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終ノ章(後半)

橡様の指が、俺の頬をなぞる。すでに何度も触れたはずなのに、今夜のそれは、まるで初めてをなぞるようだった。


柔らかく、丁寧に、確かめるように――


「……きれいだよ、長」


その囁きは、肌に触れるよりも深く、胸の奥を震わせた。

橡様の手が、衣の襟にかかった。

解かれる。肩から滑る。空気が肌を撫でて、思わず小さく息が漏れる。


指先が鎖骨をなぞる。


ゆっくりと、焦らすように滑っていく手のひら。けれどそこにあるのは、獣のような欲ではなかった。ただ、慈しみに満ちた愛の形だった。


「……俺も……触れていいですか」


橡様が小さく笑った。まるで許しを乞う子供を抱き上げるように。


「もちろん。君の好きなようにして」


俺は恐る恐る、橡様の衣に手をかけた。


ほどくと、月明かりがその肌を照らす。滑らかで、けれどどこか人のものとは思えない、神の容れ物――それでも、触れていたくなる温かさ。


唇を這わせると、橡様が微かに喉を鳴らした。

その音が、鼓膜ではなく、身体の奥に響いた。


「もっと……」


橡様が低く呟いた。


まるで、その一語で俺の理性がほどけた。

肌が重なり合い、吐息が熱を交わす。

橡様の体温が、俺の中へと流れ込んでくる。


掌が背を這い、腰に回る。指が食い込むほど強く抱きしめられて、俺は体をしならせた。


「……だめだ、長。足りない……全然、足りない」


掠れた声が、耳元をくすぐる。


「もっと、君を知りたい。君の奥まで……全部、僕のものにしたい」

「……して、ください」


自分でも、そんな言葉が出るとは思っていなかった。

でも、本心だった。


今だけじゃない。ずっと、ずっと――こうしてほしかった。


橡様が、俺の脚をそっと開かせた。

唇が、胸元を這い、腹を撫で、そして……


「っ……!」


熱が触れた瞬間、腰が跳ねた。


橡様の唇が、肌を吸い、舌が肌をなぞる。

音も、熱も、鼓動も、俺の知らない自分を引きずり出していく。


「長……気持ちいい?」

「……はいっ、……あ、橡様、そこ……っ」


名を呼ぶたび、抱かれるたび、奥へ奥へと引き込まれる。

橡様の指が絡まり、俺の芯へと沈んでくる。

一度も乱暴じゃなかった。けれど、逃がさない強さがあった。


「君は、ずっと僕のものだよ……」


橡様が呟いて、俺を貫いた。

その瞬間、思わず声が洩れた。


身体が開かれていく。満たされていく。


痛みも、悦びも、涙も全部混ざって、俺はただ、橡様にしがみつくしかなかった。


「……好きです、橡様……っ、俺……ああ、っ……」

「愛してる。君が、君でいてくれるだけで、もう……」


何度も、何度も交わって、何度も確かめ合った。

月が隠れても、夜が明けても、俺たちは、ふたりでひとつだった。



静かに朝が来ていた。

障子越しの光はやわらかく、夜の熱を優しく冷ましてくれるようだった。


俺は布団の中で、横たわる橡様の肩にそっと額を寄せた。

昨夜交わした熱が、まだ微かに残っている。

橡様がゆっくりと目を開ける。


「……おはよう、長」

「おはようございます。橡様」


しばし無言のまま、橡様の手が俺の髪を撫でる。

けれど、その手がふと離れ、名残惜しげに布団をめくった。


「……今日から、またお役目だよ」

「……え?」


「祭儀の準備があるんだ。戻ってきてすぐで悪いけど、今日だけは少し、早めに出ないと」


そう言いながら、橡様は衣を整え始める。

俺は布団の上で起き上がり、じっとその背を見つめた。


「……橡様、行きたくないないって顔してますよ」


橡様が肩越しにこちらを振り返る。

ふ、と笑ったその顔には、まるで少年のようなわがままが滲んでいた。


「だって、せっかく君がここにいるのに。……今すぐにでも、また抱きしめたいくらいだよ」


その言葉に、少しだけ胸があたたかくなった。

俺は立ち上がり、橡様の袖口をそっと直してやりながら、笑う。


「仕方がない龍神様ですね」


そして、真正面からその瞳を見て言った。


「行ってきてください。ここにいますから」


橡様が、手を伸ばして俺の頬を撫でる。


「……帰ってきたら、また抱きしめてもいい?」

「もちろんです。……早く一緒に“勤め”に出られるよう、俺も頑張ります」


神域の朝は静かに始まっていた。

けれどそこには、ふたりの確かな時間があった。

橡様は一歩外に出たのち、振り返って笑った。


「ただいまは、夕暮れ頃だよ」

「じゃあ、今夜の分も、お茶を淹れて待ってます」


橡様が笑った。


その笑みは、まるでこの神域そのものを照らす朝陽のようだった。

外では神使たちの声が聞こえ始める。

鳥のさえずり、狐の走る音、小さな龍の羽ばたき。


俺たちの家には、また今日も、日常が始まっていく。


「橡様」

「ん?」

「……ありがとうございました。俺を、見つけてくれて」

「君がいたから、僕も“神”でいられたよ」


言葉では、足りない。

けれど、今はそれで十分だった。

俺の居場所はここだ。帰るべき場所も、迎えてくれる手もある。


――だから、俺はもう、迷わない。




(完)


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