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堕ちていく
堕ちていく
菊池まりな
恋愛現代恋愛
2025年04月12日
公開日
8,036字
連載中
紗英は、転職してから入社した会社で陽介に出会う。紗英は陽介に一目惚れしてしまい、恋に落ちるが、交際数ヶ月後に、陽介には妻子があることを知らされる。

第1話  終わりの始まり

 紗英さえはつらい思いをするだけなら、もう彼と会ったりしない方がいいのか…と悩んでいた。


彼、陽介ようすけと出会ったのは、四ヶ月前。中途入社した会社で、出会った。一目惚れだった。


紗英は、あの時声を掛けたりしなければ…と猛烈に後悔していた。


陽介の妻から、慰謝料の請求がきたからである。四ヶ月で、二百万…。紗英にしてみたら、大きな額になる。陽介にも同様に慰謝料の請求はきたという。


紗英は、知らず知らずのうちに、堕ちていったのだ。陽介に妻子がいることを知らされたのは、つい最近のことである。紗英は驚きつつも、それでも陽介のことが好きでたまらなかった。


それがまさか、こんなことになるとは、紗英も、陽介さえも、予測出来なかった。


紗英は陽介にメールを送る。

「これから、どうする?」

陽介も頭を悩ませていた。

「…そうだな…。会社の上司にもバレてしまってるし・・・。会社にも居づらくなるかな…」

「私も、辞めなくちゃいけなくなるのかな…」

「…か、左遷されるか、だな」

「それは、イヤ!」

「…だよな」


都会から地方へ左遷、ともなればかなり大変である。


「ねぇ、奥さんにもバレちゃったことだし…。私たち、一緒に暮らさない?」

紗英は思わず、言葉にしてしまった。

「…離婚出来るかどうか分からない。離婚調停となれば、かなり不利になるし。時間が掛かっても、君が待っていてくれるならば、考えるよ」


陽介の返事はいつも「考えておく」が多かった。紗英は、それは彼なりの「優しさ」と勘違いしてしまっていた。思い返せば、付き合いはじめて二ヶ月が過ぎた頃、紗英から

「同棲しようか?」

と提案した時も、「そうだな、考えておくよ」

だった。それが彼なりの優しさだと、勘違いしていた。

紗英はスマホを見つめたまま、ため息をひとつ吐いた。画面に表示された陽介のメッセージは、短くて、淡々としていて、心に何も残らなかった。


「…また、“考える”か」


つぶやく声が、自分でも驚くほどかすれていた。


部屋の中は静まり返っていて、壁に掛けられた時計の秒針だけが、時間を刻んでいた。冷蔵庫の中には、昨日買ったままの惣菜がそのままになっている。食欲なんて、とうに失っていた。


あの時、声をかけなければ。あの時、彼の指に光るリングに気づいていれば。


でも——。


「…好きになっちゃったんだもん、しょうがないじゃん」


自分に言い訳のようにそう呟くと、こみ上げてくる涙を指で拭った。


すると、スマホが小さく震えた。陽介からの返信だった。


> 「もう少しだけ、時間がほしい。ちゃんと君にも、妻にも責任を取れるようにするから」


その言葉に、紗英は思わず口元をゆがめた。


「責任、ってなに? 誰に対しての? 私? 奥さん? 自分?」


どこか空虚な言葉だった。自分に言い聞かせるような優しさ。はっきりしたことは何も言わず、でも何も否定しない。


まるで、ぬるま湯みたいな関係。


それでも——、

紗英は陽介が好きだった。


 数日後、紗英は会社の更衣室で荷物をまとめていた。辞表はもう提出済みだ。正式な退職日は来週だが、今日は有給を消化する最終出勤日。


陽介とは、ここ数日まともに連絡を取っていなかった。彼も部署を異動させられたらしく、同じフロアですれ違うこともなくなった。


同僚の佐伯が、更衣室の扉をノックした。


「紗英ちゃん、もう帰るの?」


「うん、今日が最後」


「そっか…。あの…、あんまり言いたくないけど、今回のこと、大変だったね」


「うん…。でも、自分の選んだことだし」


「……後悔してる?」


少しの間、紗英は黙っていた。でも、やがて、静かに答えた。


「後悔、してるよ。でも、全部じゃない」


「全部じゃない?」


「うん。陽介と笑い合った時間は…、本当だったから」


佐伯は何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。


 退社後、紗英はひとりで海沿いの町に向かった。東京から電車で三時間ほどの、小さな港町。以前、陽介と旅行の話をしていた時、彼が「ここ、いいところなんだよ」と言っていた場所だった。


誰もいない夕暮れの浜辺で、紗英はコートのポケットに手を入れ、波の音を聞いていた。


スマホを取り出して、陽介の名前を見つめる。でも、指は動かない。


「もう、いいよね…?」


風が、髪を揺らした。


その夜、紗英は陽介に最後のメッセージを送った。


> 「あなたと過ごした日々は、本当に幸せだった。でも、私はもう、前に進むね。どうか、あなたも。」



送信を押すと、スマホをそっと伏せた。


波の音は、変わらず優しく耳に届いた。少しずつ、紗英の中に静けさが広がっていく。

















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