「起立、気をつけ、礼」
『ありがとうございました』
号令係を務める哀翔の声に、皆が動きを揃えた。「はい、ありがとうございました」と言って地理担当の先生が教室を出ていく。今は六時間目――やっと一日が終わる。でも俺には、部活がある。テニス部に所属している俺は、六月に三年生が引退してから、副部長を任されているのだった。
そのとき、名前を呼ばれた。
「宗田くん」
女子の声だ。あいにく、すぐに誰だかわかるほど女子と交流しているわけではないため、俺は声の主を確認する。
「和田さん」
斜め後ろの席の、女子だった。確か部活も同じだったはずだ。もっともテニス部は男女完全に分かれて練習しているため、あまり接点はない。
「なにか、用?」
自分が出した声が、思ったよりも突慳貪で、しばし驚く。しかし、和田さんはそれを気にせず淡々と連絡事項だけ告げた。
「今日の部活、休みになったって」
「え、なんで?」
「顧問が都合がつかなくなったんだって。最近部活日数多かったから、今日くらい休んでもいいっていうのもあるみたいだけど」
「なるほど、わかった了解」
これ以上、会話は続かない。俺はどうにも、女子と会話するのが苦手なようだ。和田さんも、話し出そうとはしない。微妙に気まずい雰囲気の中、俺は荷物をまとめて帰る準備をする。
「じゃ、また」
一応部活がオフになったことを教えてくれたし……、和田さんの近くを通るときに挨拶をしてみた。
すると、小さな声でそっけない挨拶が返ってきた。
「じゃあね」
部活なくなったし、一緒に帰ろう!などという風にはならない。きっとサッカー部でキラキラしている柿田とか亀広とかだったら、さりげなく「マックでも寄らない?」と女子を誘えるのだろう。でも俺に、そんなスキルは無かった。
昇降口へ向かう。
上履きからスニーカーに履き替える。
さっさと帰って、数学の問題でも解いて、あとはアニメの最新話でも見て。久しぶりの部活オフの放課後を楽しもうと思っていた。
そんな、俺のプランは。
“アイツ”と出会ったことで呆気なく崩れ去る。
灼熱の太陽がアスファルトに照りつける。今にもジリジリと音を立てそうな黒い道を、俺は一人無表情で歩いていた。さっきまで昇降口で帰宅後の妄想をしていたが、今や家までたどり着けるかどうかも怪しい……七月下旬って、こんなに暑かったっけ?やっぱり温暖化って進んでいるのか?そう思いながらも早くクーラーのもとへ行きたいと思ってしまう俺は、地球環境の敵なのかもしれない。
早く日よ沈めと願いながら、曲がり角を曲がる。だが夏は日が長いのだ。午後三時を過ぎたところである今は、まだまだ暑い。
「まじ暑いんだけど…………」
俺がそう呟いた、その瞬間だった。
『ねー、ほんと暑いね』
誰もいないはずの隣から、声がした。
『私もさ、ほんっと溶けちゃいそう』
知らない女子の声。クラスの誰かか……?いやいや、俺は一人で帰ってたはずだ。ここまで誰かが隣を歩いてきていたんだとしたら、流石に途中で気づくだろ。
俺は、自分の右隣を見た。
そして、目を思いっきり見開いてしまう。
「あっ、どうも。キミの隣を歩かせてもらってました」
俺の目に映ったのは――――片手を小さくあげて、悪戯っ子のような笑い方をしている美少女だった――。
「歩かせてもらってましたって……、いつからそこにいた、ん、ですか?」
目の前の少女の美しさからか、はたまた彼女が出すオーラがそうさせているのか……わからないけど、俺はカタコトの敬語で聞いてしまう。
「んーっとね、あ、ほら。キミの高校を出て左に曲がったところに小さな竹林があってさ、そこにお社があるじゃん?」
お社……?その存在は知らなかったが、竹林があるのは知っている。さっきも、そこを通るときだけ陽の光が遮られて涼しかった記憶がある。
「ありますね」
「そこから」
「……へ?」
「だから、そのあたりからキミの隣を歩いていたの!」
美少女はそう言った。俺は……にわかに信じられなかった。だって……その竹林から、今歩いているところまで軽く十分は経ってるぞ?俺はその間、隣に誰かがいることに気づかないまま歩いていたってことなのか?
「まさか……ストーカー……」
思わず俺の口からポロリと、その言葉が飛び出してしまった。すると、彼女の目にみるみる涙が溜まった。
「す、ストーカーって……うわあ、酷いっ!どうしてそんなこと言うの!」
「いや、だってそうですよね……気づかれずに標的についていくって」
「うっ、ううっ、悲しいよおお………」
隣を歩いていた美少女は、足を止めて泣き出した。俺は思わずその様子をまじまじと見つめてしまう。
サラサラと流れるような艶やかな髪の毛。
黒曜石のような輝きを放つ、赤みがかった瞳。
そして、溌溂とした性格を思わせる、白Tシャツにデニムのスタイル。
透き通るような肌。暑さのせいか、少し頬が赤い。
背は、俺より少し低いくらいか。
そんな完璧美少女が涙を流しているさまは、実にドラマチックで美しかった。
しかし。
「ちょっと!何よ、私のこといやらしい目つきで見て。もしかして泣いている女の子がお好みなの?」
「はぁ!?別にいやらしい目つきでなんか、見てませんけど!?」
「だってなんか……私のこと、さっきからずっと見てくるじゃん」
「いや、ちょっとさ。美人さんだなって」
俺が素直にそう言うと。
「わぁぁあ!やっぱり私のこといやらしい目つきで見てるんじゃん!」
「いやそんなことは言ってないけども」
「ん、否定?じゃあ私は美人じゃないって言うのね!」
そしてまた泣き出す始末だ。
不本意ながらも、女の子を泣かせてしまった。こんなとき、どうすればいいんだよ……。
そんなとき、頭の中に今流行りのドラマの登場人物が浮かんだ。とある会社を舞台にした連作恋愛ドラマ。確かその主人公は……ことあるごとに、女の子にキスしてたっけ。その役名は西島と言ったか……。
いやいや、それは参考にならない。彼女がいたことはもちろん、女子と関わりのない俺がそんなにすぐに実行できるものではない。
頭を悩ましている間にも、俺の目の前には涙を流している美少女。どうすれば…………。ふと、言葉が口をついて出た。
「な、なんか俺にできることがあれば……」
口に出したと同時に、これだー!と思った。よかった、俺は今度こそ間違えなかった。「なんか、できることがあれば」だなんて!なんて完璧な対応なんだ。これで「なにもないです」って言われたら、即帰ればいいし、「〇〇してほしい」と言われればそれをやってあげればいいのだ。そして、それが終わったなら、即帰宅。この娘は可愛いが、言動が不審すぎる。あまりお近づきには、なりたくない。
「き、キミにできること……?」
美少女がようやく、泣いている顔を上げた。
「うん」
俺は答える。
「何か、できることがあれば、応えてあげたいなって」
そう、そしてオサラバだ。もう会うことはないだろう。
――――だと、思っていたのに。
なのに、なぜこんなことに。
「なーんでも、いいんだよね?」
彼女は、涙を頬に光らせながら俺の方を向いた。その口から、飛び出した“願い”は。
「じゃあ、キミの夏休みを、全部私にちょうだい」
数秒後、俺の叫びが通りに響き渡ったのは、言うまでもない。