彼、
紗英は、あの時声を掛けたりしなければ…と猛烈に後悔していた。
陽介の妻から、慰謝料の請求がきたからである。四ヶ月で、二百万…。紗英にしてみたら、大きな額になる。陽介にも同様に慰謝料の請求はきたという。
紗英は、知らず知らずのうちに、堕ちていったのだ。陽介に妻子がいることを知らされたのは、つい最近のことである。紗英は驚きつつも、それでも陽介のことが好きでたまらなかった。
それがまさか、こんなことになるとは、紗英も、陽介さえも、予測出来なかった。
紗英は陽介にメールを送る。
「これから、どうする?」
陽介も頭を悩ませていた。
「…そうだな…。会社の上司にもバレてしまってるし・・・。会社にも居づらくなるかな…」
「私も、辞めなくちゃいけなくなるのかな…」
「…か、左遷されるか、だな」
「それは、イヤ!」
「…だよな」
都会から地方へ左遷、ともなればかなり大変である。
「ねぇ、奥さんにもバレちゃったことだし…。私たち、一緒に暮らさない?」
紗英は思わず、言葉にしてしまった。
「…離婚出来るかどうか分からない。離婚調停となれば、かなり不利になるし。時間が掛かっても、君が待っていてくれるならば、考えるよ」
陽介の返事はいつも「考えておく」が多かった。紗英は、それは彼なりの「優しさ」と勘違いしてしまっていた。思い返せば、付き合いはじめて二ヶ月が過ぎた頃、紗英から
「同棲しようか?」
と提案した時も、「そうだな、考えておくよ」
だった。それが彼なりの優しさだと、勘違いしていた。
紗英はスマホを見つめたまま、ため息をひとつ吐いた。画面に表示された陽介のメッセージは、短くて、淡々としていて、心に何も残らなかった。
「…また、“考える”か」
つぶやく声が、自分でも驚くほどかすれていた。
部屋の中は静まり返っていて、壁に掛けられた時計の秒針だけが、時間を刻んでいた。冷蔵庫の中には、昨日買ったままの惣菜がそのままになっている。食欲なんて、とうに失っていた。
あの時、声をかけなければ。あの時、彼の指に光るリングに気づいていれば。
でも——。
「…好きになっちゃったんだもん、しょうがないじゃん」
自分に言い訳のようにそう呟くと、こみ上げてくる涙を指で拭った。
すると、スマホが小さく震えた。陽介からの返信だった。
> 「もう少しだけ、時間がほしい。ちゃんと君にも、妻にも責任を取れるようにするから」
その言葉に、紗英は思わず口元をゆがめた。
「責任、ってなに? 誰に対しての? 私? 奥さん? 自分?」
どこか空虚な言葉だった。自分に言い聞かせるような優しさ。はっきりしたことは何も言わず、でも何も否定しない。
まるで、ぬるま湯みたいな関係。
それでも——、
紗英は陽介が好きだった。
数日後、紗英は会社の更衣室で荷物をまとめていた。辞表はもう提出済みだ。正式な退職日は来週だが、今日は有給を消化する最終出勤日。
陽介とは、ここ数日まともに連絡を取っていなかった。彼も部署を異動させられたらしく、同じフロアですれ違うこともなくなった。
同僚の佐伯が、更衣室の扉をノックした。
「紗英ちゃん、もう帰るの?」
「うん、今日が最後」
「そっか…。あの…、あんまり言いたくないけど、今回のこと、大変だったね」
「うん…。でも、自分の選んだことだし」
「……後悔してる?」
少しの間、紗英は黙っていた。でも、やがて、静かに答えた。
「後悔、してるよ。でも、全部じゃない」
「全部じゃない?」
「うん。陽介と笑い合った時間は…、本当だったから」
佐伯は何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。
退社後、紗英はひとりで海沿いの町に向かった。東京から電車で三時間ほどの、小さな港町。以前、陽介と旅行の話をしていた時、彼が「ここ、いいところなんだよ」と言っていた場所だった。
誰もいない夕暮れの浜辺で、紗英はコートのポケットに手を入れ、波の音を聞いていた。
スマホを取り出して、陽介の名前を見つめる。でも、指は動かない。
「もう、いいよね…?」
風が、髪を揺らした。
その夜、紗英は陽介に最後のメッセージを送った。
> 「あなたと過ごした日々は、本当に幸せだった。でも、私はもう、前に進むね。どうか、あなたも。」
送信を押すと、スマホをそっと伏せた。
波の音は、変わらず優しく耳に届いた。少しずつ、紗英の中に静けさが広がっていく。