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社からさらに奥へと進むと、神域の景色が少しずつ変わっていった。

巨木が立ち並ぶ森を抜けると、そこにはまるで別世界のように大きな邸が広がっていた。

漆黒の屋根、白木の柱、静かに流れる小川。

普通の屋敷とは明らかに違う、神の住まう場所にふさわしい威厳がある。

けれど、どこか温かさも感じる不思議な場所だった。


「さあ、ここが僕の屋敷だよ。長くん、気を楽にして。君の家になるのだから」


橡様がそう言いながら、屋敷の門を開ける。中に一歩踏み入れた瞬間――


「わーい! 旦那様のお嫁さんだー!」

「ほんとに人間だ! わあ、綺麗!」


突然、足元から聞こえた高い声に驚いて、思わず後ろに飛び退いた。


「うわっ!?」


俺の前に現れたのは……何だこれ。小さな耳、ふわふわの尻尾、まるで人間の子どもみたいだが、よく見れば狸や狐が人の形を取ったような姿だ。


「こらこら、長くんを驚かせないの」


橡様が優しくたしなめると、小さな使い魔たちは慌てて背筋を伸ばし、俺に向かってぺこりと頭を下げた。


「ごめんなさい!」

「だって、お嫁さまが来るなんて初めてだから……」


橡様が微笑みながら俺に視線を向けた。


「紹介するよ。彼らは神使の子たちだ。ここでは僕の手足となって屋敷を守り、働いてくれているんだ」

「神使……」


小さな狐耳の女の子が、俺の袖を引っ張る。


「お嫁さま、名前はなんて言うの?」

「あ、俺は……長だ。よろしく……」

「長様だって! ねえねえ、何が好きなの?」

「好きなご飯は?」

「好きなお色は?」

「え、え……ちょっと待って、質問攻めしないで……」


次々に寄ってくる神使たちに、俺は戸惑うばかりだ。

けれど、彼らの純粋な瞳と無邪気な笑顔には、不思議と嫌悪感は湧かない。

むしろ少し癒されるような気さえする。皆、耳がぴくぴくとして可愛らしい。


「みんな、長くんはここに来たばかりだから、少し落ち着かせてあげてね」


橡様がそう言うと、神使たちは名残惜しそうに俺から離れた。


「はい、旦那様! また後で遊んでね、長様!」

「お待ちしています!」


神使たちは小走りで屋敷の奥へと散っていった。


「皆、可愛いですね……」


俺がそうつぶやくと橡様がにっこりと笑う。


「それを聞いたら、喜ぶと思うよ。さあ、中に入ろうか」


橡様は俺を屋敷の広間へと案内した。畳敷きの部屋には柔らかな光が差し込み、ほっとするような静けさが広がっている。座布団を勧められ、俺は恐る恐る腰を下ろした。


「落ち着いたかな?」


橡様が向かいに座り、優しく微笑む。


「……はい、少しだけ」


気を張っていたせいか、緊張がじわじわと解けていくのが分かる。

けれど、これからどうなるのかという不安は、やはり拭いきれない。

あと、まあ……この花嫁衣裳、俺はいつまで着ているのだろうか……。

いや、それは置いといて、だ。


「橡様、ひとつ……お聞きしてもいいですか」

「うん。何でも聞いて」

「どうして、その……先ほども聞きましたが、俺なんかを選んだんですか? 俺は……ただの村の人間で、神職の者でもないです。男だし……ここに来る理由なんて……」


どうしても謎だった。

別に俺は小さいころから何をしていたわけでもなかったし、特に美しいといったような容姿でもない。何が気に入ったのかさっぱりわからない。

橡様はしばらく黙って俺を見つめた。そして、微かに目を細めながら言った。


「理由はね、君が特別だからだよ」

「……特別?」

「そう。でも今は、それだけ知っていればいい。僕は――ずっと、君を待っていたんだ」


穏やかに、けれどどこか確信を持った言葉に、俺は言い返すことができなかった。橡様の瞳はあまりにも真っ直ぐで、その意味を探ろうとする気力さえ奪われる。


「……何だか、もう逃げられない気がしますね」

「ふふ、逃がさないよ」


橡様は冗談めかして笑うが、その笑顔には少しだけ、怖いくらいの真剣さが滲んでいた。

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