正直、レンタル・ソルジャーに鞍替えするのも悪くない。
そもそも自分たちがゲリラ活動を始めたきっかけは、第四次印パ戦争で大事な職や家を失ったからだ。
インドでは憲法で廃止された今でもカーストが根強く残っており、自分に与えられた身分の仕事がなくなったら裏家業に就くしかなくなる。
カーストはインドの代名詞とも言うべき厳粛な階級制度のことだ。
バラモン(僧侶)。
クシャトリヤ(戦士)。
ヴァイシャ(平民)。
シュードラ(奴隷)。
アウトカースト(不可触民)の五階層から成り立ち、どの階級に生まれたかによって自分の現世での生き方が決まってしまう。
ちなみに身分が最も高いのはバラモンであり、最も低いのはアウトカーストである。
そんなカーストには職業による世襲制度があった。
たとえば洗濯屋に生まれた子供は、親と同じ洗濯屋として生きていかなければならない。
表向きカーストを否定しているインド人も自分に与えられた現世でのカーストを素直に受け入れている。
当然であった。
ヒンドゥー教におけるカーストは単なる階級制度ではなく、来世での幸せな生活と身分を手に入れるための大事な切符でもあるのだ。
もちろん、その切符を手に入れるには現世で与えられた自分の役割を果たす必要がある。
与えられた役割とは自分よりも上層階級に属する人間に尽くすこと。
それゆえに憲法で廃止されようとも、ヒンドゥー教徒は死ぬまでカーストに縛られ続けるのだ。
ヴァイシャの生まれだったマハシンも、戦争が起きていなかったら父親が経営していた雑貨店を継いでヴァイシャらしい一生を送っていただろう。
ふらりと店に立ち寄った観光客相手に小遣いでも稼ごうと物乞いの真似をしていたかもしれない。
マハシンは口からこぼれるほどコップに酒を注ぎ入れると、苛立ちを掻き消すように喉を鳴らしながら三杯目の酒を胃に流し込んだ。
「あ~、やめだやめ。せっかくの宴の最中に今後の身の振り方なんて考えたくもねえ。それにとことん悪事に手を染めた身だ。どうせ何をしようと行き着く先は裏家業よ。そんで最後には道端で野たれ死ぬか獣に食い殺されるのがオチなのさ」
「お頭、嫌なこと言わないでくださいよ。獣に食い殺されるなんて現実味がありすぎです」
「そうか、お前はガルワール地方の出身だったな。あそこはピューマよりもヒョウに食い殺される人間が多いと聞いたことがある」
「まあ、狙われるのは体力のない女や子供が多いんですけどね……そうそう、食い殺されるで思い出しました。お頭はUMAってやつの存在を信じますか?」
「UMA? あの確認されていない未知の生物ってやつか? いねえいねえ。UMAなんてもんはどこにもいねえよ」
「それが出るらしいんですよ。しかもインドだけじゃなくて世界中のあちこちで目撃されているらしいんです。人を食うUMAが」
あのな、とマハシンは顔を近づけてきたブジャックの額を小突く。
「お前、どっからそんな情報を仕入れてくるんだよ。大体、人を食うUMAって何だ? もしかして〈ラーマヤナ〉に登場するような化け物か? そんなもんが世界中にいたら人間同士で戦争なんてしてねえだろうが」
インドの国民的英雄であるラーマが主人公の叙事詩――〈ラーマヤナ〉には魔神や魔物などの空想上の生物が登場する。
中でも十の顔と二十の腕を持つ魔神ラーヴァナが有名だ。
このような生物は〝遺伝子組み換え〟の技術で生み出せるかもしれないが、今のところインドで化け物が生み出されたという話は耳にしたことがない。
「だけどよ。もし本当にUMAなんて化け物がいたとしても俺たちにはこれがある。ビビる必要なんてねえだろう」
適度にアルコールが回って気分が高揚していたマハシンは、黄色い部分が目立つ歯を覗かせつつ隣に置いていた銃火器を手に取った。
第二次世界大戦中、ロシア軍が開発したAK47を改良したAK74だ。
グリップやストック部分に黒のシンセテック素材が使用された、バナナのように湾曲したマガジンが特徴的なアサルトライフルである。
マガジンの素材はプラスチック製。マズルサプレッサーも大型化されたことで、AK47よりも弾丸を発射する際の反動制御が飛躍的に向上されていた。
それ以上にAKシリーズのアサルトライフルは非常に安価であり、シンプルな構造のお陰で故障も少ない。
このことによって世界中の紛争地域でゲリラに使用され、各地に甚大な被害をもたらせたAKシリーズのアサルトライフルは小さな破壊兵器とも呼ばれている。
「これさえあればUMAが出ようとヒョウが出ようと敵じゃねえ。違うか?」
「確かに。どんな化け物や獣も銃には敵いませんものね」
「そういうこと。さあ、くだらない話はここまでにしようや。お前も飲め飲め。仕事が成功した夜の宴は無礼講だ。パーっとやろうぜ!」
「そうっすね。じゃあ、いただきます!」
と、ブジャックが何度も頭を下げてマハシンの酒に手を伸ばそうとしたときだ。
遠くのほうから静寂を掻き消す甲高い音が聞こえた。
ほろ酔い気分だったマハシンは大きく目を見開いて身体を強張らせる。
素人ならば爆竹の音と勘違いしたことだろう。
しかし、マハシンを含めた十二人のゲリラたちは日頃から盗賊団顔負けの略奪行為で糧を得ていたゲリラだ。
多少の酒に酔っていても爆竹と銃声の違いぐらい判別できる。
「敵襲だ! 全員、散らばれ!」
我に返ったマハシンの怒号がガートの一角に響き渡るなり、ゲリラたちはそれぞれ銃を携えながら蜘蛛の子を散らすように散開していく。
マハシンも同様である。
宴が開かれていたガートから離れると、そのままプシュカル湖の北に位置していたサダル・バザールへと駆け出した。
プシュカルのメイン・ストリートであったサダル・バザールの道幅は極端に狭く、無人の露店が道を挟むように軒を連ねていたので正体不明の襲撃者たちを迎え撃つには絶好の場所だ。
「さすが、お頭。サダル・バザールなら身を隠す場所には困りませんね」
大量の砂と埃を被っていた衣料品店の影に隠れたとき、緊張感の欠片もない声がマハシンの鼓膜を震わせた。
マハシンはうんざりした表情で振り向く。
「勝手についてくるんじゃねえよ、ブジャック。てめえも〈ヴァラーハ〉の一員なら不測の事態が起きたときぐらい自分の力で乗り越えやがれ」
「そんな水臭いこと言わないでくださいよ。こんな俺でも役に立って見せますから」
「面白え。さっそく役に立ってもらおうか」
〈ヴァラーハ〉の中でも下っ端だったブジャックは気づいていなかったが、ゲリラに転職してから数々の修羅場を潜り抜けてきたマハシンの五感は鋭敏に捉えていた。
月光により青白く染まっていたサダル・バザールを闊歩していた人間の気配をである。
襲撃者の一人だろうか。
露店の影からでは性別や風貌は視認できなかったものの、舗装されていたサダル・バザールの通りを歩いているのは一人だということはわかった。
「通りの向こうから誰か来る。まずはお前が飛び出して機先を制しろ。いいな?」
「お、俺がですか?」
「役に立つと言ったのはてめえだろうが。それとも俺に嘘をついたのかよ」
マハシンがAK74の銃口をブジャックの額に強く押し当てると、自分の死を予感したブジャックは引きつった笑みを浮かべた。
「滅相もない。お頭のためなら火の中でも水の中でも喜んで飛び込みますよ」
「そうかい。だったら道の中に飛び出すことなんざ朝飯前だな」
マハシンは素早く右手を動かしてブジャックの襟元を掴むや否や、口先だけで行動に移ろうとしなかったブジャックを通りの真ん中に放り出した。
これもマハシンの考えの一つだ。
道幅の狭い通りの真ん中で敵同士が鉢合わせた場合、当然のことながら戦闘に突入する。互いが強力な銃で武装しているのならなおさらであった。
十中八九、襲撃者とブジャックは死闘を演じるだろう。
そうなれば結果は三つに一つ。
襲撃者が死ぬか、ブジャックが死ぬか、相打ちになるかのどれかである。
もしも襲撃者が死ねばブジャックに自信と経験を与えたことになり、ブジャックが死んだとしてもブジャックの生存確認に意識を奪われている襲撃者を狙撃すればいい。
相打ちになったとしたら新たな部下を補充すれば今後もゲリラ活動を続けられる。
どちらにしても自分の命が脅かされる危険はない。
マハシンはAK74の銃口を相対した二人に向けながら息を殺した。
そうして銃撃戦が始まる瞬間を今か今かと待ちわびる。
ところが待てども待てども戦闘が行われる気配がなかった。
それどころか、ブジャックは襲撃者に近寄って声をかける始末だ。
十秒ほど二人を眺めていたマハシンだったが、ついに我慢と好奇心が限界を迎えたのか露店の影から通りに躍り出た。
AK74を構えながらゆっくりと二人に近づいていく。
「あっ、お頭。大丈夫ですよ、こいつは敵じゃありません」
「敵じゃない?」
マハシンは警戒と緊張を緩めて襲撃者と決めつけていた人間を見やる。
襲撃者と思い込んでいた相手は十六、七歳と思しき少女だった。
インド人には珍しいウェーブヘアの持ち主で、すっきりと通った鼻筋にプシュカル湖のような冷たく澄んだ瞳。
着用していたサリーは汚れと破れがあちこちに目立ち、破れた部分から覗いていた瑞々しい肌は月の燐光を浴びてぞくりとするほどの妖艶さを醸し出している。
「どういうことだ? どうしてガキがこんなところにいやがる?」
「ただのガキじゃありませんよ。見てください、こいつの手首を」
ブジャックに言われるまで気づかなかったが、少女の両手首には頑丈そうな手錠がはめられていた。
どこぞの警察署から逃げ出してきた犯罪者なのだろうか。
などと考えるほどマハシンは善良な市民ではなかった。
「はは~ん、こいつは人買いから逃げ出してきたガキか」
プシュカルの郊外にある砂漠で行われていた闇市では、武器や麻薬の他にも遠くの街や村から誘拐してきた女や子供を競売にかける奴隷市も開かれていた。
おそらく、この少女は奴隷市を下見に来ていた人買いの目を盗んで逃げ出してきたのだろう。
「なるほど、さっきの銃声は人買いが撃った威嚇射撃だったのか。このガキにどこへ逃げても無駄ということを暗に知らせたんだろうよ」
マハシンは銃を下ろすと、先ほどから震えている少女に満面の笑みを向けた。
「おい、お前の名前を教えろ? それともヒンドゥー語はわからねえか?」
「ムーナです。ムーナ・タックシン」
「ムーナか……おい、ムーナ。お前は人買いから逃げ出してきた奴隷か?」
小さく首肯したムーナを見下ろしつつ、マハシンは口の端を吊り上げた。
続いてブジャックに顔を向けて顎をしゃくる。
「ブジャック、このガキを捕まえろ。人買いの元へ連れて行くぞ」
「え? せっかく捕まえたのに大人しく返すんですか?」
「馬鹿野郎、タダで返すわけねえだろう。引き渡す代わりに相応の金額を吹っかけてやる。俺たちは大事な商品を捕まえてやった恩人なんだからな」
わかりました、とブジャックがムーナの肩に触れようとしたときだ。
突如、ブジャックの頭部が爆発した。
骨片が混じった脳味噌の一部が酸鼻な匂いを放つ血飛沫ともに地面に飛散する。
それだけではない。
マハシンが携帯していたAK74の銃身部分が狙撃され、マハシンはそのときの衝撃で自分のAK74を地面に落としてしまった。
「お、お前……」
マハシンは両手に走る痺れを無視して狙撃者を見つめた。
油断していたブジャックの頭を吹き飛ばし、部下よりも頼りにしていたAK74を銃撃したのは眼前のムーナだったのだ。
信じられなかった。
今ほど恐怖で震えていたはずのムーナの両手には、紫煙の匂いを発していたオートマチック拳銃がいつの間にか握られている。
「本当に素人のゲリラはクソ以下だな。懐に拳銃を飲んでいることも見抜けないのか」
背筋が凍るほどの口調の変化にマハシンが驚愕した直後、子孫を残す大事な睾丸にこれまでの人生で味わったことのない痛波が訪れた。
阿呆のように呆然としていたマハシンの金的目掛けてムーナが真下から跳ね上げるような神速の蹴りを叩き込んだのだ。
痛さと苦しさと気持ち悪さが全身を駆け巡り、マハシンは両手で股間を押さえながら前のめりに倒れた。全身の汗腺から生温い汗が吹き出てくる。
「て、てめえ……一体……何者……だ……」
口から大量の泡を吐きながら、マハシンは股間を蹴り上げた張本人を見上げた。
「ほう、私の蹴りを食らって意識があるのか。全言撤回だ。お前のような輩が率いているゲリラならば私が思っている以上の〈ワーカー〉になるかもな」
聞き慣れない言葉を耳にしたとき、サダル・バザールに強烈な突風が吹き荒れた。
巨人の吐息を彷彿とされる強風で大量の砂埃が天高く舞い上がる。
反射的にマハシンは両目を閉じ、前方から吹いてきた砂埃から視界と口を守った。
ベキ……ゴキ……ミギギ……グキ……ブウウウウウウウウウウウウ――――…………
やがて強風がおさまったとき、マハシンの耳に異様な音が聞こえてきた。
まるで動物の骨肉を力任せに解体するような音と羽虫が鳴らす耳障りな羽音だ。
「光栄に思え。お前たち〈ヴァラーハ〉は〈ラール・サルバ〉のクズどもと同じく私たちの道具として新たな生を得るんだ」
視界を遮っていた両目を開けると、マハシンは瞬きすることを忘れて唖然とする。
ただし肉体は精神よりも的確に現状を把握していた。
マハシンの穿いていたズボンの股間から生温かい液体がとめどなく地面に流れていく。
「あ……ああ……あああ……」
ようやく意識が正常に働き始めたマハシンは、失禁した事実など忘れて喉を枯らすほどの悲鳴を上げた。
〈ラーマヤナ〉に登場する、化け物と遭遇したような恐怖の悲鳴を――。