(どうしよう……このままだと本当にまずい)
黒の目出し帽にカーキ色の軍服を着ていた舞弥は、現状を打破する解決策を考えていた。
今の舞弥は非常に厳しい窮地に立たされている。
場所は高級ホテルの一階奥に設けられていた多目的ホール。
先ほどまでは数百人の聴講者たちでホール内は埋め尽くされていたものの、テロリストに占拠されてからは別の個室に移動されて数十人単位で閉じ込められている。
そして自分の斜向かいに立っていたムーナは、業務用の大型テレビカメラに向かってヒンドゥー語で何やら演説をしていた。
ムーナの右隣には同じく黒の目出し帽と軍服を着たシュナが仁王立ちしている。
それだけではない。ムーナの前方には一人の女性が座らされていた。
両手を後頭部に回されて両膝立ちを強要されている、インドの将来について講演を行っていた女性議員――オリビア・パクシーだ。
デリー郊外から高級ホテルへ向かう途中に教えてもらったのだが、オリビア・パクシーという女性議員はインドの次期首相候補であり、フランス人でありながらも民衆からの支持は絶大だという。
わかるような気がする。
強力な武器を持ったテロリストに囲まれているというのに、オリビアは悲鳴一つ上げずにムーナたちの要求に大人しく従っていたのだ。
保身のために取っていた行動ではない。
彼女は襲撃を受けたあと、英語が話せるムーナに聴講してくれた人たちの身の安全だけは守ってくださいと必死に懇願したのである。
自分の命よりも民衆の命を優先させる次期首相候補。
確かに彼女ほどの人間が国を動かす立場になれば、このインドという大国はもっとよい方向に変わっていく可能性が高い。
それゆえにオリビアは講演を依頼されたのだろう。
選挙の前に改めて彼女の人となりや明確な政治案をインド全土の視聴者に聞いてもらうために。
しかし、世の中は何が起こるかわからない。
実際、壇上ではオリビアの代わりにムーナが大型テレビカメラに向かって演説を行っていた。
いや、テロリストがカメラを通して大勢の人間に自分たちの主張を述べることを演説とは言わない。
これはインドの次期首相候補を盾にした最上級の脅迫だ。
銀行強盗が金を目的に銀行を襲撃するのとは次元が違う。
民衆からの人気も高く、次期首相候補と目されるほどの人物ならばインド政府に対して甚大な要求ができるはずだ。
ただ、舞弥には今回の計画の十分の一すらも知らされていなかった。
なのでムーナたちがオリビアを使って何をしたいのか未だに不明である。
舞弥は自分の無力さに下唇を噛み締めた。
事の発端は数時間前、チャンドニー・チョウク通りの路地裏でシュナが仲間の復讐のためにやってきたストリート・チルドレンたちを射殺したことから始まった。
それから舞弥はムーナたちと現場を離れ、大量の汗を掻きながら逃げ回った末にデリー郊外のゴーストタウンに逃げ込んだ。
そこにはすでに高級ホテルを襲撃する準備を着々と整えていた多くの大人兵たちがおり、嬉々とした顔でロシア製のアサルトライフルであるAK74を分解して掃除していた姿は今でも脳裏に焼きついて離れない。
だが、そんな大人兵よりも印象強い記憶があった。
ムーナが父親の仇について情報を教える代わりに条件を出してきたことだ。
それは次期首相候補と期待されていた、オリビア・パクシーが講演する高級ホテルの襲撃作戦に加われということだったのである。
(やっぱり、こんな無謀な作戦に参加するんじゃなかった)
心中で嘆いても今さら遅い。
それに、たとえ今回の作戦に参加しないことをデリー郊外で告げていたら確実に殺されていただろう。
成人に達していない子供ながらも、ムーナとシュナは数多の実戦を経験していた戦闘のプロだという。
ならば大事な作戦内容が漏れるような事態を見逃すはずがなかった。
つまり彼女たちのアジトに案内されて今回の襲撃作戦の件を聞かされた以上、舞弥には襲撃作戦に参加する選択肢しかなかったのである。
(だけど、このままじゃ事態が悪化するだけじゃない)
完全武装したムーナたちと一緒に高級ホテルを襲撃した舞弥だったが、作戦が始まる前までは失敗するだろうと高を括っていた。
どれだけ修羅場を潜り抜けた兵士でも、警備が厳重な場所を制圧することは不可能だと。
ところがムーナが従えていた大人兵たちは死を恐れない不退転の兵士たちであり、かつ今回の作戦は念入りに練られたものらしく末端の兵士に至るまで動きに乱れがなかった。
十数分前もそうである。
建物のセキュリティ・システムをあっという間に乗っ取ると、疾風のような速さで警備員たちを殺し回り、高級ホテルを下界から孤立させてしまった。
そんな戦闘技術を持つ大人兵たちが各エリアを死守していると聞くと、うかつな行動は取りたくとも取られない。
何せ今の舞弥は一丁の拳銃も持っていない無手の状態なのだ。
なのに他の大人兵たちはAK74などのアサルトライフルや手榴弾を携帯している。
これでは事態を好転させるために行動することは不可能。
唯一の頼みの綱は国家権力である警察や軍の特殊部隊が一秒でも早く突入してくることだったが、難点なのは警察や軍の特殊部隊が突入してくれば確実に自分もテロリストの一人として逮捕されてしまうことだ。
無理もない。
舞弥は罪悪感に悩まされながらも、テロリストと同じ格好で高級ホテル襲撃に手を貸したのだ。
さすがに警備員や人質を殺したりはしなかったものの、舞弥を逮捕した警察や軍がテロリストの戯言と決めつけてしまえばそれまでだった。
そうなると警察や軍の特殊部隊に頼らない別の方法で現状を打破するしかない。
舞弥はさり気なく右手を動かして軍服の外に出していたペンダントを弄った。
路上売りの子供から購入した雫形のシルバーペンダントである。
(お願い、ユタラ。この中継を見ていたら、あたしだって気づいて)
これは一種の賭けだった。
ムーナの演説を中継している大型テレビカメラには、位置的から見て何とか自分の姿も画面の隅に映っているはず。
もしもユタラがアジトでこのテレビ中継を見ていれば、ムーナの後方で不審な動きをしている自分に気づくはずだ。
可能性が低いことは十二分に承知している。
ユタラがアジトでテレビ中継を見ている保障はどこにもない。
それでもゼロでない限り望みは捨てたくなかった。
やがて演説をしていたムーナが口を閉ざした。
テレビカメラを操作していた仲間の大人兵に向けて右手を上げる。
それが放送中断の合図だったのだろう。
演説を終えたムーナはどっと身体の力を抜いた。
釣られて舞弥も肉体を弛緩させる。
極度の緊張のために汗がにじみ、顔の判別を困難にするために被っていた目出し帽の中が少しだけ濡れそぼっていた。
「どうだ? 中々面白い趣向だっただろう?」
目出し帽を脱ぐかどうか迷っていると、AK74を携帯していたムーナが近寄ってきた。
「ずいぶんと長いこと話していたわね。一体、何を話していたの?」
「色々とだ。ヒンドゥー教とイスラム教の宗教対立問題、未だに根強く残っているカースト制度の問題、〝遺伝子組み換え〟作物の輸入による農村の危機問題、人口増加による富裕層と貧困層との格差問題、パキスタンとの国境紛争問題、中国を視野に入れた核兵器問題など現在のインドが抱えている様々な問題を私なりの言葉で非難してやった」
「どうしてそんなことを?」
「あまり深い意味はない。一度やってみたかっただけだ」
「はあ?」
思いがけない返事に舞弥が頓狂な声を発したときだ。
「ムーナ、連中から電話だ」
シュナが呼び出し音の鳴っている携帯電話をムーナに差し出した。
ムーナは空いていた右手で携帯電話を受け取ると、舞弥から離れて携帯電話を耳に当てる。
「私だ……ああ、すべて予定どおりに進んでいる……今から約三十分後だな……わかった、あとは手筈どおりに」
舞弥は携帯電話で誰かと話しているムーナを神妙な顔で見つめた。
こんなときにムーナは誰と通話しているのだろう。
ムーナの顔つきや話し方すると相手は親しい人間ではなさそうだったが、かすかに漏れ聞こえてきた内容がヒンドゥー語だったので内容を把握することはできなかった。
「じゃあ、これで切るぞ」
ムーナは携帯電話の電源を切ると、踵を返してシュナと視線を交錯させる。
「奴らからか?」
「ああ、どうやら私たちは最後の最後まで信用がなかったみたいだな。オリビアを手中に収めたというのに奴ら――電話をかけてきたのは例の如く伝達役の女だったが、馬鹿な演説なんかしないでさっさと始末をつけろと激を飛ばされたよ」
「本当にうぜえな。何か奴らの計画に加担していることが馬鹿馬鹿しくなってきたぜ」
「そう愚痴るな。今回の計画が滞りなく進めば、私たちは晴れて自由の身だ。どこへなりとも行ける」
「でもよ、それも奴らが約束を守ったらの話だろ?」
「守るさ。これがある限り、奴らは私たちの要求を呑むしかない。そうだろ?」
ムーナは自分の右胸を優しく弄ると、「さて、そろそろ始めるか」と舞弥に顔を向けた。
「待たせたな、パク。いよいよ、お前の儀式の番だ。こっちへ来い」
ヒンドゥー語から英語に切り替えたムーナ。
そんなムーナが口にした儀式という聞き慣れない言葉を気にしながらも、舞弥は言われるがままムーナに近づいていく。
「まずはこれを受け取れ」
近づくと舞弥はムーナから一丁の拳銃を渡された。
ベレッタ92FS。
一九八五年にアメリカ軍が制式に採用したオートマチック拳銃だ。
舞弥はベレッタを受け取るや否や、スライドを少しだけ後退させて薬室を覗き見た。
薬室には金色に光る九ミリの弾丸が込められている。
続いてスライドをゆっくり戻し、親指でマガジンの一番上に装填されていた弾丸を押す。
二、三発分の弾丸が抜かれているのだろう。
親指は簡単に中へと押し込むことができた。
これは単に弾丸をケチっているというわけではなく、マガジン内部のスプリングに余計な負荷をかけないことで弾丸の装填不良を軽減させるプロの行為だ。
舞弥は引き抜いたマガジンを音が鳴るまでグリップに内に押し込む。
どうやら渡されたベレッタやマガジン自体に細工されている形跡はない。
「ねえ、あたしだけ拳銃一丁ってのは割に合わなくない? できれば他の連中と同じアサルトライフルが欲しいんだけど」
念願の武器は手に入ったものの、さすがに拳銃一丁のみでは心許ない。
逃走するチャンスを生み出すには最低でも強力なアサルトライフルが必要不可欠だ。
「そうあせるな。儀式を終えればお前にも私たちと同じ装備を渡してやる」
「だったら話は早いわ。その儀式の内容を教えてくれない? さっさと終わらせるから」
「そうか? では早く終わらせてしまおう」
ムーナは口の端を吊り上げるなり、突き立てた人差し指をある人物に向けた。
舞弥にではない。
屈辱的な両膝立ちを強要されていたオリビアにである。
「ど、どういうこと?」
「だから私たちの仲間になる儀式さ。その拳銃でオリビア・パクシーを殺せ。そうすればお前を本当の仲間だと認めよう」