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第64話


「物が少なくてやり甲斐が無い」


 と不満げな顔で引っ越し作業を終え、ルカは午前のうちに帰って行った。

 侃爾とシイの新居となった平屋は住宅街の外れにあり、居間と寝室があるだけの小さな家だったが、若い二人が住むには十分であった。家の前には前の住人が世話をしていた小さな庭とツツジの垣根があり、それをシイはいたく気に入って、縁側からよく眺めていた。


 以前の町から離れたことで、シイが他者に悪意のある関心を向けられることはほとんど無くなった。しかし外出時は周囲の視線を気にし、帰って来ると警戒するように玄関戸を見る癖は抜けないようだった。


 シイは、丁寧に家のことをしながら、以前よりもささやかに仕事を続けていた。

 侃爾が帰れば嬉しそうに迎えてくれるのが、彼には何よりの褒美だった。


「今度、学友を連れて来てもいいか?」


 鯖の塩焼きを解す手を止めて侃爾が尋ねると、シイは目をぱちくりとさせた後に、柔和な笑みを湛えて「勿論です」と答えた。そして、


「美味しいお菓子やお酒などが必要ですね」

 と顎に指をあてる。


「そうだな。あいつも甘党だから、羊羹でもあればいいかもしれん」

 侃爾の提案に、シイは「分かりました」とたおやかに返事をした。


 シイが洗い物をしている間に入浴を済ませた侃爾は、卓で勉強をしながら、交代で風呂に行ったシイを待った。浴衣に着替えたシイが戻ってくると、共に布団に入る。試験期間で無い限り、侃爾はそうすることを心掛けた。――否、好んだ。


「疲れているでしょう。待っていて下さらなくてもいいのに」


 シイは心配そうに眉尻を下げたが、侃爾は生返事をしながら必ず彼女を待った。

 別に下心があるわけでは無い。断じて無い。

 互いの愛を確かめる行為――身体を舐めたり触り合ったり――はしているし、その現状に概ね満足はしている。


 ……――――シイが眠った後に自身で欲を満たしているなどとは口が裂けても言えないが。


 そもそもとして彼女がそれ以上の行為を知っているとは到底思えなかった。故に慎重にならざるを得ず、婚約をして数か月経った今でもそういう関係にはなっていない。


 今晩もシイはするりと布団に足を入れ、首元まで覆われてしまった。

 侃爾も彼女に倣って布団を被る。

 いつものように布団の隙間から手を伸ばせば、シイの腕も伸びてくる。


「侃爾さん、手温かいですね」


 侃爾の手を、シイの柔らかい手が優しく握る。


「シイの手が冷たいんだ」


 冷え性だという彼女の手を握り返すと、シイがふふふと笑った。


「体温が移ってくるみたいで気持ちいいです」


 シイが侃爾のほうに身体を向け、もう一方の手も重ねる。

 肌理が細かく滑らかなシイの手が侃爾の皮膚に密着する。

 そういえば彼女は身体も冷たかった。

 夏も近づき、そろそろ夜間も熱が籠る。

 それでも不思議なくらいシイの身体は冷たかった。温めてやらねばと思うほど冷えている。

 手を伸ばし、シイの首筋に触れる。脈打つ感触と血液の温かさを感じる。

 空いてる片手で頬を包む。熱い外気に触れているのに、ひんやりとする。


「可哀想だ」


 と侃爾は困ったような切ないような顔をした。


「何がですか?」


 シイが枕の上で首を傾けると、侃爾は「冷たくて」と視線を逸らした。

 シイが握っていた侃爾の手を辿り、腕に触れ、互いの垣根を越えて、肩に擦り寄る。


「侃爾さん、私『可哀想』ですか?」

「……俺にはそう見える。この傷も、火傷も、不遇な生い立ちも、たいていの人間は持っていない。皆もっと気楽に生きている」

「『可哀想』は駄目ですか?」

「そういうわけでじゃない。ただ、心が痛むんだ」


「血の滲んでいた傷は、瘢痕になりました。侃爾さんが受け入れてくれたから、これは今まで堪えてきた証だと、誇れるようになりました。冷たい手も堪えられます。――だって、私よりも温かい人が隣にいてくれるからです」


 そう言ってシイは侃爾の首に両腕を回した。ふわりと真綿をあてられたような優しい感触に、侃爾の涙腺が緩んだ。彼女に非道を働いた罪が、こうして何の犠牲も無く許されることこそが、重い罪のように思えた。だから、侃爾は償うことを決めたのだ。一生を懸けて。

 侃爾はシイを正面に捉え、絡んできた腕に応えるように細い背中を抱き締めた。


「温めるに決まっているだろう。シイが俺を望んでくれるなら、何でもする。もう『可哀想』になんてさせない。生涯、俺がシイを幸せにする。約束する」


 言いきって、侃爾はシイの身体をぎゅうと抱き締めた。

 彼女の肩は小さく震えていた。

 耳元では鼻を啜る湿っぽい音が聞こえてくる。

 侃爾のほうに顔を向けたシイの顔は、はらはらと流れる涙で濡れていた。


「わ、私は、もう、十分に幸せです……」


 ガラスのような瞳から零れ落ちた涙が侃爾の浴衣に染みていく。


「足りない。シイ、俺はもうお前から離れたくない。ずっと傍にいてほしい」


 侃爾の真摯な声に、シイはすんと鼻を鳴らした。

 そしてどこか急いた様子で、彼の顔に自分の唇を近付けた。


「ちょ、お、ま、……待て、シ…………」


 ガチンッ。


 夜の静寂に、硬質なものがぶつかる鈍い音が響いた。

 二人は、う……、と呻き口元に手を当てる。幸い出血は無かったが接触した唇の裏側がじんじんと痛んだ。

 侃爾はシイの背を撫でながら、


「へたくそ……練習が必要だな」 


 と宥めるように囁いた。


「させて下さいますか? 練習」


 シイが侃爾の頬に自分の白皙の頬を合わせながら問う。

 角度を変えればふっくらとした唇が、侃爾の頬にあたる。


「この身体でよければ、お前が飽きるまで使っていい」


 侃爾の真剣な顔に、シイがふふふと笑う。


「この身体が、いいです」


 楽しそうに笑うシイの目元をそっと親指で擦り、侃爾は彼女の後頭部を手で支えた。ゆっくりと近付く二人の唇。互いの柔らかい感触が出会う。


 楽しむように、慈しむように、何度も薄い皮膚を撫で合い、やがて啄むように、そして食むように誘えば、――――夜が波打つ。


 浮かぶ痕は、紅い花。


 約束は続いてゆく。


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