僕は、集合場所に向かっていた。
……いや、向かっていたというより、もう到着している。
約束の時間よりも二十分も早く来たはずなのに、そこにはすでに美琴の姿があった。
「美琴、おはよう」
「悠斗君、おはようございます」
笑顔で手を振る彼女は、どこか子供のような無邪気さがあって――
「……相変わらず早くない? 今回は僕も、かなり早く来たつもりだったんだけどなぁ」
「ふふっ。楽しみすぎて……つい、早く来ちゃいました」
そう言って微笑む彼女に、思わず僕も笑ってしまう。
「そういえばさ、琴乃さんってどの辺に住んでるの?」
その言葉に、美琴の表情が一瞬だけ曇った。
けれど、すぐに柔らかな笑みに戻る。
「実は……少し訳ありなんですけど。つい最近、温泉郷に住み始めたんですよ」
温泉郷……。
「陽菜さんを思い出すね」
僕がそう言うと、美琴も優しい目をして頷いた。
「はい。陽菜さんにも、会っていきましょう」
前回と同じように、バスに揺られて数時間。
今回は霧も出ていなくて、温泉郷の景色はくっきりと見えた。
……まあ、霧が出たところで、きっと陽菜さんが案内してくれるんだけど。
「住所は……こっちですね」
スマートフォンを手にした美琴が、前方を指さす。
僕はそのあとに続いた。
「あと五分ほどで着きますね」
その言葉に、なんだか胸がドキドキする。
大丈夫、挨拶の練習もした。
ちゃんと礼儀も意識してる。
……よし、いける。
そして、僕たちは琴乃さんの家の前に到着した。
――大きな平屋の一軒家。
建物はどこか懐かしい和風造りで、整えられた庭には石畳と小さな苔が茂っていた。
古さはあるけれど、不思議と清潔感があって、落ち着いた雰囲気が漂っている。
「上がりましょう」
美琴が玄関を開けて中へ入っていく。
「琴乃姉さん、入るよー!」
家の奥に向かってそう声をかける。
……美琴のタメ口!?
レアすぎて、なんだか貴重なシーンを見た気がする。
「お、お邪魔します……」
僕も靴を脱いで後を追った。
中は、驚くほどシンプルだった。
無駄なものは一切置かれておらず、整えられた畳と、壁にかけられた小さな絵画。
淡い木目の床に、仄かな柚子の香りが漂っている。
まるで、長く静かに暮らすことを選んだ人の空気。
余計なものをそぎ落とした静けさが、どこか潔く、凛としていた。
奥の部屋まで進むと、そこには――
ベッドに横たわる、大人びた女性の姿があった。
黒髪のショートカット。
前髪は真ん中で分けられ、左右にさらりと流れている。
派手ではないが、洗練されたその髪型は、意志の強さを感じさせた。
肌は白く、目元は少し疲れているけれど、その瞳はまっすぐだった。
鋭いけれど、どこか優しさを含んでいて……何かを見透かすような静けさを湛えている。
「……来たわね」
琴乃さんは、ゆっくりと顔を上げ、僕たちを見つめていた。
「どうも、初めまして。美琴から聞いてるだろうけど……アタシは琴乃。君が――悠斗君だよね?」
「は、はい。初めまして、櫻井悠斗と申します」
「ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。あなたのこと、美琴からたっぷり聞いてるから」
その瞬間、美琴の顔が真っ赤に染まった。
「ちょ、ちょっと琴乃姉さん……!」
隣でわたわたと焦る彼女を、琴乃はくすっと楽しそうに眺めている。
「悠斗君、いつも美琴がお世話になってるわね。ありがとう」
琴乃さんはベッドの上から、静かに深く頭を下げる。
「い、いえ!そんな……! むしろ、僕の方が守られてばかりで……」
恐縮しながらも必死に返す僕に、琴乃さんはゆっくりと顔を上げて言った。
「ふふ。素直ね。――守られていても、あなたは良い男よ」
「……あ、ありがとうございます」
「琴乃姉さんっ! 悠斗君をからかわないでよっ」
ぷくっと頬を膨らませて抗議する美琴。
その様子に、琴乃さんはまた微笑む。
そして、ふと――空気が変わった。
「で、美琴。急にこんなところに来たってことは……何か、理由があるんでしょ?」
琴乃さんの声が静かに引き締まる。
美琴は真剣な表情で頷いた。
「前にも話したよね? “遥さん”っていう人が、私を助けてくれたって。その人が……悠斗君のお母さんだったの」
「……なんですって?」
琴乃さんの目が、大きく見開かれる。
「アタシが動けるなら……今すぐにでもお礼を言いに行きたいところだけどね」
そう言ってから、美琴の言葉に静かに耳を傾ける。
「でもね、悠斗君のお母様……。十年前、迦夜に襲われて、今も意識不明のままなんだ」
「迦夜に……?」
琴乃さんの顔から、一気に血の気が引いた。
しばし、沈黙が落ちる。
「……なるほど。そういうことか。アタシに“覚悟”を見せに来たってわけね?」
琴乃さんは、ベッドから身を起こし、美琴に手を向ける。
「確認するよ」
掌をすっとかざす。
「……っ、アンタ。強制成仏を使ったわね」
「うん。……でも、後悔はないよ」
静かに答える美琴の声には、迷いがなかった。
「………。力はついてきたね。今やもう、アタシより強いくらい。でも――それでも、まだ“迦夜”には届かないよ」
琴乃さんは、はっきりとそう言い切った。
「迦夜って……そんなに強いんですか……?」
思わず、僕が尋ねると
琴乃さんは少しだけ目を細めて、美琴と視線を交わした。
「そうね。……“怨霊”って呼ばれてるものの中でも、迦夜は異質。力だけなら、多分……一線を越えてるわ」