目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話   覚醒

「駄目だよ、舞弥。こんなときにまで僕なんかに構ったら君まで殺されちゃう」


「いいからあんたは黙ってなさい」


 舞弥はユタラを庇うように抱き締めると、中肉中背の男と激しい視殺戦を繰り広げている長身痩躯の男に声をかけた。


「ねえ、お願いだからあたしの話を聞いて。この子は歩かないんじゃなくて歩けないの。そういう病気なのよ」


 長身痩躯の男はこちらに向き直り、ふんと鼻を鳴らした。


「まさか、病人なら見逃してもらえるとでも思ったのか? だとしたら大間違いだ。病人だろうと何だろうとレースには参加してもらうぞ」


「ええ、ちゃんと理解してる。そこで、あたしから一つ提案があるの」


「提案?」


「あたしをこの子に同行させて。あたしたちは二人でゴールを目指すわ」


「二人でゴールを目指す? そんなこと認めるわけないだろ!」


 舞弥の意外な提案を長身痩躯の男はにべもなく一蹴したが、武装ゲリラの中で一人だけ面白そうに含み笑いを漏らした人物がいた。


 リーダーと思しき中肉中背の男である。


「面白い。君の勇気ある行動に免じて特別に同行を許可してやろう。ただし、生き残れるのは誰よりも早くゴールに辿り着いた一人だけだ。例外は認めない。わかったな?」


「わかった」


 武装ゲリラの一人から同行の了承を得ると、舞弥はユタラの身体を優しく立ち上がらせるなり肩を貸すような形でゆっくりと足を動かした。


 後方から長身痩躯の男の文句が聞こえてきても気にしない。


 舞弥とユタラは一度も振り向かずに、先頭を歩いている子供たちの背中を懸命に追っていく。


 二十メートルほど進んだときだろうか。


 ユタラは重く閉ざしていた口を開いた。


「舞弥、どうして僕のことを助けてくれたの?」


「馬鹿ね。弟を助けるのは姉の役目でしょう。それにあんたは筋ジストロフィーに侵されている身なのよ。医者の娘としては放っておけないに決まっているじゃない」


 筋ジストロフィー。


 先天的な遺伝病の一つで年齢を重ねるごとに全身の筋力が萎縮していき、やがては日常生活すらも間々ならなくなる難病である。


 中でも最初に体験する困難は歩行であった。


 まともに歩いているつもりでも転んでしまうのだ。


 これは筋力の低下が足から始まる筋ジストロフィーの特徴であり、次第に筋力の低下は心臓へと行き着く。


 そして人間が生きている限り動き続ける心臓は、豊富な血液を全身に流通させる筋肉の固まりだ。


 早い話が筋ジストロフィーを発症させたユタラは、遅かれ早かれ死ぬ運命にあった。


 加えて筋ジストロフィーは現代医学を駆使しても根治しない難病。


 ましてやユタラは難民キャンプで暮らしていた孤児だ。


 要するに助かる手段など最初からなかったのである。


 それは難民キャンプの専属医であった舞弥の父親から何度も聞かされていた。


 筋ジストロフィーを発症してしまった自分は二十代で死んでしまう、と。


 五歳だった当時の自分にはショックが大きすぎる事実だったが、孤児であったユタラには過酷な運命を迎え入れる選択肢しか残されていなかった。


 それでもユタラが悲観せずに今日まで必死に生きてこられたのは、舞弥の温かい励ましと舞弥の父親に渡された〝奇跡の薬〟の存在があったからに他ならない。


「ユタラ、しっかりしなさい。立ち止まったら奴らに撃たれる」


 はっと我に返ったユタラは、舞弥の顔を覗き込んだ。


 難民キャンプで暮らしていた舞弥は少年たちに混じってスポーツを楽しむ一方、幼い子供たちに英語や日本語の読み書きを教えたりする文武両道な少女であった。


 他にも舞弥は誤解と偏見からくる差別を嫌う性格の持ち主であり、筋ジストロフィーを発症させた。


 そのことで周囲の子供たちが自分と一定の距離を置いた中、舞弥だけが以前と変わらない態度で接してくれた嬉しさは今でも鮮明に覚えている。


 だからこそ、その嬉しさとは裏腹に今後から誰かの助けを借りなければ生きていけない身体になった自分をユタラはひどく哀れんだ。


 もちろん、その思いは今でも変わらない。


(結局、僕は最後の最後まで誰かに守られるしかないのか)


 ユタラが顔を下に向けて自分の不甲斐なさに辟易したときである。


 鼓膜が破れるかと思うほどの巨大な爆発音が聞こえてきた。


 同時にユタラは見たくもない決定的瞬間を目撃してしまった。


 先頭を歩いていた何人かの子供たちが立て続けに爆発したのだ。


 砂塵の入り混じった黒煙が天高く舞い上がり、細かな肉片と血が雨となって不毛の大地に降り注ぐ。


 ついに恐れていたことが現実になった。


 真っ先にゴールを目指した子供たちが地雷原に突入したのである。


 当然のことながら爆心地に子供の姿はない。


 円形状にえぐられた砂地の周囲に、ピンク色の肉片や衣服の切れ端が飛散しているのみ。


 ユタラは下唇を強く噛み締めた。


 一体、自分たちが何をやったというのだろう。


 インドとパキスタンの国境近くにあった難民キャンプで慎ましく暮らしていただけじゃないか。


 悔しさと怒りで意識が空白になりかけたとき、肩を貸してくれていた舞弥は目元に薄っすらと涙を浮かべつつユタラに渇を入れた。


「ユタラ、残念だけどあたしたちには悲しんでいる暇なんてないのよ」


 舞弥の言うとおりである。


〈競走馬〉に参加した時点で自分たちの運命は決まったのだ。


 地雷原から逃げ出すか。


 地雷原を抜けてゴールであるヘリの残骸に到着するか。


 前者は確実な死が待っており、後者にはわずかな希望が残されている。


 そう思ったのはユタラだけではなかった。


 最初こそ爆死した仲間の悲惨な姿を見て生存中の子供たちは立ち止まっていたが、すぐに生存している子供たちは泣く泣くヘリの残骸へと両足を動かしていく。


「さあ、あたしたちも行きましょう」


 ユタラも舞弥に励まされながら砂を噛み締めるように歩き出す。


 どのぐらい歩いたときだろう。


 ユタラは歩きながら考えていたことを舞弥に告げた。


「ねえ、舞弥。もしも僕たち二人が運よく地雷原を抜けることができたら、僕を置いて君が先にゴールしてくれないかな」


 これには舞弥も驚いたようだ。


 目を見開いて「なぜ?」と表情で問いかけてくる。


「どのみち僕は病気のせいで長生きできない。だから――」


「あんたを見捨てて、あたしが先にゴールしろって? 馬鹿じゃないの。そんなことできるわけないでしょう。大事な弟を見捨てる姉がどこにいるのよ」


 舞弥はユタラのことを大事な弟と言ったが、二人に血の繋がりは一切ない。


 弟と呼んだのは舞弥の愛情表現の一つだ。


 舞弥は難民キャンプで自分を慕ってくれる年下の子供たちを、弟もしくは妹と思って平等に可愛がっていたのである。


「いい? 今度から二度と馬鹿なことは言わないようにしなさい。次にそんな弱音を吐いたら本当に見捨てるからね」


 それよりも、と舞弥は真剣な表情で二の句を紡ぐ。


「あんたの病気のことなんだけど、パパから何か特効薬を渡されたんじゃないの?」


「もらった薬はちゃんと飲んだよ。だけど、利いた感じはしないんだ。やっぱり遺伝的な病気を治す画期的な特効薬なんてないんだね。きっとドクター・カタギリは僕の不安を少しでも和らげるために偽薬をくれたんだと思う」


「パパは患者を騙すような医者じゃない」


「僕もそう思うよ。でも、どちらにせよ今の僕は足手まといだ。万が一、生き残れたとしても近くの村へ行くまでに野たれ死ぬだろうね。いや、その前に連中が目撃者である僕たちを生かしておくはずがない。誰が最初にゴールしても最終的には全員殺される」


「ううん、少なくとも一番にゴールした子供は殺されないはずよ。だって連中があたしたちを誘拐した目的は選別のためなんだから」


「どういうこと?」


「おそらく一番先にゴールした子供だけを自分たちの仲間にするつもりなのよ。ユタラ、あんたは子供兵って知ってる?」


 ユタラは「少しぐらいなら」と小さく首を縦に振った。


 子供兵の話は聞いたことがある。


 各地の紛争地域では武装ゲリラたちによる孤児の誘拐が相次ぎ、誘拐された子供たちは替わりの利く使い捨ての兵士として扱われるという。


「きっと連中は絶好の弾除けになる子供兵を欲しがっているのよ。ただ、さすがに全員を食べさせるだけの余裕はないんでしょうね。だから〈競走馬〉で子供の体力や運を見定めようとしているんだわ。でも、あたしは子供兵になんて絶対になりたくない。パパを殺した連中の仲間になるぐらいなら連中と刺し違えて死んでやる」


 はっきりと自分の意思を断言した舞弥を見て、ユタラは返す言葉もなくうつむいた。


 武装ゲリラは難民キャンプを襲って支援物資を強奪した際、抵抗した大人たちを皆殺しにしたのだ。


 そんな抵抗した大人たちの中には舞弥の父親も含まれていた。


 ユタラは顔を上げて舞弥の毅然とした横顔を見つめる。


「本気なの? 舞弥。相手は銃を持っているんだよ。素手で刺し違えるなんて無茶だ」


 素手ならね、と舞弥は首元から服の中に手を入れて何かを取り出す。


 ユタラは信じられないとばかりに目を瞠った。


 舞弥が服の中から取り出したのは、子供でも扱えるような小型の拳銃だったからだ。


「ロシア製の二連発式拳銃でデリンジャー・ピストルって言うのよ。パパに言われて普段から隠し持っていたんだけど、やっぱり拳銃なんて突然には使えないわね。連中に捕まったときは怖くてデリンジャーのことなんて頭から飛んでいたから」


 けどね、と舞弥はデリンジャーのグリップを握る右手に力を込めた。


「今は撃たなくてよかったと思ってる。連中は腐っても戦闘のプロ。砂漠に連れてこられてからも機会を窺っていたけど、まったく拳銃を取り出すタイミングがなかった」

「だったら何で今頃になって銃を……まさか」


「そう、そのまさか。二人で地雷原を抜けてゴールに到着できたら、連中は必ず確認のためにやってくる。そのとき、連中の一人に撃ち込んでやるのよ。あんたも見たと思うけど腕に妙な火傷があった男がいたでしょう。できるなら、あいつに撃ち込んでやりたい。だってあいつはあたしのパパを殺した張本人なんだから」


 舞弥は本気だった。


 宝石のような黒瞳の奥には、復讐の炎がめらめらと宿っている。


 何と強靭な意志の強さなのだろう。


 生き残れるチャンスを捨ててまでも一矢報いる覚悟を決めていた舞弥は、いつか本で読んだ日本国のサムライを想起させる勇ましさだった。


 それに比べて自分はどうか。


 仲のよかったアゼルが殺されたときも恐怖で足がすくみ、舞弥に助けられたときも情けないことに呆然と事の成り行きを見守っていた始末である。


 ほとほとユタラは自分の軟弱さに嫌気がさした。


 難病に侵されたときから卑屈な性格になったユタラにとって、武装ゲリラに誘拐されたことも自分が殺されることもどこか他人事のように感じていた。


 そればかりか、自分一人だけではなく〝みんなも死んでくれる〟という暗い期待を抱いていたことも否定できない。


 冷静に考えてみると反吐が出そうな願望だ。


 同じ死を誘う考え方でも舞弥の気高い復讐心とは比べ物にならない。 


 吐息のリズムがわかるほど身近にいる舞弥の横顔を眺め、ユタラはどうやったら舞弥の復讐に効率よく自分が手助けできるのか真剣に考えた。


 どうせ死ぬなら、舞弥の助けになって死のう。


 人間とは不思議なもので、死を素直に受け入れると途端に周囲の目が気にならなくなる。


 実際、ユタラと舞弥はじっと前だけを見据えていた。


 何人もの仲間を葬り去った地雷原に突入したというのに、二人は歩くペースを乱すことなく前へ前へと身体を進めていく。


 砂塵に混じった血の匂い。


 半円状に開いているいくつもの穴。


 この先は危険だと告げているような風神の咆哮。


 やはり砂漠は人間の本能を震撼させる強大な蛮力に満ちている。


 だからといって、今さら後退するつもりはさらさらなかった。


 望むことは何としても地雷原を抜けてゴールに辿り着くことだ。


 地雷を踏んでしまっては舞弥の復讐に協力することもできず、単なる無駄な死を遂げて人生が終わってしまう。


 それだけは絶対に避けたい。


 ユタラは久しく忘れていたヴィシュヌ様へ祈りを捧げた。


 ヒンドゥー教の最高神の一人であるヴィシュヌ神は、恐怖と破壊の象徴であった同じ最高神のシヴァ神とは対照的に温厚で慈悲深い神として有名だ。


 また熱心に祈る信者には必ず恩恵を与え、世界が危機に瀕したときは様々な生物に姿を変えて窮状を救ってくれるという。


(お願いします、ヴィシュヌ様。どうか僕たちをゴールまで無事に導いてください。舞弥に仇を討たせてあげてください。代わりに僕の命を差し上げますから)


 と、ユタラはヴィシュヌ神に一層の祈りを捧げたときだ。


 突如、ユタラたちの体重を支えていた足場が崩壊した。


 あっという間に二人の身体は砂中に飲み込まれ、信じられないことに真下ではなく斜め下へと転げ落ちていく。


 混乱したどころではない。


 頭が状況を整理するよりも先に肌を焦がす砂の熱さ、反転を繰り返す視界、舞弥の悲鳴が断続的かつランダムで押し寄せてきた。


 それゆえに生存本能が働いたのだろう。


 咄嗟にユタラは肘の部分まで埋まるほど両手を砂の斜面に突き刺し、回転の勢いを何とか途中で食い止めたのだ。


 口内に入った砂を唾液と一緒に吐き出したユタラは、わずかに取り戻した正常な思考で自分が置かれている現状を把握した。


 ユタラはすり鉢状に空いていた穴の中腹にいたのである。


 傾斜は四十五度ほど。


 穴の深さは七、八メートル近くもあった。


 こうした砂の傾斜地は流動しやすい。


 もがけばもがくほど足場の砂が動いて上手く登れないのだ。


 筋ジストロフィーの罹患者であるユタラならばなおさらであった。


 四十五度もある砂の傾斜地など自力では絶対に登れない。


 だが、今のユタラには傾斜を登れないことなど眼中になかった。


 すり鉢状になった穴の奥底から異形の生物が姿を現したからだ。


 あれが噂のUMAなのだろうか。


 だとしたら冗談にもほどがある。


 体長はおよそ二メートル。


 ざらざらしてそうな皮膚に灰褐色の平らな身体。


 人体すらも噛み千切れそうなハサミを開閉している姿は、UMAというよりも魔物だった。


 しかも昆虫を巨大化させたような魔物は、餌場に落ちてきたユタラと舞弥を獲物と認識しているようだ。


 とりわけて穴底から近い位置にいた舞弥を、最初に捕食しようと決めたようである。


 パニックを起こしていた舞弥は魔物の口から逃れようと必死に砂を掻くが、魔物は舞弥を逃がさないとばかりにハサミを使って大量の砂を跳ね上げた。


 舞弥の前方に掬い上げられた大量の砂は斜面の砂へと追加されていき、舞弥は登りたくとも登れないジレンマと恐怖に陥る。


「助けて、ユタラ!」


 恐怖と動揺で身体が硬直していると、舞弥の悲痛な叫びがユタラの鼓膜を震わせた。


 助けを求められたユタラは、恐怖と動揺で震えていた右拳を左手で強く覆う。


 本音を言えば怖くて仕方がなかった。


 穴の奥底に潜んでいるのは『ラーマヤナ』に登場するような正真正銘の魔物だ。


 夢の中でも絶対にかかわりたくない相手である。


 ならば舞弥を見捨てるのか? 


 ユタラはがちがちと歯をかち合わせながら自問自答した。


 答えは否だ。


 やはり、このまま舞弥を見捨てるなど考えられない。


 けれども舞弥を魔物から助け出す手立てがないのも事実である。


 ましてや自分は筋ジストロフィーの罹患者。


 たとえ有効な手立てを思いついたとしても、身体を満足に動かせなければ舞弥を助けることなど不可能だ。


(何だよ……この世に神様なんていないじゃないか)


 ユタラは万物に化身して窮地を救ってくれるというヴィシュヌ神に悪態をついた。


 ヒンドゥー教における最高神の一人は、祈りを捧げたユタラに恩恵を与えるどころか目の前に現れる気配もない。


 人間を餌と見ている魔物は存在しているにもかかわらずだ。


(だったらヴィシュヌ神なんてどうでもいい。僕が……僕が舞弥を助けるんだ!)


 他力本願から自力本願に目覚めたからだろうか。


 信じていた神を否定した瞬間、恐怖を上回る感情がユタラの全身を駆け巡った。


 怒りである。


 理不尽な世の中や不可解な魔物に対する純粋な怒り。


 そんな怒りに呼応して、危険を回避しようとする本能とは別な本能がユタラの中に芽生えた。


 銃火器で武装したゲリラだろうが人間を捕食する魔物だろうが、自分や自分の大切な人間に危害を加えるなら全力で排除するという原始的で純粋な闘争本能。


 やがて魔物と舞弥との距離が二メートルまで縮まったとき、ユタラは喉が張り裂けんばかりに吼えた。


 そして――少年は覚醒した。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?