バレンタインなんて、ただの平日。
そう思い込んでいれば、きっと何も気にせずに済んだのに。
朝、久嗣さんに余裕たっぷりの笑みで「期待してるね」なんて言われてしまったせいで、どうにも落ち着かない。
――別に、何かするつもりはなかった。
……はずだったのに。
気がつけば、スーパーの製菓コーナーの前に立っていた。
最初は「ついでに買い物をしているだけ」と自分に言い聞かせていたのに、気づけばバレンタイン向けのチョコレートやラッピング用品をじっと見つめている。
……いやいや、違う。何やってんだ俺ぇ……!
すぐにその場を離れようとするが、ふと視界に入ったポップが足を止めた。
『手作りチョコで想いを伝えよう♪』
……はぁ。
誰にだよ、と思う。
思うのに、無意識に溜息をつきながら、視線を落とすと――カゴの中にはすでに製菓用チョコレート、ミルク、生クリーム、型抜きなどが入っていた。
……これ、もうアウトじゃね?アウトじゃね?
買い物を終えて帰宅したあと、キッチンに立ちながら、改めて自分の行動を振り返る。
俺、何やってんだろ……。
別に義務じゃない。やらなくてもいいはずなのに。
でも、今朝の久嗣さんの言葉を思い出すと、なんだか作らないのも負けた気がして、どうしても納得がいかなかった。
あのイケメンのせいで!俺はいつも踊らされてる気がしてならない。
「……別に、ただの料理の練習だし」
呟きながら、材料を計量する。完全に言い訳だ。
まずは湯煎でチョコを溶かして……と、作業に取り掛かると意外と楽しくなってきた。
適当に済ませるつもりだったのに、気づけばレシピをちゃんと確認しながら慎重に作業を進めている。
いや、別に……久嗣さんに喜んでほしいとか、そういうわけじゃなくて……。
そういうわけじゃなくて。……いや、違うか。
本当にそうじゃないなら、こんなに丁寧に作る必要ある?
………………。
……あーもう、考えるのやめよ!
無駄に意識すると余計に恥ずかしくなるだけだ。
そもそも、こんなもの用意しても渡せるとは限らないんだから。
そうして、出来上がったチョコを小さな箱に詰め、ラッピングまでしてしまった自分を客観的に見て、さらに羞恥心が募る。
渡せるか、こんなの……。出来は良いと思うよ!俺、ザッハトルテも作れてるしね!
冷蔵庫の奥へとそっと隠し、見なかったことにする。
きっと、夜には久嗣さんも忘れてるだろうし、渡さずに終わる。
――そう思っていたのに。
夕飯を済ませ、ソファでくつろいでいたとき。
久嗣さんがふいに、俺の隣に座り込んできた。
距離が近い。気づけば肩が触れそうなくらいで、変に意識してしまう。
いやいや、何を意識してんだ俺は……ここに来たときじゃあるまいし。
テレビをぼんやりと眺めながら、平静を装う。
でも、久嗣さんがこちらをじっと見ている気がして、落ち着かない。
「ねぇ、ゆう」
「……何」
「今日、何の日か覚えてる?」
その声色は、まるで最初から答えを知っているみたいで。
朝と同じ問いかけなのに、空気が違う。
「……バレンタイン、でしょ」
「うん」
久嗣さんは小さく笑う。
「で?」という言葉が、続きとして聞こえてくるようだった。
「……だから、何?」
「ふぅん。何もないんだ?」
「……何も、ない」
冷蔵庫に隠したチョコのことが、頭をよぎる。
でも、渡せるはずがない。恥ずかしすぎる。
「そっか」
あっさりと引くかと思いきや、久嗣さんは にこりと微笑んだ。
――この笑顔が出たとき、俺は警戒しないといけないのに。
「じゃあ、冷蔵庫の奥にあるラッピングされたチョコは何?」
――は?
背筋が凍る。
「……」
「ん? ゆう?」
言葉が出ない俺を、久嗣さんは楽しそうに覗き込む。
「まさか、僕のためじゃないとか言わないよね?」
「い、いや……その、あれは……」
「ふぅん?」
ゆるく笑いながら、久嗣さんはすっと立ち上がる。
「じゃあ、確認してこようかな」
「ま、待って!?」
咄嗟に立ち上がり、久嗣さんの腕を掴んだ。
止めなきゃ――と、思ったのに。
「……へぇ」
少し驚いたように、久嗣さんが俺の顔を覗き込んでくる。
そして、俺の手をそっと引き寄せ、軽く握った。
「そんなに焦るってことは、やっぱり僕のために作ったんだ?」
「……っ」
ダメだ。逃げ場がない。
何も言えずにいると、久嗣さんは少しだけ笑みを深めた。
「ねぇ、ゆう」
「……何」
「今日はバレンタインだよね?」
「……だから?」
「僕、まだ何ももらってないよ?お嫁さんから」
言葉の意味が、やけに ゆっくりと響く。
「ねぇ、ゆう。僕にチョコ、くれないの?」
低く、甘く囁かれる。
背筋がゾクリとする。
――この人、完全に俺をからかって楽しんでる。
「……知らない」
「知らない?」
「べ、別に……あれは……その、ただの料理の練習で」
なんとか抵抗しようとするも、久嗣さんの手がするりと俺の頬を包み込む。
すっと指先が顎をなぞり、そのまま顔を上げさせられる。
「ねぇ、ゆう」
名前を呼ばれるだけで、胸が高鳴る。
いい加減に自分の顔面偏差値を理解してほしいわ……この人。
「チョコより甘い君を、試してみようか?」
「へぁ?なに……っ」
――っ。
言葉が終わるよりも先に、唇が重なった。
軽く触れるだけのキス。
それなのに、逃げようとしても、頬に添えられた指が優しく、けれど確実に俺を捕まえる。
「……っ、ちょ、待っ……」
「待たないよ」
囁くような声と共に、再び唇が塞がれる。
今度は逃がさないと言わんばかりに、深く。
(……あ、これもうダメだ)
何を言っても聞いてくれなさそうな空気に、観念するしかなかった。
「ん……ふ、……っ」
ちゅ、ちゅ、と小さなリップ音が響いて、上唇を舌先でなぞられる。
胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
触れられるたびに、溶かされるような感覚に襲われる。
「……ねぇ、ゆう」
「……な、何」
「僕のこと、もっと甘くして?」
耳元で囁かれ、背筋が跳ねる。
……ば、バカか、この人は……っ!あ!そうだ!バカだった!
けれど、すでに逃げられない。
久嗣さんの腕の中で、俺は完全に捕まってしまったのだった。
冷蔵庫のチョコは、俺が意識を取り戻したときには食べられてた。
く、くっそう……!