「美味しいな。味噌の味が濃厚だ」
「お口に合いましたか? よかった」
店に着き、私たちは二人用のテーブルへ案内された。お世辞にも綺麗とは言えない店内だけど、副社長が気にする様子はない。
それどころか、豊富なメニューに感心してラーメンを堪能している。彼が大企業の副社長だとは気づかれなくても、佇まいが周りの人たちとは違う。
やっぱり浮いている気がするけれど、副社長はリラックスした様子でラーメンをすすっていた。
(どんなときでも、上品なのね……)
ラーメンを、こんなに品良く食べる人もいないだろう。どこにいても、なにをしてもサマになる。そんな副社長を、しみじみと凄いと思った……。
「また来たいな。メニュー、いろいろあったし」
「副社長に、気に入っていただけてよかったです。ああいう感じのお店、初めてだったんじゃないですか?」
オフィスビルは近いから、帰りは二人で歩いて戻る。日差しが降り注いで暖かく、気持ちのいい午後だった。
「そんなことないよ。気取った店ばかり、行くわけじゃないから」
苦笑され、私は肩をすくめる。もしかすると、意外に庶民的なところがあるのかもしれない。
「それでしたら、またお誘いしますね。一緒に、行きませんか?」
「もちろん。また、行こう」
私たちは上司と部下だから、一緒にお昼に行くのは自然だと思う。だから、今の言葉に他意はない。ただ、副社長との食事を、心から楽しいと思う自分がいる……。
「えっ? 山……ですか?」
「ああ。山といっても、きちんと整備されたところだが。クライアントの関連会社が、そこにゲストハウスを建てたんだよ。内覧に招待されてね」
副社長から日帰り出張の同行を求められたと思ったら、郊外にあるゲストハウスの内覧だった。
まだ開業前らしく、得意先を招いて一足早くお披露目をするらしい。辺りは別荘地が立ち並ぶ避暑地で、特に夏場の観光客が多い。
「夏前に完成したからね。会社のパーティーや結婚式の二次会とか、いろいろ使ってほしいそうだ」
「そうなんですね。とても楽しみです。現地には、車では行けないんですか?」
説明だと、公共機関を使うようだ。郊外で山の中にあるなら、車を使うほうが便利だと思うけれど。
「それが、駐車場だけ完成しきってないらしくてね。車の乗り入れが難しく、公共機関を使わないといけないんだ」
「そうでしたか。私、体力には自信がありますので、山道もしっかり歩けます」
そう答えると、副社長はハハッと笑った。
「安心したよ。原田さんは、本当に頼もしいな」
もう、その言葉で満足だ。副社長にとって、私が頼り甲斐のある秘書ならそれでいい。その気持ちに、これからもしっかり応えていこう。
「じゃあ当日は、会社から一緒に行こう」
「はい。でも、駅に集合でなくてもいいんですか?」
そのほうが効率がよさそうだと思っていると、副社長に小さく微笑まRた。
「ギリギリのところまで、社用車で行こう」
「あ、そっか。そうですね。そのほうが、いいですね」
たしかに、副社長が電車を乗り継いで行く姿が想像できない。私も笑って返しながら、こんな穏やかなやり取りに心が癒されていた──。
「それでは、お気をつけてください」
内覧当日、ゲストハウスに続く道の前で、私と副社長は車を降りる。運転手に挨拶をされたあと、車は帰っていった。
「では、行きましょうか。他のゲストの方、見当たりませんね」
「そうだな。内覧時間は自由だから、違うタイミングで来てるのかもな」
避暑地だけあり、平日の日中は人が少ない。ちらほら外国人観光客や、年配のグループを見かける程度だ。
「そうなんですね。じゃあ、頑張って歩きましょう」
運よく、今日は天気がいい。心地よい風が吹いていて、歩くにはちょうどいい気候だ。歩きやすいようにローファーで来ているから、この坂道もしっかり上がれる。
「ああ。森の中に道を作ってるから、少しファンタジーな感じだな。木漏れ日が、気持ちいい」
「本当ですね。風も涼しくなりましたし、森の中を歩いてるって実感します」
小鳥のさえずりが聞こえ、まるで非日常の空間にいるようだ。副社長と並んで歩きながら、この時間を幸せに感じていた。
「ただ、ゲストハウスが上のほうにあるからな。思ったより、時間がかかるかもしれない。原田さん、足大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。副社長こそ革靴ですから、足痛くないですか?」
「いや、大丈夫だよ。疲れたら、休み休み行こうか」
どんなときでも配慮をしてくれる気持ちが嬉しくて、副社長に小さな笑みを向けた。ゲストハウスがどんなものか楽しみだけど、副社長と一緒なのがより楽しい。しばらく歩いていると、風がさっきより冷たくなってきた。
「あれ? 日差しがなくなりました?」
道を照らしてくれていた陽の光がなくなり、薄暗くなってきた気がする。上を見上げても、木々に覆われ空はほとんど見えない。
「たしかにそうだな。もしかして、雨が降る……か?」
「雨ですか?」
山の天気を考えれば、通り雨があってもおかしくない。だけど、天気予報は晴れだったから傘を持ってきていないのだ。
「降らなきゃいいが……」
副社長も心配そうな顔をしながら、上を見上げている。もし本当に雨が降ったら、どうすればいいのだろう。
今が帰りならまだしも、これから向かうというのに……。
「できるだけ、急ごう」
副社長の歩調が速くなり、私もそれについていく。冷たい風が吹き抜けて、嫌な予感がしていた。
「まだ、見えませんね」
副社長の言うとおり、ゲストハウスは想像以上に上のほうにあるようだ。とにかく必死で道を上がっていたとき、頬に雫が当たった。
「あ、雨……」
雷の音も聞こえ始め、いよいよ不安が大きくなる。心の中で混乱していると、副社長に腕を引っ張られた。
「あそこで、雨宿りさせてもらおう」
「え?」
見ると、古びた社のようなものが見える。神社だったのだろうけど、今は誰も管理していないのか建物は少し朽ちている。
「きっと、すぐに止むよ」
副社長は迷いなく社の中へ入り、私を奥へ入れてくれた。その瞬間、雨が酷くなり稲妻が光る。
「いやあ!」
副社長と一緒だというのに、雷が苦手な私は我を忘れて叫んでしまった。
「大丈夫。通り雨だろうから、すぐに天気はよくなるよ」
「は、はい」
優しい彼の言葉で冷静になり、ふと自分の身体が温かいことに気づく。ゆっくり顔を上げると、副社長の顔が近くに見えた。
「す、すみません。私、勢いで……」
雷が鳴ったとき、無意識で副社長に抱きついたようだ。温かく感じたのは、彼に抱きしめられているからで……。
慌てて離れようとすると、ぎゅっと抱きしめられた。
「いいよ、気にしなくて。怖いんだろう? 震えてる」
副社長の胸に身体を預け、緊張で鼓動が速くなる。それでも雷鳴が轟くたび、びくっと身体が跳ねた。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
まだ雨脚は強く、屋根の下にいるとはいえ、副社長の背中に雫が当たっている。私を庇ってくれているのが分かり、申し訳なさと嬉しさとで感情が乱れる。
「迷惑じゃないよ。こんなに近くで雷が鳴れば、誰だって怖いさ」
「ありがとうございます……」
副社長に他意はなくても、私の胸はときめいてしまう。ほのかに香る上品なコロンは、彼にぴったりのスパイシーなものだ。
こんなに近くだと、コロンの匂いがするのだと改めて知る。しばらく副社長に甘え、目を閉じた。これで恋に落ちないほうが、無理だと思う──。