小さいころから目の前に糸が見えていた。
白い壁や青空を見ると、視界に現れる糸。
視線を変えてもついてくるし、視線を合わせようとするとすごい速さで逃げていく。
プレパラートに挟まった微生物を顕微鏡で見ているような、透明な糸状の物体が視界の中に見えていた。
親に相談しても、面倒だと思ったのか、適当に流されて悲しかった思い出がある。
他人には見えないものが見えているのかもしれないと、当時は気にしないようにしていた。
小学生のころ、この症状が「飛蚊症(ひぶんしょう)」という名だと知った。
夕方のニュースで特集していた。
人によっては、ゴマ粒やカエルのタマゴ、たばこの煙、虫状の浮遊物が視界の中に見えるらしい。
小さいころからある症状なら心配する必要はないが、浮遊物の数が急に増えたりと症状が変化した場合は、病気の可能性もあるので眼科を受診することをお勧めする。
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私は大学一年生。名前は「皿田(さらだ)はる」。
小中高のあだ名は「さだはる」。
女の子なのに男みたいなあだ名が好きではなかった。
新学期になると「はるちゃん」と呼んでねアピールをしてきたが、いつのまにか「さだはる」に戻るのでもうあきらめていた。
大学では知り合いがいないので、「はるちゃん」呼びを広めていこうと思っている。
今は入学式前の春休みで、大学から徒歩圏内で六畳一間のマンションに住みはじめたばかりだ。
一人暮らしは人生初めてで、部屋の中は引っ越し時の段ボールのほかに、こたつとふとんがあるだけの殺風景な部屋である。
今日は四月一日で良く晴れた日だが、朝方はまだ寒い。
首までこたつに入りながらふと窓の方を見ると、窓からの明るさで見やすくなった飛蚊症の糸が視界にまとわりついた。
糸を直視しようとすると滑るように横にそれていくんだよな。
こたつから左手を出し、手のひらを窓に向けて、明るさを変えてみても変化なし。
糸は視界の中に集結し、私の視線から逃げ回るかのように視界の中を飛び回る。
小さいころからの症状なので慣れてはいるが、引っ越し直後でガランとした部屋だからか、まとわりつく糸を鬱陶しく思えた。
はぁとため息が出たとき、甥っ子のことを思い出した。
甥っ子が小さいころは、姉の後ろからのぞき見している人見知りの子どもだったな。
甥っ子と目が合うと、あわてて視線をそらされたりしたっけ。
飛蚊症の糸もそうかもな。
「目を合わせられない照れ屋さん……、だったり?」
クスっと自嘲した笑いになった時、糸がハッとしたような動きをした。
ん?
いつもすごい勢いでいなくなるのに、なんでいま直視できているのだろう。
ひらがなの「し」を左に少し傾けたような形で、硬直した様子でそこにいる。
次の行動を決めかねていたら、私の左手の中に吸い込まれるようにスーっと消えていった。
「えっ、ちょっと待って」
私はびっくりして、勢いよく左手を離した。
左手があった場所には、ビックリしたような糸がそこにいた。
手の平と手の甲を交互に確認したが、私の手に異常はない。
ただし、透明だった糸に色がついていた。
顔を近づけてよく見ると、ひらがなの「し」の形をしたひも状のグミのようにみえる。
ボーリング調査で掘削された地層のような層があって、肌色、白、赤……と気持ち悪い配色になっている。
「なにこれ」
左手を糸に近づけて比較してみた。
もしかして私の手の色?
白色と赤色は何。
手の中の色とか?
肌色は肉で、白色と赤色は骨と血液だったりする?
私の手の肉は無事だから……。
色になりきるとか?
色をコピーできるのかな。
しかし、生々しくおぞましい。
私の手の中の組織が「し」の形のまま取り出されたみたいだ。
でも、さっきはこんな色じゃなかったよね。
「元に戻ったりできるの?」
色のついた糸は透明なひらがなの「し」に戻って、すごい勢いで視界から消えていった。
どういうこと?
たしか、甥っ子のように照れ屋さんで、目を合わせられない恥ずかしがり屋の子どものようだと思ってから、飛蚊症の糸の「し」が視界に留まったよね。
ビックリして、ちょっと待ってと思って……。
待つ?
待てと言うことでその場に留まってくれるのかも。
「ちょっと待って?」
途端に、視界に透明な糸の「し」が、水面に浮いたアメンボのように私の視界の中でゆっくりと漂っている。
なにこれおもしろい。
新しいおもちゃを与えられた子どものような気分になった。
たしか、糸は物の中に入り込んで色をコピーできるかもしれないんだよね。
もう一回やってみようか。
「ペットボトルのコーヒーの中に入ってちょっと待つことできる?」
床にあった飲みかけのコーヒーを指さす。
視界の中にいた糸はペットボトルのコーヒーの中にビューっと消えていった。
ペットボトルを横にずらすと、コーヒー色に染まった糸がひらがなの「し」の形でそこに留まっていた。
私は様々な方向から糸を観察した。
コーヒー色のグミが漂っているように見える。
空中にいるときは透明で、物の中にいるときはその色になりきってるのかもしれない。
「君、すごいね」
すると、糸は弾んだように裏返ったり、元に戻ったりした。
喜んでいる?
「し」の下の部分が犬のしっぽのようにフリフリしているようにも見える。
なんだか嬉しそう。
かわいいな。
もしかして、飛蚊症の糸には意思がある?
一人暮らしを開始した寂しさからの夢か妄想か。
エイプリルフールは関係ないか。
まあ何でもいいや。
せっかくだから名前つけよう。
「君に名前つけていい?」
コーヒー色に染まった糸は上下に動いた。
まるでイエスと答えているかのよう。
「そうだな。飛蚊症(ひぶんしょう)だから、略して『ヒブ』でどう?」
ヒブは激しく上下に動いた。
いつもひらがなの「し」の形だから、「しーちゃん」でも良かったけど、ヒブが気に入ったならそれでいいか。
独りぼっちだと思っていた四月一日という日に、ヒブという名の友達ができました。