピーッ、ピーッ、とアラームが鳴り響いた。

 僕はハッとして立ち上がり、慌てて部屋の中央にあるコンソールへ向かう。

『――駅前のコンビニで事件発生。刃物を持った3人組が店員を脅しているとの通報があった。さらにそのうちの1人は店内ATMから現金を奪おうと――』

 犯罪の情報を聴きながらコンソールに映った地図で場所を確認する。

 ここならそれほど時間はかからないだろう。席に戻りスーツを着てヘルメットを装着する。

「出動ですか? あれ? あのマスクは着けないの?」

 田喜野井海美がすぐそこに置きっぱなしのスロウのマスクを指さす。

 あのとき取られたマスクはいつの間にかあそこに置かれていた。

「着けませんよ。好みじゃないんです」

「あらまぁ、せっかく紫帆ちゃんが作ったやつなのに」

「罪悪感がないわけじゃないですけどね。利便性には敵いません」

 ハッと口角を上げて笑い、ヘルメットのバイザー部分を軽く叩く。

 カシッと音が鳴ってバイザーが閉じる。システムが起動して視界がクリアになり、僕は視聴覚室を出る。

「ねぇゆずピ」

 ドアに手をかけたところで田喜野井海美に呼び止められた。

 振り向くと彼女は置いていたはずのマスクを持っていて、指先でくるくると回して遊んでいる。

「なんですか。急いでるんですけど」

「さっきの質問の続き。スロウを続ける理由の2つめは?」

 忘れてなかったのか。ごまかせたと思ったのに。

 僕はヘルメットの下で笑い、ドアを開けながら答えた。

「これが僕の日常だから」

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