「ゴルゴダの丘を登る時、救世主様は何を考えていたんだろうな。 裏切り者への呪いか、共に処刑される者への同情か、それとも口だけ達者な愚民への侮蔑なのか。 それとも、今の俺のような気持ちだったのか……」
誰に語っているのかすらも知れないアルフレドの独り言が、がらんどうになった建物の中を反響する。
日が出ている内は人の波でごったがえしていたが、今はその面影すらも窺えない程の静寂を抱いた教会。 その中でアルフレッドは一人、巨大なステンドグラスを透して射し込む月光を浴びていた。
色とりどりの淡い瞬きが俯き加減のその姿を優しく照らし、宵闇色の翼の中に抱かれた光がプリズムを通されたかのように綺麗に分かたれ、闇の中を疾駆する。
そんな幻想的にも思える光景の中、アルフレドは己の翼を撫でながら再び独り言を洩らす。
「こいつに寄生されて以来人類の未来のためにこき使われ続け、自分のために残された時間はたったの十数分か。 俺は一体何のために生まれてきたんだろうな。 なぁオニキス、お前はどう思う?」
周囲に誰もいないにも関わらず、何者かに問いかけるよう言葉を紡ぎ続けるアルフレド。
一見、完全に狂ってしまったかのような行動だが、当人からして見れば意味のない行動などではない。
アルフレドの虚ろな視線の先に鎮座していたのは、三つ眼三つ脚三つ翼のカラスの姿をした半身の幻影。
黒曜石の名を持ったそれは、宿主の問いを聞いてもなんら気の利いた返答もせず、ただそばで地面を啄む素振りをみせるのみ。
「相変わらず付き合い悪いな、俺が死ぬってことはお前も死ぬってことに変わり無いだろうに」
マイペースを崩さず周囲を徘徊する半身に呆れたような声をかけながらも、アルフレドは残された短い時間で何を出来るかを考える。
自分のためか、家族のためか、それとももっと大多数のためか。
考えて考えて考えるうち、アルフレドは突然顔を上げると、これだとばかりに手を叩いて立ち上がった。
「そうだ! おいオニキス! 最後に一回だけ実験に付き合えよ! この千里眼の力を限界を超えて発動すれば、一体どんなものが見られるのか知りたくないか!?」
今振り返れば、どこまで多くの事象を認識出来るのか自分でも把握出来ていなかったと、アルフレドはオニキスを手招きし、誘う。
すると、今まで他人ごとのように周囲を徘徊していたオニキスも興味を持ったのか、ひょいとアルフレドの腕に留まると、軽く一鳴きした。
「関心を持って貰えて何よりだよ兄弟、それじゃさっさと始めるぜ。 無為に流してやれる時間の余裕も無いわけだしな」
移り気な半身が乗り気なうちにと、アルフレドはオニキスの幻影を体内に取り込み一心同体となると、極限的な集中を経て精神を肉体という檻の外へ解放し、限界を試すべくひたすら世界の果てを目指す。
物理法則に縛られることなく、宇宙が膨張する速度よりも速く、虚無の中を疾走する二つの意識。
やがてそれらは宇宙を飛び出し、決して覗いてはならない舞台の向こう側へ到達した。
尋常の人間には決して踏み入れられない世界を見いだし、一瞬感動と歓喜の渦の中に巻き込まれるアルフレド。
――が、冷静さを取り戻したアルフレドが発した第一声は、どこまでも失望の意思に満ち満ちていた。
「ここが、神の国なのか?」
次元の障壁を突き抜け、世界の外を知覚したアルフレドには見える。 無味乾燥な電子の蜘蛛糸の上で繰り広げられる、高貴であるはずの神々の醜態がはっきりと見える。
さらなる上位意志に搾取されるだけだという現実から逃避し、非実在の泥人形と箱庭にかじりつく神々の姿は、アルフレドが胸の何処かで抱いていた理想を打ち砕くに十分なほど醜かった。
「これが、こんなものが光輝で慈悲深い神々の本性だと?」
世界中に伝わる創世の神話から、すべての科学的論述を根底から叩き壊す現実だけでなく、能力を通して畳み掛けるように伝わってくる神々の低俗な思念の渦に打ちのめされ、流石のアルフレドも目が眩む。
「嘘だ……こんなことは……」
全ての価値観を打ち壊す真実に直面し冷静さを保てなくなった結果、アルフレドの極まった集中が陰りを見せた。
その瞬間、彼の精神は宇宙の外からあるべき肉体という檻の中へ転移し、視界の中に広がっていた非現実的だった光景も、平凡で日常的なものへと戻っていく。
あまりのショックに瞬時に立ち直れず、しばらくの間沈黙したまま肩の力を抜いて呆然とするアルフレド。
だが、我を取り戻した途端に今までの態度が嘘のように狂ったように笑い始めた。 腹を抱えて、声を張って、全てをかなぐり捨てて笑い始めた。
「本当に本当に馬鹿みてぇだったなぁ! 多少敬う心は持っていたんだが、まさか神々とやらがこんなしょうもない連中だったなんてよぉ!」
今まで抱いていた死出の恐怖がなんとやら。 何もかもが馬鹿らしく、何もかもがくだらない児戯でしかなかった事実は、アルフレドのこの世への未練を完全に吹っ切れさせ、超然的な余裕を授けさせていた。
「しかしここまで知っちまうと逆に哀れだよ。 さらなる上位存在に飼われるしかない現実から逃避して、言われるがままにクソをひりだすことしか出来ない神々がな」
恐らくこの世界の創造神も例外なくそうであるに違いないと、アルフレドは懐に忍ばせていた酒を一気に呷り、ありったけのから元気を吹かした後ため息をつく。
「もう何もかもどうだっていいさ。 所詮全ては死に至るまでの暇潰し。 それは神々であっても例外じゃないということが分かっただけで十分」
大も小もすべからく、全ての命に意味は無い。
限りなく広大な宇宙や次元で、文字通り天文学的な規模で引き起こされる事象と比べれば、命の価値など論ずるに値しない。
だからこそ、重要なのは自分の生き方に納得出来たかどうかなのだと、アルフレドは結論づける。
「だからな、せめて最後くらいは自分の為になることをしてやろうじゃないか。 俺にとって間違いなく現実であり、真実である愛娘の為にも」
妻以外には誰にも見せたことのない晴れ晴れとした表情をして、アルフレドは強い気配を感じる方へと静かに向く。
教会の正面扉の向こう側。
そこにただの害獣とは一線を画した悪意を秘めた何者かが、言葉巧みに騙され知らぬ間に人質へと仕立て上げられたノゾミと共に立っている姿が、アルフレドには確かに見えた。
「……どうやら時間のようだ。 未来、せめて君が遺してくれたものだけは俺が命を賭けて護ってやる」
教会に踏み込まれ、首を刈り取られるまでのロスタイム。
僅かでも時間を稼ぐため、アルフレドは妻の名前を呟きつつ、自らの頭を吹き飛ばすために持っていた対獣拳銃を敵に向けて構えた。
自分が少しでも長く生きる為で無く、未来に望みを繋ぐ為に。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「!!!」
旧都のどこかで響いた対獣兵器の銃声が、アルフレドの力によって深く眠っていた雪兎に覚醒を促した。
「カルマ!」
『そう怒鳴らずとも聞こえてます』
拘束具を破壊する勢いのまま跳ね起き、天に手を伸ばして叫んだ雪兎の命に従い、天井に化けていたカルマが落下と共に主の身体を隅から隅まで隙間無く包み込むと、そのままパワードスーツ形態へと姿を変える。
『銃声の発生地点を特定。 教団敷地内に建造された教会付近です』
「馬鹿な! 害獣が容易く入り込める場所ではないはず! 何かが起きたに違いない!」
『よろしいのですか? 今ここを離れれば後々面倒なことになりますが』
「馬鹿野郎! 僕の名誉と人命なんて天秤にかけようがないだろうが!!!」
脱走を知らせる警報が鳴り響く中、後々どんなトラブルが起きようが関係ないと、雪兎は一切頓着せず地面を蹴って高々と身を跳ね上げると、カルマが示したロケーターを急いで辿った。
サーチライトに照らされた廃ビルの壁を蹴ってさらに高度を稼ぎ、目的地である教会の屋根に狙いを定めると、牙を噛み締めながら拳を握る。
『不審な生体反応を捕捉、各部スラスター出力最大』
「死ぃいねええええええ!!!」
カルマがアナウンスを終えると共に響く、雪兎の裂帛の咆哮。
轟音の波動と化したそれが地表で蠢く人々を地に伏させた瞬間、小さな銀の流星が炎の軌跡を残して教会内に着弾した。
衝撃の余韻で濛々と巻き上がった煙の中、雪兎は拳を解きながらゆっくりと立ち上がり、未だ気配を感じる方角へ殺気を向ける。
「……しくじったか」
悔しげに言葉を零しながらさりげなく立ち位置を変え、頭が無くなった死体の側でへたりこんだノゾミを背後に庇う雪兎。
彼が睨み上げた先に鎮座していたのは、端的に表現すれば巨大な紙魚。
なまめかしい光沢を持つグロテスクな虫型害獣が、アルフレドの脳から脊髄までを捕食し終え、残った肉体に自らの身体を詰め込んでいる最中だった。
「驚いたよ、先が見えていたにも関わらず抵抗を試みるとは。 彼は一体何を期待していたんだろうな? 実に馬鹿げたことだと、君もそう思わないかね?」
害獣が体内に入り込んだ瞬間に、遺されていた声帯を用いて喋り出すアルフレドの姿をした肉塊。 無論それは生前の彼自身の意志が介在したものではない。
「気安く話しかけるなよ化け物、僕はテメェのことなんざ一切知らねぇんだ!!!」
「おやそれは失礼、では死出の餞別に教えてやろう。 私の名はサンドマン。 地球という広大なサンドボックスの主であり、霊長を詐称する猿で遊ぶことを許された選ばれし者のひとりだ」
「テメェが誰かなんてどうだっていい。 よくも子の前で親の命を奪いやがったな」
背後から聞こえる父さん、父さんと泣きじゃくるノゾミの弱々しい声が、雪兎の怒りを駆り立て、その歩みを強く支える。
「殺してやる、惨たらしく」
「やってみたまえよ、薄汚い獣め」
怒りと嘲り、胸に秘した感情は違えど、睨み合う二人から放たれた同質の殺気が物理的な衝撃を伴って周囲へと伝播すると、教会内を彩るステンドグラスが余さず砕け散り、きらびやかな光の雨を二人の間に降らせた。
プリズムに分かたれた光の如く、幾種にも及ぶ色彩の輝きの中、殺意の塊となった二人の姿が瞬時に掻き消え、代わりに二匹の異形が姿を顕す。
黒翼を広げ哄笑する金の天使と、白翼を束ねて怒号を上げる鋼の龍。
それらの異形はほぼ同じタイミングで地面を蹴ると、かろうじて残っていた教会の屋根を跡形残らず吹き飛ばし、闇の中へ高々と身を躍らせた。
おとぎ話で幾度と無く語られた竜退治の具現。
しかし、本来善玉として機能するはずの人に近い何かが醸す気配は、神聖とは程遠く禍々しいものだった。