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第25話   再会

「すいません、この辺で東洋人の女の子を見ませんでしたか?」


 ユタラは路上の端でラッシィーを売っていた中年男性に声をかけた。


「はあ? 女の子が何だって?」


 やっと英語が通じる人間に巡り合えた。


 ユタラは身を乗り出して大声で尋ねる。


「ですから東洋人の女の子を見ませんでしたか? 年齢は十七、八歳ぐらいで、黒髪に無地のタンクトップとカットジーンズを穿いている東洋人の女の子です」


「東洋人の女の子か……見たような見てないような」


「どっちなんです!」


「まあまあ、落ち着け。そうだ、うちのラッシィーを一つ飲んでいきな。見たところかなり汗を掻いているじゃないか。まさか、この炎天下の中を走り回っていたのかい?」


 図星だった。


 舞弥がアジトを飛び出して約一時間。ユタラはパハール・ガンジを中心にコンノート・プレイス、オールド・デリーなどの人気の多い場所を念入りに探し回っていた。


 必ず舞弥はデリーのどこかにいる。


 なぜなら、舞弥は財布も携帯電話も持たずに出て行ったからだ。


 ならば鉄道やバスを使って遠出するのは不可能。


 またアジト以外に帰る場所がないことを考えた場合、舞弥が取るであろう行動は一つしかない。


「僕なんかのことよりも東洋人の女の子を見たんですか見てないんですか? 観光客と違って少し様子が変だったはずなんです」


「変ってどういう風に?」


「多分、観光スポットには目も暮れずにふらふらと歩いていたと思うんです。まるでギャンブルで大負けしたような青ざめた表情で」


 そうである。


 財布を持たずに街中へ飛び出したということは、飲料を買うことはもちろん飲食店にも入れない。


 しかも舞弥は昨日の夜から何も食べていないのだ。


 きっと今頃は空腹と喉の渇きに飢えているに違いなかった。


 だからこそユタラは一秒でも早く舞弥を見つけたかった。


 舞弥は普通に高校生活を送っていた一方、ESIや〈青い薔薇〉の訓練施設で長年に渡って戦闘技術を学んできたという兵士だ。


 しかし、兵士も人間には変わりない。


 どんな過酷な訓練に耐えてきた兵士といえども、人間の三大欲求に打ち勝てる人間は中々いないだろう。


 特に今の舞弥は土地勘のないデリーを無一文で彷徨っているのだ。


 空腹と喉の渇きを満たすため強盗に走らないとも限らない。


「う~ん、悪いが見てないな。ここら辺は観光スポットから離れた場所にあるから、東洋人が通ればすぐにわかる。それに人探しなら観光客が多いパハール・ガンジかコンノート・プレイス周辺で聞いたほうがいいぞ。それでも見つからないなら警察に頼むこった」


「警察……」


 確かに見知らぬ土地で迷子を探すのなら地元警察に頼むことが一番だろう。


 だが観光ではなく極秘裏の任務でデリーに留まっている以上、警察の事情聴取などで身元を明かすような行為はエージェントとして避けねばならなかった。


 深々と溜息をついたユタラは、ラッシィー売りの中年男性に頭を下げる。


「貴重な時間を取ってすいませんでした。お詫びにラッシィーを一つください」


「ほい、毎度あり!」


 急に機嫌がよくなった中年男性からラッシィーを受け取ったユタラは、十ルピーを払うときに思い出したような顔で中年男性に訊いた。


「そうだ、ついでにここの場所を教えてくれませんか? ここがオールド・デリーということはわかっているんですが、自分は地元の人間じゃないんで詳しい地名を知らないんです」


「ここはチャンドニー・チョウク通り。俺たち庶民が賑わう街さ」


 改めて礼を述べたあと、ユタラは人通りの多い場所へと移動した。


 チャンドニー・チョウク通りはパハール・ガンジとは真逆で、庶民の生活必需品を多く取り扱う商店街であった。


 ざっと見渡しただけでも電気店や衣料品店、アクセサリーなどの小物を売っている土産物屋が多く軒を連ねている。


 ラッシィー売りの中年男性の言ったとおりだ。


 どうやらチャンドニー・チョウク通りは本当に庶民が買い物を楽しむ地域らしい。


 他にもムガル帝国時代に建設された寺院が数多く残されているからだろうか。


 チャンドニー・チョウク通りを行き交っている人々は、遠目に見えるシク教の寺院やジャイナ教の寺院に向かって足を動かしている。


 これなら一人で歩いている東洋人の少女がいれば嫌でも目につくだろう。


 ユタラは買ったばかりのラッシィーを口に含んだ。


 よく冷えたヨーグルトの甘い味が渇いていた喉と疲れていた身体に見る見る活力を与えてくれる。


 とはいえ、活力が戻ってきても舞弥が戻ってこなければ意味がない。


「これからどこを探すかな」


 ユタラが憂鬱になるのも無理からぬことだった。


 デリーは一千万以上の人間が暮らしているインドの首都だ。


 それゆえに闇雲に歩き回ったところで人探しなど徒労に終わる。


 さりとて地元警察の手は借りられず、アジトに戻って現地工作員のプラムに事情を話すのも論外。


「せめてスマホを持って行ってくれればよかったのに」


 そう呟いたときである。


「やっと見つけたわよ」


 不意に真後ろから英語で声をかけられた。


 慌てて振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべた東洋人の女性が佇んでいた。


「あなたは……」


「東恩納美由紀。よもや忘れたとは言わせないわよ」


 忘れてなどいない。〈ヴィナーヤカ〉のロビーで出会った女性だ。


 今の今まで存在自体忘れていたが、こうして堂々と街中にいるということは不審者の誤解が解けて無事に釈放されたのだろう。


 そんなことを思っていると、美由紀は勝ち誇ったような表情で大きく胸を張った。


「ここで会ったが百年目。君たちには今度こそ私の依頼を受けてもらうわよ!」


 けれども勝気な態度を取っていたのも数秒だけだった。


 すぐに美由紀は身体の力を抜いて魂を吐き出すほどの溜息を漏らす。


「……と、言いたいところだけど今となったら意味ないわよね。だってタール砂漠の油田施設に向かうレンタル・ソルジャーの仕事はもうないんだもの」


 がっくりとうな垂れた美由紀を見て、ユタラはなぜか居た堪れない気持ちになった。


「何て言うか……すいませんでした……その……お役に立てなくて」


 ユタラは後頭部に手を当てながら頭を下げた。


 すると美由紀はすぐに頭を上げて何度も首を左右に振る。


「違う違う。私は別に君たちを責めているわけじゃないのよ。むしろ、初対面でいきなり仕事を依頼した私が謝る立場……あ、そういえば君の名前をまだ聞いてなかったわね。差し支えなければ教えてくれないかしら?」


「僕はユタ――ヴァルマ・バジ。もう一人はパク・イルソです」


「へえ、あの女の子は韓国人だったんだ」


 でも、と美由紀は途端に声のトーンを落とす。


「それだと色々な疑問が出てくるのよね。どんな理由があって君たちはレンタル・ソルジャーなんて危険な仕事に就いたの? そもそも韓国人の女の子がインドに来てまでレンタル・ソルジャーになること自体おかしい。ねえ、どうして?」


 一拍の間を空けたあと、ユタラは墓穴を掘らないよう十分に注意しつつ唇を動かす。


「レンタル・ソルジャーは十五歳以上なら誰でもライセンスを取得できますし、レンタル・ソルジャーのライセンスを取っても仕事に就くかは本人次第。僕たちは互いに両親を早くに亡くしているので、手っ取り早くお金が稼げるレンタル・ソルジャーの職に就いただけです。それに舞弥は韓国人ですけど、韓国で暮らしているわけじゃありません。だから貧困に喘ぐ発展途上国で生まれた子供や元子供兵が、生い立ちや学歴不問のレンタル・ソルジャーの職に就くのは珍しいことじゃないんですよ」 


 ユタラが述べた大半のことは事実である。


 世界的にレンタル・ソルジャーという職業が認められている昨今、成人にも達していない子供がレンタル・ソルジャーとして働くのは特別なことではなかった。


 ただ、子供がレンタル・ソルジャーとして働くことは非常に大変だ。


 クライアントによっては世間体や純粋に戦闘能力の低さを心配して雇わないケースが往々にしてあるという。


 しかし、世の中には必ず例外というものが存在する。


 レンタル・ソルジャーの世界で言えば子供兵がそれであった。


 子供兵とは内戦や紛争が続く国で誘拐され、兵士として訓練された子供たちの総称だ。


 これらの子供の大半は大人兵の弾除けとして命を落としてしまうが、中には組織から抜け出して国連やNGOに保護される子供たちもいる。


 そんな元子供兵たちが自立の手段として選択する職業で一番多いのがレンタル・ソルジャーなのだ。


 ユタラにしてみれば異国の天気ではない。


 九年前、自分もタール砂漠の難民キャンプから誘拐されて使い勝手のよい子供兵にされそうになった過去がある。


「ヴァルマ君……だったわよね。もしかして君は元子供兵なの?」


 そのとき、ユタラは美由紀がフリーライターだということを思い出した。


 マスメディアと密接な関係にあるライターの美由紀は、世間一般にあまり浸透していない子供兵という存在がどういう境遇で育った子供たちなのか知っていたのだろう。


「違います。僕も舞弥も元子供兵じゃありません」


「そうなんだ。だったら君たちはどこで戦闘技術を学んだの? レンタル・ソルジャーって銃や格闘技なんかを使えないとクライアントに雇ってもらえないんでしょう?」


「う……」


 どちらにせよ墓穴を掘ったのかもしれない。


 ここで〈青い薔薇〉の存在を明かせば舞弥以上の服務規定違反となり、だからと言って嘘に嘘を重ねていけば、やがては取り返しのつかない秘密を暴露してしまいそうな気がする。


「そうだ、今はこんなことしている場合じゃなかった。早くパクを見つけないと」


 なのでユタラは早々に美由紀の眼前から消えることに決めた。


 疑惑の視線を向けられていたユタラは、何度も頷きながら左手の掌に右拳を叩きつける。


 当の本人は気づいていなかったが、ユタラの取った行動は素人目から見ても大根役者のような下手な芝居だった。


「それじゃあ、僕はこの辺で失礼します」


 ユタラは美由紀に軽く頭を下げて足早に立ち去ろうとした。


「ストップ」


 次の瞬間、ユタラは右肩をしっかりと美由紀に掴まれた。


 ユタラの力ならば美由紀の手などやすやすと振りほどけたものの、そこまでするほどユタラの性格は歪んではいない。


 ユタラは罰の悪そうな顔で振り向く。


「あのう……まだ何か?」


 美由紀は面白い悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべていた。


「もしかして、連れの女の子と喧嘩でもした?」


「え?」


 ユタラは目を瞠りつつ頓狂な声を発した。


「なるほど、何となくわかってきたわ。ずばり、君は喧嘩別れしてホテルから飛び出したパクちゃんを連れ戻すために街中を探し回っていた。違うかしら?」


 ユタラは血の気の引いた青ざめた顔でふらふらと後退する。


「ど、どうしてわかったんですか?」


「あら、本当に当たってたの? 単なる勘だったんだけど」


 ユタラは「しまった」ではなく「やられた」と頭を抱えた。


 すべては美由紀の芝居だったのだ。


 純粋な子供を巧みな話術で騙すとは、何という大人なのだろうか。


 見られるものなら親の顔を見てみたい。


「ねえ、よかったら私もパクちゃん捜索に協力するわよ?」


 美由紀からの予想外な提案にユタラは口元を右手で覆って思考した。


 話を聞くとインドに在住している美由紀にとって、首都であるデリーは自分の庭みたいなものらしい。


 ならば美由紀に舞弥の捜索を手伝ってもらうのは一つの手ではないか。


 何せ一人の人間を徒歩で探すにはデリーは広すぎる。


 ましてや警察にも事情を話せず、舞弥の身体的特徴をいちいち相手に教えながら探すのも一苦労だった。


 特に厳しいのは言葉が通じないことだ。


 インドにおいて英語は第二公用語だったが、観光客相手に商売をしているインド人の話す英語はヒンドゥー語が多分に混じっている。


 つまり挨拶や品物を頼む簡単な英会話ならば問題はないが、一人の人間の特徴を詳しく説明して居場所を聞き出すような長いセンテンスだと途端に会話が途切れてしまう。


 その中でも先ほどのラッシィー売りの中年男性はよかった。


 あまりヒンドゥー語が混じっていない英語で意思疎通が可能だったのだ。


 最もラッシィー売りの中年男性は舞弥の姿を見ていなかったので収穫はなかったが。


 などと思考に耽っていると、美由紀はずいと顔を近づけてきた。


「どう? 自分で言うのも何だけど私は役に立つわよ。そんなに汗まみれで探しているということは、パクちゃんは携帯電話を持っていないか電源を切っているんでしょう? そうじゃなかったら連絡するかメールすればいいだけなんだから」


 ユタラは困惑した顔で下唇を噛み締める。


「やっぱり遠慮しておきます。これは僕たちの問題なので」


「本当にいいの? 私は英語、日本語、ヒンドゥー語の三ヶ国語を話せるからヒンドゥー語しか話せない人にも聞き込みができる。ちなみに君はヒンドゥー語を話せるの?」


「ぼ、僕はインド人ですよ。ヒンドゥー語ぐらい喋られます。当たり前じゃないですか」


「君ってば本当にインド人なの? ヒンドゥー語がインドの公用語だからといって、インド人全員がヒンドゥー語を話せるわけじゃない。南インドだとタミル語しか話せない人もザラにいるわ。伊達にインドは世界一の他民族国家じゃないのよ。だけど、君はさっきからヒンドゥー語じゃなくて英語で喋ってる。しかもヒンドゥー語の訛りがまったくない。これって君が普段からヒンドゥー語じゃなくて英語か別の言語を使って会話をしているってことよね」


 どうやらフリーライターの肩書きは本物だったらしい。


 美由紀は戦闘とは無縁な一般人の中でも観察眼が磨きに磨き抜かれていた一般人だった。


 そしてユタラは物心がついたときには難民キャンプで暮らしていて、難民キャンプでは子供たちが将来において自立する際に必ず役立つ英語を共通語としていた。


 なのでヒンドゥー語が話せないユタラにとって、ヒンドゥー語を話せる美由紀の存在は喉から手が出るほど魅力的に見えた。


 美由紀に通訳を頼めば地元の人間からの情報は百パーセント正確に得られるかもしれない。


 悩みに悩んだ末、ユタラは苦渋の決断をした。


「嘘をついてすいませんでした。そのとおりです。僕はヒンドゥー語を話せません。だから東恩納さん、どうか僕に力を貸してください」


 本音を言えば美由紀の手を借りるのは不本意だったが、飛行機の出発時間までに舞弥を見つけられなかったことを考えれば美由紀に手伝ってもらったほうがいい。


 リスクは重々承知の上だ。


 自分が本当はレンタル・ソルジャーではなく、〈青い薔薇〉という非合法な組織のエージェントだということがバレないよう慎重に慎重を重ねる。


「うんうん、子供は大人の善意に甘えればいいの。それに異国の地で迷子になる恐怖と孤独は私にも経験があるからね。暗くなる前にさっさと見つけましょう」


「はい、よろしくお願いします」


 と、ユタラが協力の証として美由紀に握手を求めようとしたときだ。


 活気と喧騒に満ち溢れていたパハール・ガンジとは違い、穏やかな時間が流れていたチャンドニー・チョウク通りの空気が一変した。


 通りの奥から甲高い悲鳴が轟くや否や、瞬く間に通り全体にどよめきが波紋のように広がっていく。


 騒然となったチャンドニー・チョウク通りの路傍にいたユタラは、通りの奥から駆けてくる何十人もの人間を見据えながら困惑した。


 通りの奥から駆けてきた人間たちは、ユタラには理解できないヒンドゥー語で何やら喚き散らしていたのだ。


 それでも尋常ならざる事態がチャンドニー・チョウク通りで起こったことは感じ取れた。


 火事、テロ、強盗など一般人の恐怖を煽る事態を想像したとき、背後に立っていた美由紀が微妙に裏返った声でぼそりと呟いた。


「路地で人が殺された?」


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