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第45話

 侃爾は手の中にじっとりとした汗を掻きながら机を間を縫い、窓辺へ向かった。

 そのとき。


「キャアアアアアアッ」


 突然、穏やかな秋晴れを切り裂くような悲鳴が上がった。

 窓のほぼ真下から。


 ――――嫌な予感がした。


 窓から乗り出して見れば、その悲鳴の原因が確認できるはずだ。

 侃爾は意を決して窓のレールに両手を置き、覚悟を決めて下を見た。

 声を上げたのは低学年の少女だった。


 その傍に、うつ伏せに倒れた若草色の着物に藍色の袴の少年がいた。その頭部からは、赤黒い血だまりがたっぷりと広がっていた。白い横顔が、侃爾の嫌な予感が的中したことをまざまざと知らせていた。

 彼は見紛うことなき侃爾の弟、清那だった。


「う…………っ」


 侃爾は呻いて後退り、息を乱して傍の机に手をついた。窓の下からは、集まった生徒たちの叫び声が聞こえてくる。侃爾は強張った体をぎこちなく動かして教室を出、もつれる足で階段を下りた。校庭の一角にはすでに大きな人だかりができていた。

 その輪を乱暴に掻き分け騒ぎの中心部に辿り着くと、教室から見たままの姿で清那が意識を失っていた。


「おい! 先生を呼んで来てくれ!」


 侃爾は近くにいた下級生を振り返り、掠れる声で懇願した。

「もう呼びに行った! きっとすぐ来るよ」

 顔を蒼白にして震える少年を気遣う余裕も無く、侃爾は清那を抱き起こし名を呼び続けた。目を瞑ったままの弟は体を脱力させ、侃爾の揺さぶりにブラブラと揺れるだけだった。


 濡れた感触に清那の肩の下に入れていた己の手を見ると、幼く丸い額から溢れ出す血が細い首に流れ、支える侃爾の手をも汚していた。


 ――赤い。

 ――赤い。

 ――気持ち悪い。


 なのに、網膜に貼り付くような鮮やかさから目が離せない。


 いつの間にか生徒のに輪に穴が開き、何人かの教師が駆けよってきた。茫然自失だった侃爾は清那から引き剥され、空になった腕の中には着物に染み込んだ生温かい血液だけが残った。


 女性の――恐らく教師の一人が、侃爾を励ましながら家まで送ってくれたような覚えがある。そのときまだ存命だった祖母が、侃爾を抱き締め慰めてくれたような記憶が微かにある。


 しかし父と母はその晩帰って来なかった。

 翌日お昼頃に戻ってきたとき、二人は絶望を宿したような暗い顔をしていた。


「清那は?」


 侃爾が尋ねると、いつもは花のように明るい母が沈んだ声で「ちょっと、ひどいみたいで……」と歯切れの悪い言い方をした。普段温厚な父は厳しい表情で、「体にね、障害が残る可能性が高いらしいんだ。脊髄を傷つけてしまってね」と口惜しげに付け加えた。


 侃爾は昨日の清那の姿、そして教室で擦れ違った少女の顔を思い出した。

 一緒に帰る約束をしていた弟が、待ち合わせ場所である校門脇の銀杏の木になかなか現れなかったから様子を見に行ったのだ。


 生徒が捌けた校舎。

 二階の端から二番目にある四年の教室。


 引き戸に手を掛けたとき、教室内から勢いよく開いたそこには、見たことのある少女が兢々とした表情でそこに立っていた。少女は侃爾の存在を認めると、戸口に壁のように立ちはだかるその大きな体から逃れようと長い髪を振り乱して脇に避け、僅かな隙間を突っ切ろうとした。


 擦れ違いざまに、侃爾はほとんど反射的に右手を伸ばした。しかし勢いのついた少女の腕は掴まらず、一瞬だけ振り返った青白い顔が恐怖に歪み、はらはらと涙を流す赤い瞳が侃爾の心をひるませた。

 少女は磨かれた廊下を真っ直ぐに走り、階下へ下って行った。


 呆気に取られたが、それよりも開いた窓が気になった。

 弟がいない。

 悪い予感は、――――当たってしまったのだ。 


 教師や警察の調べで、事故の直前まで清那と少女が一緒にいたことが周知された。教室の外にいた生徒が、変わり者と名高い少女の奇声や、宥めるような清那の声を聞いたのだという。事故の関係者として、その少女への聞き取り調査が行われたが、彼女は怯えて泣くばかりで一言も話さなかった。なのでこの件は事件か事故は判然としないまま、――子ども同士のことだから、という理由でうやむやにされた。が、少女の日頃の態度や言動、現場の状況から、学校関係者の間では少女が清那を突き落としたのだ、という共通認識が広がっていった。


 その件から一か月ほど、少女は学校へ来なかった。

 一層陰気臭い顔が教室に現れたときには、机は落書きに塗れ、級友にはひどい暴力と暴言を振るわれたらしい。腫れた顔を俯きがちにして、破れた着物を抱き合わせながら下校するさまを、侃爾は校舎の中から傍観していた。


 いいざまだと思った。

 弟の体に障害を残しておいて、のうのうとしているのは罪なのだ。

 もっとひどい罰を与えなければ――――……。


 思案しているうちに、少女が父母とともに村の外へ引っ越して行ったことを知った。

 風に流れてきた噂によると、残された彼女の机の上には、形のいいどんぐりが一つ、寂寞と残されていたのだという。侃爾は実際にそれを見たわけではないが、いつか彼女に譲ったそれそのもので無ければといいと強く祈っていた。




 清那は悲観に暮れる家族とは真逆に明るく振る舞い、動かなくなった足を撫でて「しょうがないよ」と笑った。


「シイちゃんは悪くないよ」


 何度聞いてもそう答える弟に、やきもきするのは侃爾のほうだった。


「でも、もし見つけたら、ここに連れてきてほしいな」


 清らかな微笑みで清那は言った。

 侃爾は、その言葉をずっと覚えていた。

 だから、祖母の死を機に一家で引っ越した後も、侃爾はシイを探していた。


 そして見つけた。

 人々に虐められ、傷だらけの彼女を。


 嫌がるシイを引き摺って、清那のもとへ連れて行った。

 二人きりになりたいという清那の願いを叶え、侃爾が部屋の前で待っていると、静寂からつんざくような悲鳴が上がり、ひどく怯えた表情のシイが逃げ出てきたのだった。


 薄く積もった雪に素足を乗せ、白い息とともに謝罪を口にする彼女を、侃爾は憎らしく思った。しかし同じくらいの哀れみを感じた。


 顔に無数に走る赤い傷痕が、

 不安と恐れにに震える声が、

 彼女の人生の悲壮さを物語っていた。


 幸福でいてほしかった。そうだったら思う存分憎めたのに。


 彼女はあの夜、あの橋で、自ら『命を絶ちたい』と言った。

 そのまま何も見なかったことにして死なせてやればよかったのか、侃爾には未だに判らない。自殺を先延ばすように言い、現実の苦しさを引き伸ばしてやったことが復讐になっているのか判らない。


 ただ今は、夢の中でさえシイを手を掴めないことに、底無しの不安と寂寥を覚えるのだ――――。



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