千尋が家を出てすぐ、峰はオンライン会議に参加した。こういった業務時間外の労働は、ほとほとうんざりする。それでも自分は教師であることに誇りを持っているし、何よりなんだかんだ真面目な気性が怠惰へと逃してはくれない。
とはいえ今回の会議はスムーズに進み、思っていたより早くに終わった。それでも、もうすでに21時になろうとしているわけだが。
パソコンをシャットダウンし、シャワーを浴びる。この時間は、何も考えずに済む。頭の中を、空っぽにできる。
別にいつも計算ずくで生きているわけではない。それでも、気を使うべき相手というものはいるわけで。
シャワーを終えて、ボクサーパンツだけ穿いた状態で一度キッチンへ向かう。ドライヤーの前に一本煙草を吸うのが、いつものルーティンなわけなのだが。
「よ、さっぱりした?」
「……やっぱり来てたか」
キッチンの換気扇はすでに回っていて、その音は脱衣所まで聞こえていた。だからこそ、すぐに気付くことはできた。
煙草に火をつけようとすると、すでに半分ほど燃えた煙草を差し出された。それを受け取り、口に含む。押し付けた当人は、金髪を揺らしながらへらへら笑っていた。
「あ、それで最後だから」
「買ってこい」
「はいよ、他に何かいる?」
「別に」
峰を背にして彼は立ち上がり、「じゃあ俺自分のアイス買ってくる」と楽しそうに口にした。そのまま玄関へ向かい、外へ出ていく音がする。がちゃり、と扉が閉まる音もした。
時計を見ると、もう21時45分だった。確か彼が来るのは21時半の予定だったので、それまでにはすべて終えているつもりだったのだが……思いの外、シャワーを浴びながらぼんやりとしていたらしい。ひとまず、ドライヤーを当てることにする。
短髪なのもあってすぐ髪は乾き、ドライヤーを切ったタイミングで玄関の扉は開いた。
「たでぇま。一応3箱買ってきた」
「おう」
彼……田中椿から3箱分の煙草を受け取り、早速1箱開ける。銀紙を外しながら換気扇のもとへ戻ると、椿はすでにソファに座ってアイスクリームの包装を破っていた。
「げ、ちょっと溶けてら。会議どうだった?」
「いつもと何ら変わらなかった。いらねぇだろあれ、考案した奴暇すぎて脳腐ってんじゃねぇか」
「ははっ、口わるー」
他の人間には見せられないような横暴さも、椿の前でならさらけだせる。当の椿は溶けたアイスを舐め上げるのに必死なようだった。
「そういやさ、今日誰か来たん?」
椿の問いに、「何で」と返す。動揺ではなく、単純に気になった。
「二人分の皿洗ってあったから。『世話役』、今日誰も空いてなかったんじゃねぇの」
大した洞察眼だ。適当なカンで当てられただけであれば無視できたのに、証拠を提示されればどうしようもない。
仕方ないので、峰はぼそりと「一人増えた」と呟く。それを聞き逃しはしなかった椿は露骨に眉をひそめるが、すぐにまたへらりとした笑顔に戻る。
「珍しい、最近減ってばっかだったのに。どんな奴?」
「……元教え子」
それを聞き、椿は「マジで!?」と楽しそうに笑った。
「えっでも悠一郎、教え子には手を出さないんじゃなかった? どういう風の吹き回しよ」
「風というか、話が変わった」
「ああ、言ってたもんな。そこそこのメンヘラって。どうせ爆発させないように考えてたらそういう流れになっちゃった、ってやつだろ」
千尋の精神が不安定で、すぐに悪い方へ揺らぐというのは十分理解していた。それは彼の家庭環境によるものだとは簡単に推測できるが……それでも、自分の素を見せるには危険だとも気付いている。
だからこそ、見返りなく自分の世話をする人間……つまり「世話役」の存在は隠しておきたかった。とはいえ泣き喚く想像しかしていなかったので、立候補してくるのはさすがに想定外だったわけだが。
「どう、あたり?」
「間違いではない」
吸い終わった煙草を押しつぶす峰を見て、椿はにやりと笑う。
「あんたも大変だなぁ、メンヘラの相手ばっかで」
「お前の方がマシだ」
「あれ、別に俺のことなんて言ってないけどー?」
椿の隣に腰掛けると、彼が体を寄せてくる。
まるで、猫だ。だからそっと頭を撫でてやれば、椿は勝ち誇ったように笑う。
「どうよ、今日の髪。トリートメント変えてもらった」
「また美容室行ったのか。お前、俺の家来る前毎回言ってないか?」
「どうせならいいもん触って欲しいだけだっつの。この乙女心汲んでくれねーもんかな」
「乙女も何も純粋な男だろ」
呆れるように言っても、椿は嬉しそうに擦り寄ってくるだけだ。例えばこれを押しのけても、こいつは決して怒らず「ひでー」とか言いながら笑う。その点は、どの「世話役」よりも都合がいい。
だからこそ……どの「世話役」よりも、優遇している。
「なー、ベッド行こうぜ」
「じゃあ立て」
「あ、それダブルミーニングってやつ? でも俺より勃たせるべきなのあんたじゃねえの」
「くだらないこと言うな、萎える」
そう、これくらいの距離感でいい。深入りせず、互いに互いを都合よく使えればそれでいいのだ。そのはずなのに、どうしても千尋の顔が頭から離れない。
峰の反応をずっとうかがいながら、すぐに怒ったり泣いたりする。そんな彼は、この上なく厄介なはずなのに。
(……教師じゃなかったら、元教え子じゃなかったら。あっさり切り捨てられたんだろうな)
それでももう、止まらない。千尋の決断が、そして切り捨てられない峰が、すべて悪いのだ。