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あした、きみは僕を忘れる。
あした、きみは僕を忘れる。
かずさともひろ
恋愛現代恋愛
2025年04月03日
公開日
1.6万字
完結済
あすみ台中学校二年生の上月空(こうづきそら)は、入学後、可愛いと噂になっていた星野瑠美子(ほしのるみこ)から告白を受け、恋人同士となる。そして一年後。瑠美子を、じわりと異変が襲いかかっていた。そのとき、空は――まっすぐすぎる、愛の物語。

あした、きみは僕を忘れる。

 いつも通り、眠くなる授業だった。

 先生が黒板にたたきつけているのは、今後の僕の人生において、なんの役に立つのかわからない記号だ。


 そんなものからは目を背け、僕は窓の外に目を向けた。

 そこでは、別のクラスが体育の授業を行っていた。


 いいなあ。僕も体育の方がよかった。

 しかもあのクラスは、三組っぽい。


 ということは、瑠美ちゃんがいるクラスだ。

 どこにいるかな、と少しだけ考えたけれど、案外すぐに見つかった。


 星野ほしの瑠美子るみこ

 あすみ台中学校二年三組、出席番号七番。身長一四八センチ。


 小顔で、すらっとした癖のない髪をベリーショートにしており、容姿だけでもかなり目立つ。成績も優秀で、以前見せてもらった通知表は五段階評価で全て五だ。


 明るくて明朗な瑠美ちゃんは、いろんな意味で目立っていた。

 女子バスケット部に所属していて、レギュラーなのはもちろんだけど、エースなのだという。次期生徒会長にも推薦されるなど、様々な面で星野瑠美子という名前を見聞きする。


 瑠美ちゃんに恋する男子は数知れず。

 そしてその「数知れず」がもれなく、僕を敵視していた。


 僕はどういうわけか、そんな瑠美ちゃんの“恋人”だったりする。

 だからこそ、これだけ瑠美ちゃんのことを知っているんだ。


 僕はいたって平凡。

 いや、平凡以下の存在だ。


 運動も勉強もコミュニケーション能力も部活も……帰宅部だけど、全てにおいて平均以下。そんな僕と瑠美ちゃんが付き合っているというのが、学園七不思議ばりに疑問を抱かれているという。


 いちばん不思議に思っているのは、僕なんだけど。

 なにせ、告白してきたのは瑠美ちゃんなのだ。


 本当に、なんで僕なんかに告白してきたんだろう。

 今でも三日に一回は疑問を抱く。


 ぱこん


 その時、僕の左側頭部に痛みが走った。

 この感触は、チョークだ!


「おーいこら上月こうづき。グラウンドの女子ばっか見てんじゃないぞ~」


 頭を抱えながら「すいません」とつぶやく。

 くすくす笑うクラスメイト。


 さすがはチョーク投げの達人、安藤先生。

 野球部の顧問にでもなればいいのに。


 などと思いつつ、また僕はグラウンドに目を向けた。


 そんなこんなで、放課後。

 帰り支度をしていると、ざわ、というクラスメイトらの雰囲気を敏感に察知した。


そらちゃん、一緒に帰ろう!」


 うぁー、とうめきながらゆっくり廊下側に顔を向けると、笑みを浮かべた瑠美ちゃんが、どかどかと教室に入ってきた。


 えっと、ここ二年一組なんだけど。

 瑠美ちゃんのクラスじゃないんだけど。

 そんな僕の懸念など、おかまいなしだ。


「あれ空ちゃん、まだ帰り支度してないの?」


「ああ、悪いね。ぼーっとしてた」


「仕方ないなあもう。手伝ってあげるよ♪」


 そう言いながら、もう僕のかばんをのぞき込み、綺麗きれいに整えていく。

 はやい。


「瑠美ちゃん、部活は?」


「うん、今日はお休み。たまには空ちゃんと一緒にいないと、あたし、捨てられちゃうじゃん?」


「えぇ、そんなこと、ないよ」


「あはは、そうだといいけどね。はい終わり、帰ろ~!」


 鞄を見ると、持って帰る物だけがきちんと整って入っていた。

 一瞬だったね。


「……瑠美ちゃんは将来、いいお母さんになるね」


「あやっ! うれしいけど、こんなところで大胆な! それってプロポーズ?」


「え、え!? ちち、違うよ!」


「よし、細かいことは帰りに尋問ね!」


「えぇ……」


 こうして僕は、クラスメイトからの熱い視線を背中に受けつつ、教室を出ていった。

 明日は学級裁判かな……。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


「ねえねえ、きょうはどっちの家でやる?」


 帰り道、瑠美ちゃんがにこにこしながらいてきた。


「そうだなあ、今日は僕の家、親が遅くなるって言ってたけど」


「そっか、じゃあ空ちゃんの部屋に行くね!」


 家、じゃないんだ。

 そこはもう入れる前提なんだね。


「じゃあ、鍵を開けておくよ」


「うん!」


 満足そうに笑う瑠美ちゃん。

 僕の身長が百七十五センチだから、瑠美ちゃんは僕を見上げるし、僕はほぼ下に向くような感じだ。


 瑠美ちゃんの可愛かわいさ、魅力は、僕がいちばんわかってる。

 どう考えてもスペックは瑠美ちゃんの方が圧倒的に上だし、どうしてこんなに、僕を好きになってくれたのか、思い当たる節が全くない。


 だからこそ困惑しているけど、そろそろ付き合い始めて一年になる。

 今でも克明に思い出せる。


 去年の夏休み。

 友人に誘われていった先の夏祭りで、同じく友達と来ていた瑠美ちゃんに、強引に手を引っ張られて人気のないところに連れて行かれ「」わたしと付き合ってください」と告白された。


 最初に頭に浮かんだ言葉は「は?」だった。


 その頃、もう瑠美ちゃんはあすみ台中学校の一年にものすごい美少女がいると、上級生もざわついていたくらいだった。だから僕も、名前くらいは耳にしていた。


 星野瑠美子。

 着物もめちゃくちゃ可愛いくて、こんなに魅力的な女子がいるのかと疑うほどの存在。

 そんな女子からの告白だ。戸惑わないわけがない。

 でも、僕が驚いたのはそれだけじゃなかった。


 僕が告白を受けると、瑠美ちゃんは泣き崩れて喜んだのだ。


 どうしてそこまで、僕なんかを?


 意味不明の状態でおろおろしていると、僕の友人と瑠美ちゃんの友人が合流し、その場を抑えられてしまった。傍目はためから見れば瑠美ちゃんを泣かした狂気の男子にしか見えなかった僕は、夏祭りが終わってからもファミレスに連れて行かれ、瑠美ちゃんの口から誤解だという言葉を引き出すまで糾弾きゆうだんされ続けるという、なかなかの責め苦を受けた。


 あ、そういえば。

 告白された当時から、僕は瑠美ちゃんに名字である「上月」と呼ばれたことがない。

 いきなり「空くん、付き合ってください!」だった。


 ということは、その時点で瑠美ちゃんは僕の名前を知っていたのか。

 どこで知ったんだろう?


「…………」


「…………わ!」


 気づくと、目の前に瑠美ちゃんの顔があった。


「ちゅー、する?」


「しないしない、こんな人通りの多いところで!」


 辺りは大手のスーパーがあったので、人の行き交いが多い。

 いや、そもそもなんてことを言い出すんだ!


「あ、またやっちゃった?」


 僕が頭をいて、瑠美ちゃんに謝る。


「うん。せっかくさ、横に世界一の美少女がいるのに、いつもふわぁ~って、意識だけどっかにいっちゃうんだよね~」


「あー、ほんとごめん。いろいろと考えると、ついそのまま潜っちゃうんだよね」


「……ねえ、空ちゃん」


「うん?」


「ボケ倒しは地味につらいにゃ」


「にゃ!?」


「にゃ」


「ごめんなさい」


「よろしい」


 小さな胸を張る瑠美ちゃん。

 瑠美ちゃんは本当に可愛いと思う。

 こんな可愛い子が恋人だなんて、恵まれすぎている。


「こほん。では改めまして。この後、家に帰ったら着替えて、すぐ空ちゃんのとこにいくね!」


「うん。全部を開けて待ってる」


「あはは、鍵だけじゃないんだ~」


 けたけた笑う瑠美ちゃんに声を合わせて、僕も笑った。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 こんな幸せな日々が、これから先も続くと思っていた。

 今、目の前には、ベッドで静かに眠っている瑠美ちゃんがいる。

 そして後ろには、憔悴しようすいした瑠美ちゃんのお母さんがいた。


 この日、瑠美ちゃんは学校を休んだ。


 そして放課後、学校を出てスマートフォンの電源を入れると、瑠美ちゃんのお母さんから連絡が入っていた。


“瑠美子の様子がおかしいから、できればすぐ来てほしい”


 たった一文だったけれど、頭を金属バットで殴られたような衝撃を受け、僕は走り出した。


 瑠美ちゃんが済んでいるのは、十階立てのマンションの、八階だ。

 すぐインターフォンを押して名乗ると、おばさんが僕を招き入れてくれた。

 僕はまだ瑠美ちゃんに何が起きたのかを把握していない。

 息はしているし、脈も正常だ。


「おばさん、瑠美ちゃんに何があったんですか?」


 至極しごくまっとうな質問を投げる。

 するとおばさんは、前髪を垂らしたまま、語ってくれた。


「今朝、学校に行く前にね、急におかしなことを言い出したの」


「おかしなこと?」


 はあ、と深く嘆息し、おばさんは言葉を紡いだ。


「“なんで鞄に二年三組って書いてあるの?”って、混乱した様子で。私も何が起きているのかわからなくて。咄嗟とつさに、空ちゃんにメッセージを送っちゃった」


「な……え?」


 おばさんは、なにを言ってるんだろう?

 瑠美ちゃんは、なにも間違ったことは言ってないと思うけど。


「ねえ空くん、瑠美子はどうなっちゃうかのな?」


 おばさんの声のトーンが、どんどん落ちていく。


「病気なんですか?」


「わからない」


「病院には?」


「こんな症状、どこに行っていいのかわからないのよ……」


「ああ……」


 確かに。

 僕はおばさんの苦悩を感じ取り、言葉を失った。


「空くん、学校も大変だと思うけれど、できるだけこの子のそばにいてあげてくれる?」


 おばさんの懇願に近い頼みに、僕は「もちろんです」と、力強く答えた。

 瑠美ちゃんの家は、母子家庭だ。

 だから、おばさんは明日の朝には、仕事に行かなくてはならない。その間、瑠美ちゃんを見てあげられる人は、僕しかいないとのことだった。


 だから僕は急いで帰宅して着替えなどを大きな鞄に詰め込み、両親に瑠美ちゃんのことを伝え、彼女のそばにいたいと声をあげる。


 母は大反対したものの、父が「とっとと行け」と行ってくれて、自転車で家を出た。これから学校は休んで、瑠美ちゃんが元に戻るまでの間、そばにいようと思う。


 僕に、なにができるかなんてわからない。

 でも少しでも瑠美ちゃんのためになるのなら、やってあげたい。


 大好きな、恋人なのだから。

 翌日の朝、おばさんは瑠美ちゃんを僕に託してくれた。


「それじゃあ、瑠美子をお願いね」


「安心してください。僕はなにがあっても瑠美ちゃんのそばにいます。異変があれば、すぐに連絡します」


「ありがとう。空くんになら、安心して瑠美子を預けられるわ。お財布はテーブルに置いてあるから、好きな物を買って食べてね」


「はい、ありがとうございます」


 おばさんはにこっと笑い、仕事に向かっていった。

 少しだけ、元気になっていたような気がする。

 それなら僕としても嬉しい。


 僕は瑠美ちゃんの部屋に戻ると、深く眠る瑠美ちゃんの寝顔を眺める。

 天使のようだった。

 この瑠美ちゃんが、病気?

 とても信じられない。


「瑠美ちゃん」


 名前を呼んでみる。

 どうして君は、僕なんかを好きになってくれたのかな。

 ずっと謎なんだよ。

 それに、君はいつ僕を知ったんだ。


「んん……」


 その時。

 瑠美ちゃんが、目を覚まして身体を起こした。


「瑠美ちゃん!」


「……あれぇ? もしかして、空ちゃん?」


「うん、僕だよ! 大丈夫?」


 ぼー、っとしていた瑠美ちゃんは、自分がパジャマであることに気づくと、慌てて布団で身体を隠した。


「なな、なんで、ここに、空ちゃんが?」


 至極、もっともな質問だった。


「瑠美ちゃんの様子がおかしいって、おばさんから聞いてさ。飛んできたんだよ」


「いや、そういう意味じゃなくて……」


 瑠美ちゃんは布団に口をつけ、顔を赤くして、僕に言った。


「違う学校なのに、なんでここに来れたのかなって」


「は?」


 僕はその言葉に、耳を疑った。


「そんな、僕らは同じ学校じゃないか。なにを言ってるの?」


「え? だって、空ちゃんは、あすみ台小学校でしょ?」


「あ、うん、そうだったけど」


「そうだった、って、へんなことを言うのね」


「そう?」


 なんだろう、なにか話がかみ合わない。

 この違和感は……?


「わたしは、あすみ台東小学校だから、ちがう学校じゃん」


「確かに、そうだったね」


「ん~、だから、なんで過去形なの?」


「だって僕らは、今は同じ中学校じゃないか」


「そうだね! 来年になったら同じ学校になれるね!」


 ……やっぱり、なにかがおかしい。

 僕は確認するため、瑠美ちゃんに質問した。


「瑠美ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど、今、通っている学校とクラスと出席番号、言える?」


「やだなー。それくらい覚えてるよ」


 ごくり、と、息をのむ。

 僕は瑠美ちゃんの瞳をのぞきつつ、耳を傾けた。


「えっと、あすみ台東小学校、六年一組、出席番号五番! ね、言えたよ!」


 こ、こんなことが、あるのか。

 瑠美ちゃんは身体こそ中学二年生だけど、記憶は二年もさかのぼっていた。


「じゃあこっちから質問ね」


 困惑する僕に、瑠美ちゃんが訊いてきた。


「空ちゃんとは同じ年なのにさ、どうして中学校の服を着てるの?」


 むう、どう答えようか。

 瑠美ちゃんに合わせるか。

 それとも現実を伝えるか。

 わずかに逡巡しゆんじゆんした後、僕は口を開いた。


「これさ、ほら、来年は中学生で、瑠美ちゃんと同じ学校になれるじゃん? そう思ったらうれしくて、つい見せに来ちゃった。ごめん」


「え……」


 ぼふ、と耳まで真っ赤になる瑠美ちゃん。

 うわぁ、失敗したかな、これ。


「本当にごめん。久しぶりに会ったのに、いきなり僕がここにいたら、おかしいよね。すぐに帰るから、それじゃ――」


 ぱし。

 僕がその場を立ち去ろうとすると、瑠美ちゃんが身体を伸ばし、僕の腕をつかんだ。


「瑠美ちゃん?」


「帰らないで、ほしいな」


 瑠美ちゃんの瞳は、さみしさで満ちていた。


「お母さんもお仕事でいないし、ずっと一人だからさ。いつも、目が覚めたら空ちゃんがいてくれたらなって思ってたの。夢がかなったんだから、そばにいてほしいよ」


「僕が、いて、いいの?」


「空ちゃんなら、いいよ」


 にっ、と微笑む瑠美ちゃん。

 その表情はいつもの元気いっぱいなものではなく、どこかしら幼いものだった。


「でも、着替えたいから、ちょっとだけリビングにいっててほしいかな。この格好じゃ恥ずかしいから」


「あ、そうだね、向こうに行ってるよ」


「……帰らない?」


「絶対に帰らない。しばらくここに泊めてもらうことになったからね」


「え、ほんと!? 空ちゃんと一緒!? 嬉しい!」


 ふわぁ、と笑う瑠美ちゃんの顔は、やはりいつもの笑顔ではなかった。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 それから僕らは一緒に遊び、買い物に出かけ、ご飯を食べた。


 瑠美ちゃんは好き嫌いのない子なのに、野菜が入ったものは嫌がったり、ちょっと恥ずかしそうにコンビニで選んだのは、いかにも子供が選びそうな玩具おもちや付きのお菓子や菓子パンなどを手に取った。


 やはり、明らかにおかしい。

 僕が知っている瑠美ちゃんではなく、元気は元気なんだけど、向こうみずで危うさを感じる。


 本当に小学生を相手にしているようだった。そして瑠美ちゃんの家に帰ると、首をかしげながら辺りに目を向けて、何かを探しているような素振りを見せた。


「瑠美ちゃん、どうしたの?」


 僕がなるたけ優しく問うと、眉をひそめて僕に顔を向けた。


「ねえ空ちゃん、わたしのランドセル知らない? 宿題やらないといけないんだけど」


 むう、これは困った。

 実際僕らは中学生なので、小学校時代の持ち物など知る由もない。


「そ、そういえば今、インフルエンザが流行してて、学校が休みになってるっておばさんから聞いたよ。やだなあ、忘れたの?」


「え、あ、そう、だっけ。そっか。じゃあ空ちゃんの小学校もなの?」


「う、うん。今年はインフルエンザが大流行してるからね、そうなんだよ」


「そっかぁ。だったら、しばらくお休みだといいなあ」


「え、なんで?」


 ぽっ、とほおを染める瑠美ちゃん。


「言わせないでよ、ばか」


「えぇ……?」


 どう見ても、恋する乙女の顔だ。

 よくわからないけれど、まさか、この頃から僕のことを?


 瑠美ちゃんとは小学校も別々だし、それ以外での接点はなかったはずだ。小学生時代を振り返っても、もし瑠美ちゃんほど可愛い女の子と知り合えば記憶に残ると思うけど、そのようなことは全くない。


 となると、ここにも一つ謎が現れたことになる。


「ねえ空ちゃん」


「なに?」


「わたしさ、不謹慎だけど、インフルエンザに感謝してるよ」


「うん、それは確かに不謹慎だね」


 僕らは笑いあって、この日の夜を過ごした。

 その後、おばさんが仕事から帰ってくると、入れ違うように瑠美ちゃんは眠ってしまった。


 そして今日一日のことをおばさんに説明すると、急に青ざめて、肩を落とし、床にぺたん、とお尻をつけて脱力した。


「ど、どうしたんですか?」


 僕は驚いて、おばさんの肩をつかんだ。


「空くん、いま、なんていったの?」


「え? ええと、瑠美ちゃんが小学六年生だと言ってたって――」


「遡ってる……」


「は?」


 なにがなんだかわからない。

 遡っている?

 どういうことだろう。


「おばさん、もう少し細かく説明してもらっていいですか?」


「え、あ、ええ。ごめんなさい。ちょっと説明が足りなかったわね」


 おばさんは、ふうっ、と息を吐いて、僕の目を見てきた。


「瑠美子の症状なんだけど“なんで鞄に二年三組って書いてあるの?”としか言ってなかったと思う」


「そうですね、そう聞いてます」


「実はね、その続きがあったのよ」


「続き?」


 おばさんは立ち上がって、ダイニングの椅子を引いて、そこに体を預けて、言った。


「正確に伝えるわね。瑠美子は昨日“なんで鞄に二年三組って書いてあるの? わたしは一年二組なのに”って言ってたのよ」


『!?』


 ……え?


 そんな。

 今日は確かに“あすみ台東小学校六年一組”と言っていた。


 ま、まさか。

 寝起きするごとに、精神が一年遡っている、と?


 ということは、明日の瑠美ちゃんは小学五年生になってしまうのか?

 僕はおばさんと同じように、がくりと床に膝をついた。


 明日には小学五年生、明後日には小学四年生……。


 そんな病気、聞いたことがない。

 だからおばさんは、どこの病院に連れて行っていいかわからないって言ったのか。


「おばさん……」


 ことの重大さを認識した僕は、落ち込むおばさんに声をかけたけど、その後の言葉は思い浮かばなかった。


「うん、気持ちはわかる。ありがとう。だいじょうぶ!」


 その笑みと明るい声が、どれだけ無理をして作っているのかくらい、僕にだってわかる。


 僕だって、瑠美ちゃんが心配だ。

 でも、中学生の僕ができることなんて限られてる。


 もしも僕が大人だったら、おばさんのかわりに瑠美ちゃんを病院に連れていくことができたかもしれない。

 もしも僕が大人だったら、瑠美ちゃんを治す方法を思いついたかもしれない。


 僕が大人だったら……。

 今は自分の無力さに、ただ打ちひしがれるしかなかった。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 それから瑠美ちゃんはおばさんと僕の嫌な予感を的中させるように、日を追うごとに記憶が退行していった。


 あの日の翌日、瑠美ちゃんは小学五年生になっていた。


 それから四日。


 ついに瑠美ちゃんはかけ算九九もできない、小学一年生になっていた。


 不思議なことに、それでも瑠美ちゃんは僕を「そらちゃん」と呼び、慕ってくれた。

 僕は一体、いつから瑠美ちゃんに好かれていたんだろう。そんな疑問を抱きつつ、僕はおばさんのかわりに、瑠美ちゃんの隣に居続けた。


 身体は中学二年生で、僅かに胸の膨らみもある女性になりつつある。

 でも中身は小学一年生なので、いきなり後ろから「そ~らちゃん!」と言いながら抱きついてきたりして、少し照れた。


 中学一年の夏から付き合い始めて、もうすぐ一年になるけれど、僕らはキスもしていない。だから、この近距離がとても甘くて、熱くて、うれしかったけれど、恋人同士になったことを忘れている瑠美ちゃんに、寂寥せきりよう感を覚えた。


「ねえ、そらちゃん、こうえんいきたいな」


 この日の昼下がり。

 瑠美ちゃんが、突然そんなことを言いだした。


「いいよ、行こうか」


「うん!」


 こうして僕らは手をつなぎ、近所の公園に向かった。

 瑠美ちゃんのお気に入りは、回転滑り台だ。

 何度も何度も、登っては笑い声をあげて、少し窮屈そうに滑り、また登る。

 それを繰り返す。


 僕は近くのベンチでその姿を眺めていた。

 本当の小学生だったら目が離せないけれど、今の瑠美ちゃんならなんの問題もない。


 ふと、楽しそう成美ちゃんの姿を目に捉えていると、不安、焦燥、恐怖、無力感などが一気に襲いかかってきて、涙がにじんできた。


 僕は顔を下に向けると、しずくがぽたり、ぽたりと地面にこぼれ落ちる。


 どんな状態になっても、僕は瑠美ちゃんが大好きだ。

 それは変わらない。


 でも、できれば、元に戻ってほしい。

 でも、僕が今いちばん怖いのは、一週間後だ。


 今が六歳の精神状態だとすると、七日後には……瑠美ちゃんの精神は、どうなってしまうんだろう。そんなことを考えると、どうしても胸が締めつけられるように苦しくなった。


「そらちゃん、ないてるの?」


 そのいとおしい声で、我に返る。

 いけない。

 瑠美ちゃんに、涙を見せたくない。


「な、泣いてないよ。目に、ごみが入っちゃっただけ、だよ」


「こえも、くるしそう」


「大丈夫、大丈夫だから」


 慌てて涙を拭う。

 すると、温かい手が僕の頭を優しくでた。


「こわくないよ。そらちゃんには、るみがいるから。だから、なかないで」


「ッ……!」


 次の瞬間。

 僕の心が決壊し、瑠美ちゃんを抱き締めながら号泣した。

 瑠美ちゃんはそんな僕を抱き締めて、背中をでる。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


「うううわあああ、ああああああああ!」


 僕は泣き続ける。

 瑠美ちゃんは、僕の背中をさすり続けてくれた。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 翌日を迎えた。

 予想通りなら、瑠美ちゃんは幼稚園児になっているはずだ。


 僕は仕事に行くおばさんを見送り、まだ眠っている瑠美ちゃんを起こした。

 動作からして、かなり幼い。起きてきた時は水色のハンドタオルを握っていた。


「そらちゃ~ん、おなかすいた~」


「うん、なにを食べたい?」


「めだまやきぱんとカルピス~」


「あ、あるかな、カルピス……」


 冷蔵庫を開き、カルピスの原液を探すと、ドアの隅にあるのを発見して安堵あんどする。卵をひとつとスライスチーズ、バターを取り、慣れた手つきで目玉焼きを作る。その間、トーストを一枚手にして、オーブンに入れた。

 うちは両親共働きだから、簡単な料理なら家でもやっていた。


 だから、これくらいはお手のものだ。


 やがて朝ご飯を作り終えると、ダイニングテーブルで所在なさげに足をぶらぶらさせていた瑠美ちゃんの前に、カルピスとエッグチーズトーストを置いた。


「わ~♪」


 大仰に両手をあげて喜ぶ瑠美ちゃん。

 いただきます、と大きな声で言って、がぶっとトーストにかぶりつく。


「うま、うま……」


 口の周りにパンくずをつけ、がふがふ食べる。

 僕は対面に座り、ホットコーヒーを飲みながらその様子を見ていた。


「ねえ瑠美ちゃん、幼稚園って、年中さんいる?」


「ん~? いるよ~。そのしたにねんしょうさん~」


 そうか……。

 ということは、今の精神年齢は五歳ということになる。

 となると、明日は年中、明後日は年少……三歳だ。


 それにしても、中学生から小学校高学年はそれほど変わらなかったけれど、小学生から幼稚園児は一気に変わった印象だ。


 特にしゃべり方が、やや舌っ足らずになっている。

 パジャマの着こなしもだらしないし、髪の毛もくっしゃくしゃのままだった。

 女の子って、こんなに変わるんだ。


「ぷあっ! ごちそうさまでしたっ!」


 ごっごっ、とカルピスを飲みきった瑠美ちゃんは、ぼろぼろのハンドタオルを持って立ち上がる。


「???????」


 なんだかむずむずと上半身を動かして、深いそうな面立ちになっていた。

 ……あ、まさか!


「このむねのやつ、きらい~」


 突然、ばっ! と上着をまくりあげ、力任せにブラをはずした!


「ちょっ!?」


 ふるん、と、想像以上にある乳房をあらわにして、手に握ったブラを僕の顔に投げつけてきた。


「きゃはははははは!」


 胸をはだけさせたまま、楽しそうに笑う瑠美ちゃん。

 あう、顔に暖かい布が……。


「こらー、なにをするんだよ!」


「ねえそらちゃん、こうえんいこ~!」


 うわあ、己の欲求に素直だなあ。

 とはいえ、幼稚園児にブラをつけておけって、そりゃ無理な話……なのかな。


 うう、わからない。


 僕はブラを洗濯機に放り込み、リビングに戻ってくると、瑠美ちゃんの姿がなかった。


「あれ、瑠美ちゃん!?」


 刹那。

 いきなり後ろから飛びつかれた!


「きゃはははは、ここだよ~!」


「うわ、ちょ、やめ」


 中身は幼稚園児でも、身体は中学二年生。

 それなりに出るところは出てるし、柔らかい。

 ……男が、反応しちゃうんだよ。


「ねえ、公園! こ~う~え~ん~!」


「わかった、わかったから離して……」


「わ~い、おっでかけ~」


 瑠美ちゃんは屈託のない笑顔で、ぴょんぴょん飛び跳ねた。

 これはこれで、可愛いなあもう。


「お外にいくなら、着替えないとね」


「ふむ。そ~だねぇ~」


 瑠美ちゃんは真剣な顔になると、自分の部屋に走っていった。

 これは、まずいなあ。

 あんな調子でくっつかれたら、どうにかなってしまいそうだ。


 あれ、まてよ?


 さっき瑠美ちゃんは、僕のことをしっかり認識していた。

 幼稚園児でだぞ?


 普通なら、自宅に知らない男子中学生がいたら怖がるはずだし、そもそも僕のことを「そらちゃん」って呼んでいた。

 なんで――。


 ……あっ!!


 そうだ、どうして忘れてたんだろう。


 僕は瑠美ちゃんと同じ幼稚園だったじゃないか!

 年長の時だけ、同じクラスだった!

 僕が過去を掘り返していたその時、瑠美ちゃんが僕の前に服をどさっ、と投げて目を閉じ、顔を上げて両手を広げた。


「…………」


「…………」


「…………?」


「きせて」


「ええええええええええええ!?」


 そそっそ、そ、そんな!?

 無理!

 いくらなんでも、それは無理だよ!


「ね~、はやく~!」


「じ、自分で着られないかなぁ?」


「むずい~」


「うう……」


「はやく~」


「わ、わかったよ」


 僕はその場で待っている瑠美ちゃんの姿を目に焼き付け、床の服を手に取り、どのように着せるのかをシミュレーションする。

 瑠美ちゃんが選んだのは、Tシャツとブラウス、そしてスカートと白いソックスだった。


 さすがにソックスは自分でやってもらおう。

 目を閉じて、頭の中をすっからかんにすると、瑠美ちゃんのパジャマを一気に脱がせて、服を着せた。

 少し瑠美ちゃんの柔肌に触れちゃったけれど、これは不可抗力だ。


「わー、かわい~!」


 瑠美ちゃんは自分の格好を見て、スカートをひらひらさせながら喜んでいる。


 ……少し短すぎるなあ、このスカート。


「そらちゃん、さあいこ~!」


 いきなり玄関に走り出す。


「ちょ、待ってよ!」


 いきなり走り出す瑠美ちゃんを視界に捉えつつ、壁に掛けてある、この家の鍵と財布が入ったおばさんのサコッシュを自分の鞄に突っ込むと、急いで玄関に向かった。


「そ~ら~ちゃ~ん、はやく~!」


 満面の笑みで両手を振る瑠美ちゃん。

 その大きな声に、鼻の頭がぴりぴりとしびれる。


 普段でも可愛いのに、加えて幼い愛くるしさも加わって、とんでもなく魅力的に見えてしまう。

 ……瑠美ちゃんがこんな時に、なにを考えているんだ僕は。


「待ってよ瑠美ちゃん。外にいくには準備が必要なんだよ……って、お?」


 ふと瑠美ちゃんの足下を見ると、スニーカーのひもが結ばれていなかった。

 うん、もしかして。


「瑠美ちゃん、靴ひもをしっかり結ぼうね?」


「あ、そか」


 唇をとがらせた瑠美ちゃんは、玄関にストンと腰を落とす。

 ……ん?


「はかせて~」


 ああ、やっぱり。

 確か僕もそうだった。

 幼稚園似通っていた頃、ひもがある靴がすごく苦手で、靴ひもを結ばずに歩いていて、盛大に転んでけがをした。

 痛い思い出ほど鮮明に残っているのは、なんでだろう。


 とにかく、僕は瑠美ちゃんの正面に座り、靴ひもを結ぶ。

 ……ぱんつが丸見え。


「ん~、どしたの? はやく~!」


 膝から奥は見ない、見ない。

 僕は頭をぶんぶんと振り、瑠美ちゃんの靴ひもを一気に結んで立ち上がった。


「さあ、いこっか!」


「うん!」


 こうして僕は瑠美ちゃんの手を繋ぎ、マンションの階段を下りて公園に向かった。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


「ねえそらちゃん、おすなば、いこ~!」


 いつの間にか立場が逆転し、瑠美ちゃんが僕の手を引っ張っている。いくら瑠美ちゃんの方が背が低いとはいえ、幼稚園児のパワーを備えているので、かなり力強く感じた。


「ちょ、ちょっと待って。少し休ませて……」


「え~」


 唇をとがらせる瑠美ちゃん。

 早く遊びたくて仕方がないらしい。


 今日はやけに、いつもの回転滑り台ではなく、強く砂場にこだわっている。

 幼稚園児の頃の瑠美ちゃんとは……そうだ、よく園庭にあった砂場で遊んだっけ。喜び走って砂場に手を突っ込む瑠美ちゃんを眺めて、僕の中でどんどん記憶が遡っていく。


「そ~ら~ちゃ~ん! はやくきて~!」


 手についた砂を振り払いながら、僕に笑顔を向ける瑠美ちゃん。

 その姿に、幼稚園の頃の記憶が掘り起こされてきた。


 小さな瑠美ちゃんが砂山の向こう側にいて、楽しそうに遊んでいる。

 その時も、今みたいに僕を呼んでくれたっけ。


「よーし、じゃあ遊ぶか!」


 僕はベンチに鞄を置き、砂場に向かって駆けた。

 この公園の砂場はきれいに整っていて、砂の量も十分だ。


 あの頃のように、瑠美ちゃんと砂山を作る。

 瑠美ちゃんは丈の短いスカートでまたを広げていたので、もういろいろと丸見えだったけれど、僕は蠱惑的こわくてきなその姿に心を揺り動かされず、なぜか砂山に集中していた。


 ここに、この砂山に、なにかの鍵がある。

 直感が、そうささやいてきた。


 僕が山を平らにしてから、砂をすくって盛る。

 その上に瑠美ちゃんが、どさっ、と砂を載せる。

 再び僕が山の頂上をならして砂をかける。

 また瑠美ちゃんが両手いっぱいの砂を山に降らせる。


 そんな共同作業をしていると、およそこの小さな公園には似つかわしくない、とても大きな砂山ができた。それもそうだ。なにせこれを作ったのは中学二年生の僕と、身体だけ同級生の瑠美ちゃんであり、小さな小さな幼稚園児ではない。


 瑠美ちゃんはすっと立ち上がって、スカートとお尻についた砂を手でぱんぱんとはたくと、できあがった砂山を満足そうに見下ろした。


「おやま、できたね」


「うん、できた」


「じゃあ、これでやくそく、まもってくれるよね」


「え?」


 約束……えっと、なんのことだろう?


「そらちゃん」


 これまで見たこともない緊張した面持ちで、やや目線を下げ、耳まで真っ赤になる瑠美ちゃん。

 そして、両手を僕に差しだした。

 それが何を意味するのか、わからないほど幼くない。

 僕はしっかりと、瑠美ちゃんを抱きしめた。


「やくそく、まもってよね」


 さて、困った。

 幼稚園時代の、僕と瑠美ちゃんの約束なんて、覚えているわけがない。

 となると、なんとかこの状況から推理して、瑠美ちゃんの口から引き出すのが最善だろう。


 ヒントは砂場、“やっとできた”砂山、瑠美ちゃんの表情、この三つだ。


 ……やってみよう。


「もちろんだよ。えっと、二人で砂山を完成させたら……と、友達になるんだっけ?」


 少し、突っ込みすぎたかな?


「はぁ? なにいってるのよ~っ! やくそくは“おとなになったら、わたしをおよめさんにしてくれる”だったでしょっ!」


「!?」


 お、う。

 な、なんという大胆な約束を!

 さすがは幼稚園児の僕!


 っていうか、うん?

 この流れって……まさか。

 約束をしてきたのは、瑠美ちゃん側のように感じる。


「もちろん覚えてるよ! でも、なんで瑠美ちゃんはそんな約束をしてきたの?」


 かまをかけてみる。

 中学二年生の瑠美ちゃんなら、こんなわかりやすい引っかけにはかからないと思うんだけどなあ。


「そ、そ、それはさ、そそそそ、そらちゃんが、すす、すき! だいすき、だから!」


 実に明朗な回答だった。

 でも――。


「ありがとう、嬉しい。僕も瑠美ちゃんが好きだよ」

「ふぁっ!?」


 ぎゅう、っと、僕を抱きしめる腕に力が入る。すっぽりと胸に納まった瑠美ちゃんの髪を撫で……ようとしたけれど、手に細かな砂がついていたのでやめた。


「わたし、ここにきてからさ、おともだちもできなかったし、ずっとさみしかった。そらちゃんがおともだちになってくれなかったら、きっと、どこかに、にげちゃってたかも」


「そん、な!?」


 ちょっと待ってくれ。

 今、瑠美ちゃんはとんでもないことを言ったし、僕も朧気おぼろげだけれど……思い出した。


 そうだ。

 そうだよ。



 瑠美ちゃんが“あすみ台幼稚園”に入園してきたのは年長からだ。



 幼稚園でも、仲良しとそうでないものがくっきりわかれていた。

 そんな環境に突然現れた瑠美ちゃんは、まだおとなしくて引っ込み思案で、なかなか友達を作れずにいた。そのまま夏休みを迎えるのはかわいそうだと思って……。


 思って、僕はどうした?


 瑠美ちゃんに僕から声をかけて、手を差し伸べて、友達になった。

 そして夏休み。

 この公園で、この砂場で。 

 二人で大きな砂の山をつくりあげたら、将来、お嫁さんにしてくれるかと言われ、確かに約束した。


 ここで。この場所で。


 とはいえ、幼稚園児の頃の約束だ。

 その後の小学生時代できれいさっぱり忘れてしまったし、仮に覚えていたとしても、真に受けていた方がおかしく思われるのが自然じゃないだろうか。


 そして僕らは大きな砂山を二人で完成させて、今みたいに抱き合って喜んだけれど、小学生になって別々の道に進み、中学校で再会した。


 あの時の約束を、覚えていてくれたんだ。

 だから瑠美ちゃんは中学で再会した僕に、告白してきたんだ!


 バラバラだったパズルが、一瞬にして完成する。

 このぬくもりが、答えだったんだ。



 でも……あした、君は僕を忘れる。



 幼稚園年中の頃、僕は瑠美ちゃんと知りあっていないのだから。

 つまり明日になれば、もう「そらちゃん」と呼んでもらえず、おそらく「知らないお兄さん」になるはずだ。


 だからこうして一緒にいられるのは、今日限りにするしかない。

 今夜、おばさんに言おう。


 僕は瑠美ちゃんが、大好きだ。

 そして瑠美ちゃんも、僕が好きだ。


 僕の頬を、つつっと涙が伝い、瑠美ちゃんの頭にぽとり、と玉が弾けた。


「そらちゃん、ないてるの?」


 僕から離れて、見上げる瑠美ちゃん。


「そらちゃん、かがんで」


「…………?」


 力なく両膝をつく僕。

 すると、じゃりじゃりした感触が、頭をゆっくりと動いていった。


「なかないで、よしよし。なかないで、そらちゃん」


 瑠美ちゃんの声。

 優しさ。

 愛くるしさ。

 言葉にできないおもい。

 息が詰まるほどの、胸の痛み。

 そして絶望的な……哀切。


「うぁ……あああああああああああああああ!」


 僕はまた瑠美ちゃんを抱きしめて、号泣した。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 その日。


 僕と瑠美ちゃんは日が暮れるまで目一杯遊んで、ファミリーマートで晩ご飯を買い、帰宅した。


 砂だらけ、泥だらけでお風呂に入りたかったけれど、瑠美ちゃんが「いっしょにはいろ~」と言い出したので、プリンで話題をそらして寝かしつけた。さすがに汚れた服のまま寝かしておくのはどうかと思い、眠った瑠美ちゃんを脱がせて、パジャマに着替えさせる。


 少し前なら、瑠美ちゃんの裸を見るなんてできなかったと思うけれど、今の僕の気持ちはただいとおしく、綺麗な彼女を汚している服を脱がせ、新しい服を着せる。


 それだけ。


 そこには赤心しかなかった。


 その後、すぐにおばさんにLINEを打つ。状況を理解したおばさんは、明日からは会社を休んで自分が見る、ここまでありがとう、と送られてきた。


 僕は風呂を沸かして身体を洗い、だインニングの椅子に腰掛けて、ファミリーマートのメロンパンを、飲むヨーグルトと一緒に食べた。


 パジャマ姿の瑠美ちゃんは、頭の下にタオルを敷いたソファに寝かせている。

 昼にかなり動き回ったので、僕のまぶたも重くなってきた。


 でも、ブラックコーヒーを飲んで無理矢理、意識を現実に引き戻す。

 瑠美ちゃんの顔を見られるのは、今が最後かもしれないんだ。


 寝ていられるわけがない。

 じっと、瑠美ちゃんの寝顔を見る。

 僕は席を立って瑠美ちゃんに近づき、すごく自然に……キスをした。


 僕の、ファーストキス。

 君に、あげるね。

 だから、どうか神様。

 僕から瑠美ちゃんを奪わないでください。

 瑠美ちゃんの手を握り、誰だかわからない神様に祈る。


 その時。


 玄関のドアが、がちゃん、という音を立てる。

 おばさんが帰ってきた。

 僕は滲んだ涙を拭うと、玄関に向かった。


「空ちゃん……」


 おばさんは少し疲れた様子で、肩で息をしている。

 両手にはたくさんの食材や、生活必需品が入った荷物を抱えていた。


「おつかれさまです」


 僕がそう言うと、おばさんは荷物を床に置いて、深々と頭を下げてきた。


「本当に、本当に、ここまでありがとう。きっと私だけだったらくじけていたと思う。仕事に没頭することで現実逃避してたけど……ここからは、ちゃんとお母さんしないとね」


 仕事に没頭すると、忘れられる?

 よくわからないけれど、おばさんは僕以上に苦しんでいたに違いない。


「いえ、僕が好きでやったことですから。むしろ、ここまで僕に任せてくださって、ありがとうございます。おかげで、自分の気持ちをしっかり持てました。僕は、瑠美ちゃんが大好きです」


「空ちゃ……うう……」


 おばさんが、たっ、と床を蹴り、僕を抱きしめてくれる。

 身長は瑠美ちゃんと変わらないから、胸にすっぽり頭が入る。

 大人特有の、薬みたいな匂いがした。そしておばさんは、肩を震わせて泣いていた。


「僕なんかが言ってもなんの気休めにもならないかもしれませんけど、瑠美ちゃんは大丈夫です。僕はきっと、また、あすみ台中学校に、瑠美ちゃんが帰ってくることを信じてます。信じないと、駄目だと思うんで」


 思ったことを口にしていた。

 もちろん、根拠なんかない。

 これは、ただの僕の“願い”なんだ。

 おばさんは僕を一度だけぎゅっと抱きしめ、身体を離した。


「そうね。そうだよね。ここは母親であり、大人である私がしっかりしなくちゃ。本当にありがとう、空ちゃん」


「僕、本当は、ずっとそばにいたいです。でも、この状態の瑠美ちゃんから拒絶されたら、きっと、すごく傷つくと思うんです。だから……帰ります。帰って、信じて、待ってます!」


「うん……うん……ほんとに、ありがと。また連絡するわね」


「はい。良いニュースを待ってます」


 僕は作り笑いを浮かべると、荷物をまとめ、星野家を後にした。

 帰ってきてよ、瑠美ちゃん。

 僕は、信じて待っているから。


 がんばれ、星野瑠美子!


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 それから……なんの連絡もないまま……二十日が過ぎて、学校は夏休みに入った。


 瑠美ちゃんが幼稚園児の年長まで遡ってしまってから今まで、ずっと瑠美ちゃんのことを祈り、願い、想っていた。


 こんなに好きになっていたなんて。

 一緒にいた時には感じられなかったので、寂寞せきばくの感は否めない。


 部屋にいると、鬱々うつうつとしてしまう。

 今の時刻は午前十一時。


 僕は少し風に当たろうと、スマートフォンと鞄を持って家を出た。


 目的もなく、考えもないので、無心で道を歩く。

 僕の家は目の前が細道だから、まず大通りに出なくてはならない。


 ただ……どうしても瑠美ちゃんのことを考えて、うつむきがちになる。


 どうして、連絡がないんだろう。

 今、瑠美ちゃんはどんな状態なんだろうか。

 とはいえ、僕から連絡する勇気はない。


 怖い。会いたい。好き。寂しい。一緒にいたい。

 嫌な報告は……目にも耳にも入れたくない。


 誰かとぶつかりそうになった。

 でも僕の頭は瑠美ちゃんでいっぱいで、注意力も低下しているらしい。

 そもそも、外に出るのがかなり久しぶりだ。


 ご飯も食べられなくて、五キロも体重が減った。

 胸が締めつけられるように苦しい。

 こんなの、真綿で首を絞められるよりもきつい。


「……行ってみようか」


 顔をあげて、ひとりごちる。

 このまま鬱々としているよりも、白黒はっきりつけた方が良いのかもしれない。

 よし。

 瑠美ちゃんのマンションに――。


「どこに?」


 その声が耳に入ると、目が開き、全身から汗が噴き出て、心臓がばくんと跳ね上がった。

 がばっ、と振り返る。

 さっきぶつかりそうになった人だ!

 その人は。


「空ちゃん」


 元気いっぱい右手をあげて嬉しそうな笑顔の、瑠美ちゃんだった。



      完


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