橡様の指が、俺の頬をなぞる。すでに何度も触れたはずなのに、今夜のそれは、まるで初めてをなぞるようだった。
柔らかく、丁寧に、確かめるように――
「……きれいだよ、長」
その囁きは、肌に触れるよりも深く、胸の奥を震わせた。
橡様の手が、衣の襟にかかった。
解かれる。肩から滑る。空気が肌を撫でて、思わず小さく息が漏れる。
指先が鎖骨をなぞる。
ゆっくりと、焦らすように滑っていく手のひら。けれどそこにあるのは、獣のような欲ではなかった。ただ、慈しみに満ちた愛の形だった。
「……俺も……触れていいですか」
橡様が小さく笑った。まるで許しを乞う子供を抱き上げるように。
「もちろん。君の好きなようにして」
俺は恐る恐る、橡様の衣に手をかけた。
ほどくと、月明かりがその肌を照らす。滑らかで、けれどどこか人のものとは思えない、神の容れ物――それでも、触れていたくなる温かさ。
唇を這わせると、橡様が微かに喉を鳴らした。
その音が、鼓膜ではなく、身体の奥に響いた。
「もっと……」
橡様が低く呟いた。
まるで、その一語で俺の理性がほどけた。
肌が重なり合い、吐息が熱を交わす。
橡様の体温が、俺の中へと流れ込んでくる。
掌が背を這い、腰に回る。指が食い込むほど強く抱きしめられて、俺は体をしならせた。
「……だめだ、長。足りない……全然、足りない」
掠れた声が、耳元をくすぐる。
「もっと、君を知りたい。君の奥まで……全部、僕のものにしたい」
「……して、ください」
自分でも、そんな言葉が出るとは思っていなかった。
でも、本心だった。
今だけじゃない。ずっと、ずっと――こうしてほしかった。
橡様が、俺の脚をそっと開かせた。
唇が、胸元を這い、腹を撫で、そして……
「っ……!」
熱が触れた瞬間、腰が跳ねた。
橡様の唇が、肌を吸い、舌が肌をなぞる。
音も、熱も、鼓動も、俺の知らない自分を引きずり出していく。
「長……気持ちいい?」
「……はいっ、……あ、橡様、そこ……っ」
名を呼ぶたび、抱かれるたび、奥へ奥へと引き込まれる。
橡様の指が絡まり、俺の芯へと沈んでくる。
一度も乱暴じゃなかった。けれど、逃がさない強さがあった。
「君は、ずっと僕のものだよ……」
橡様が呟いて、俺を貫いた。
その瞬間、思わず声が洩れた。
身体が開かれていく。満たされていく。
痛みも、悦びも、涙も全部混ざって、俺はただ、橡様にしがみつくしかなかった。
「……好きです、橡様……っ、俺……ああ、っ……」
「愛してる。君が、君でいてくれるだけで、もう……」
何度も、何度も交わって、何度も確かめ合った。
月が隠れても、夜が明けても、俺たちは、ふたりでひとつだった。
※
静かに朝が来ていた。
障子越しの光はやわらかく、夜の熱を優しく冷ましてくれるようだった。
俺は布団の中で、横たわる橡様の肩にそっと額を寄せた。
昨夜交わした熱が、まだ微かに残っている。
橡様がゆっくりと目を開ける。
「……おはよう、長」
「おはようございます。橡様」
しばし無言のまま、橡様の手が俺の髪を撫でる。
けれど、その手がふと離れ、名残惜しげに布団をめくった。
「……今日から、またお役目だよ」
「……え?」
「祭儀の準備があるんだ。戻ってきてすぐで悪いけど、今日だけは少し、早めに出ないと」
そう言いながら、橡様は衣を整え始める。
俺は布団の上で起き上がり、じっとその背を見つめた。
「……橡様、行きたくないないって顔してますよ」
橡様が肩越しにこちらを振り返る。
ふ、と笑ったその顔には、まるで少年のようなわがままが滲んでいた。
「だって、せっかく君がここにいるのに。……今すぐにでも、また抱きしめたいくらいだよ」
その言葉に、少しだけ胸があたたかくなった。
俺は立ち上がり、橡様の袖口をそっと直してやりながら、笑う。
「仕方がない龍神様ですね」
そして、真正面からその瞳を見て言った。
「行ってきてください。ここにいますから」
橡様が、手を伸ばして俺の頬を撫でる。
「……帰ってきたら、また抱きしめてもいい?」
「もちろんです。……早く一緒に“勤め”に出られるよう、俺も頑張ります」
神域の朝は静かに始まっていた。
けれどそこには、ふたりの確かな時間があった。
橡様は一歩外に出たのち、振り返って笑った。
「ただいまは、夕暮れ頃だよ」
「じゃあ、今夜の分も、お茶を淹れて待ってます」
橡様が笑った。
その笑みは、まるでこの神域そのものを照らす朝陽のようだった。
外では神使たちの声が聞こえ始める。
鳥のさえずり、狐の走る音、小さな龍の羽ばたき。
俺たちの家には、また今日も、日常が始まっていく。
「橡様」
「ん?」
「……ありがとうございました。俺を、見つけてくれて」
「君がいたから、僕も“神”でいられたよ」
言葉では、足りない。
けれど、今はそれで十分だった。
俺の居場所はここだ。帰るべき場所も、迎えてくれる手もある。
――だから、俺はもう、迷わない。
(完)