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九話 琴乃

 僕は、集合場所に向かっていた。


 ……いや、向かっていたというより、もう到着している。


 約束の時間よりも二十分も早く来たはずなのに、そこにはすでに美琴の姿があった。


 「美琴、おはよう」


 「悠斗君、おはようございます」


 笑顔で手を振る彼女は、どこか子供のような無邪気さがあって――


 「……相変わらず早くない? 今回は僕も、かなり早く来たつもりだったんだけどなぁ」


 「ふふっ。楽しみすぎて……つい、早く来ちゃいました」


 そう言って微笑む彼女に、思わず僕も笑ってしまう。


 「そういえばさ、琴乃さんってどの辺に住んでるの?」


 その言葉に、美琴の表情が一瞬だけ曇った。

 けれど、すぐに柔らかな笑みに戻る。


 「実は……少し訳ありなんですけど。つい最近、温泉郷に住み始めたんですよ」


 温泉郷……。


 「陽菜さんを思い出すね」


 僕がそう言うと、美琴も優しい目をして頷いた。


 「はい。陽菜さんにも、会っていきましょう」




 前回と同じように、バスに揺られて数時間。

 今回は霧も出ていなくて、温泉郷の景色はくっきりと見えた。


 ……まあ、霧が出たところで、きっと陽菜さんが案内してくれるんだけど。


 「住所は……こっちですね」


 スマートフォンを手にした美琴が、前方を指さす。

 僕はそのあとに続いた。


 「あと五分ほどで着きますね」


 その言葉に、なんだか胸がドキドキする。


 大丈夫、挨拶の練習もした。

 ちゃんと礼儀も意識してる。

 ……よし、いける。




 そして、僕たちは琴乃さんの家の前に到着した。


 ――大きな平屋の一軒家。

 建物はどこか懐かしい和風造りで、整えられた庭には石畳と小さな苔が茂っていた。


 古さはあるけれど、不思議と清潔感があって、落ち着いた雰囲気が漂っている。




 「上がりましょう」


 美琴が玄関を開けて中へ入っていく。


 「琴乃姉さん、入るよー!」


 家の奥に向かってそう声をかける。


 ……美琴のタメ口!?


 レアすぎて、なんだか貴重なシーンを見た気がする。


 「お、お邪魔します……」


 僕も靴を脱いで後を追った。




 中は、驚くほどシンプルだった。


 無駄なものは一切置かれておらず、整えられた畳と、壁にかけられた小さな絵画。

 淡い木目の床に、仄かな柚子の香りが漂っている。


 まるで、長く静かに暮らすことを選んだ人の空気。

 余計なものをそぎ落とした静けさが、どこか潔く、凛としていた。




 奥の部屋まで進むと、そこには――


 ベッドに横たわる、大人びた女性の姿があった。


 黒髪のショートカット。

 前髪は真ん中で分けられ、左右にさらりと流れている。

 派手ではないが、洗練されたその髪型は、意志の強さを感じさせた。


 肌は白く、目元は少し疲れているけれど、その瞳はまっすぐだった。

 鋭いけれど、どこか優しさを含んでいて……何かを見透かすような静けさを湛えている。


 「……来たわね」


 琴乃さんは、ゆっくりと顔を上げ、僕たちを見つめていた。



「どうも、初めまして。美琴から聞いてるだろうけど……アタシは琴乃。君が――悠斗君だよね?」


「は、はい。初めまして、櫻井悠斗と申します」


「ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。あなたのこと、美琴からたっぷり聞いてるから」


その瞬間、美琴の顔が真っ赤に染まった。


「ちょ、ちょっと琴乃姉さん……!」


隣でわたわたと焦る彼女を、琴乃はくすっと楽しそうに眺めている。


「悠斗君、いつも美琴がお世話になってるわね。ありがとう」


琴乃さんはベッドの上から、静かに深く頭を下げる。


「い、いえ!そんな……! むしろ、僕の方が守られてばかりで……」


恐縮しながらも必死に返す僕に、琴乃さんはゆっくりと顔を上げて言った。


「ふふ。素直ね。――守られていても、あなたは良い男よ」


「……あ、ありがとうございます」


「琴乃姉さんっ! 悠斗君をからかわないでよっ」


ぷくっと頬を膨らませて抗議する美琴。

その様子に、琴乃さんはまた微笑む。


そして、ふと――空気が変わった。


「で、美琴。急にこんなところに来たってことは……何か、理由があるんでしょ?」


琴乃さんの声が静かに引き締まる。


美琴は真剣な表情で頷いた。


「前にも話したよね? “遥さん”っていう人が、私を助けてくれたって。その人が……悠斗君のお母さんだったの」


「……なんですって?」


琴乃さんの目が、大きく見開かれる。


「アタシが動けるなら……今すぐにでもお礼を言いに行きたいところだけどね」


そう言ってから、美琴の言葉に静かに耳を傾ける。


「でもね、悠斗君のお母様……。十年前、迦夜に襲われて、今も意識不明のままなんだ」


「迦夜に……?」


琴乃さんの顔から、一気に血の気が引いた。


しばし、沈黙が落ちる。


「……なるほど。そういうことか。アタシに“覚悟”を見せに来たってわけね?」


琴乃さんは、ベッドから身を起こし、美琴に手を向ける。


「確認するよ」


掌をすっとかざす。


「……っ、アンタ。強制成仏を使ったわね」


「うん。……でも、後悔はないよ」


静かに答える美琴の声には、迷いがなかった。


「………。力はついてきたね。今やもう、アタシより強いくらい。でも――それでも、まだ“迦夜”には届かないよ」


琴乃さんは、はっきりとそう言い切った。


「迦夜って……そんなに強いんですか……?」


思わず、僕が尋ねると


琴乃さんは少しだけ目を細めて、美琴と視線を交わした。


「そうね。……“怨霊”って呼ばれてるものの中でも、迦夜は異質。力だけなら、多分……一線を越えてるわ」


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