磐梯山の麓に出現した謎のダンジョンの本格探索が始まる直前、消防団は特別な訓練を重ねていた。春の陽気がほんのりと感じられ始めた三月中旬のある午後、消防団の訓練場では、未知の空間に備えた特別訓練が行われていた。手作りの障害物や、暗闇を再現した空間が設置され、団員たちは真剣な表情で取り組んでいた。
「はぁ…はぁ…」
「お疲れ様、二人とも」
「初めてにしては上出来だ。特に青山、前回より2分短縮できている」
智也は照れくさそうに頭を掻いた。
「ありがとうございます。でも、まだまだ
その言葉に、村瀬は小さく笑った。
「佐久間は特別だからな。あいつの感覚は長年の経験から来ている」
三人の視線は、訓練場の向こう側で黙々と器具を点検している
「村瀬さん」
乃絵が少し遠慮がちに声をかけた。
「佐久間さんって、昔からあんなに無口なんですか?」
村瀬は少し考え込むような表情を見せた後、首を横に振った。
「いや、昔は違った。もっと…言葉があった」
その答えに、智也と乃絵は興味深そうな表情を浮かべた。
「何があったんですか?」
智也が思わず聞いた。村瀬は少し
「それは…佐久間本人から聞くべき話だな」
そう言って、村瀬は二人に背を向け、訓練場の中央へと戻っていった。
「次は
乃絵と智也は、佐久間の方をもう一度見つめた。彼はまだ黙々と作業を続けていた。
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訓練が終わり、日が傾き始めた頃。団員たちのほとんどは帰宅の準備を始めていたが、村瀬と佐久間だけは訓練場に残っていた。二人は黙々と片付けを進めていた。
「今日の若い衆は、なかなかやるな」
村瀬が静かに言った。佐久間はただ頷くだけだった。
「特に青山は、前回より大きく成長している」
佐久間は手を止め、少し考え込むような表情を見せた。そして、珍しく口を開いた。
「…まだ迷いがある」
その短い言葉に、村瀬は驚いたように佐久間を見た。彼がこうして自分から意見を述べることは珍しかった。
「青山のことか?」
「ああ」
佐久間は再び作業に戻りながら言った。
「判断を信じきれていない。頭でっかちだ」
村瀬は少し考え込んだ後、苦笑した。
「言われてみれば、そうかもしれないな。データや理論に頼りすぎる傾向はある」
二人は静かに片付けを続けた。しばらくして、村瀬が再び口を開いた。
「明日、特別訓練をしようと思っている。青山とお前をペアにして」
佐久間は一瞬動きを止め、村瀬をじっと見つめた。
「俺が?」
「ああ。お前にしか教えられないことがある」
佐久間は少し困ったような表情を浮かべた。
「俺は…教えるのが苦手だ」
「言葉で教える必要はない」
村瀬は穏やかに微笑んだ。
「お前の背中で教えてやればいい」
佐久間は黙って考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「…わかった」
◆◆◆
翌日、朝早くから訓練場に現れた智也は、そこで既に準備を整えていた佐久間の姿を見つけて驚いた。
「おはようございます、佐久間さん。こんなに早くから…」
佐久間は無言で頷き、智也に装備を手渡した。
「今日は…特別訓練だ」
佐久間の口から発せられた言葉に、智也は驚きを隠せなかった。普段、佐久間が彼に直接話しかけることはほとんどなかったからだ。
「はい!よろしくお願いします!」
智也は気合を入れて応じた。佐久間はただ黙って頷き、訓練場の奥へと歩き始めた。智也は急いで彼の後を追った。
訓練場の奥には、通常の訓練では使わない特別なエリアがあった。そこには、
「ここで何をするんですか?」
智也が尋ねたが、佐久間は答えなかった。代わりに、彼は二つの
「つけろ」
智也は戸惑いながらも言われた通りにした。目隠しをすると、世界は完全な闇に包まれた。
「これから、俺の後をついてこい」
佐久間の声が闇の中から聞こえてきた。
「でも、見えないのに…」
「見るな。感じろ」
佐久間の言葉は簡潔だったが、その中に込められた意味は深かった。智也は混乱しながらも、言われた通りに集中しようとした。
すると、かすかに音が聞こえてきた。それは佐久間の足音だった。智也はその音を頼りに、恐る恐る歩き始めた。
最初は何度もつまずき、壁にぶつかった。だが、少しずつ耳が研ぎ澄まされてきて、佐久間の足音だけでなく、彼の呼吸や衣擦れの音まで感じられるようになってきた。
「右」
突然、佐久間の短い指示が飛んできた。智也は急いで右に曲がった。
「左。下がれ。止まれ」
佐久間の指示は最小限だったが、智也は何とかついていくことができた。時間が経つにつれ、彼は視覚以外の感覚が鋭くなっていくのを感じた。
「なぜ…こんな訓練を?」
智也が息を切らせながら尋ねた。佐久間はしばらく沈黙した後、珍しく長い言葉で答えた。
「ダンジョンの中では、データも視覚も役に立たないことがある。そんな時、頼れるのは感覚だけだ」
智也はその言葉に深く考え込んだ。彼はいつも論理的思考とデータ分析に頼ってきた。だが、それだけでは対応できない状況があることを、身をもって感じ始めていた。
「もう一度」
佐久間の声に、智也は再び集中した。今度は前よりもスムーズに動けるようになっていた。足音を頼りに、空間の
一時間ほどの訓練の後、佐久間が「終わり」と告げた。智也は目隠しを外し、眩しい光に目を
「どうだった?」
珍しく佐久間から質問が来た。智也は少し考えてから答えた。
「最初は怖かったです。でも、だんだん…何か別の感覚が目覚めてきたような気がしました」
佐久間はわずかに頷いた。それが彼なりの満足の表現だった。
「明日も来い」
その短い言葉に、智也は嬉しそうに頷いた。
「はい、必ず来ます!」
佐久間は無言で装備を片付け始めた。智也も手伝おうとしたが、彼は首を横に振り、一人で作業を続けた。智也はその背中を見つめながら、今日の訓練で何かが変わり始めたことを感じていた。
◆◆◆
翌日以降も、特別訓練は続いた。佐久間の指導は常に簡潔で、時には一言も発せず、ただ行動で示すだけのこともあった。だが、智也は少しずつその「無言の教え」の意味を理解し始めていた。
三日目の訓練が終わった後、村瀬が二人の様子を見に来た。
「進歩はあるか?」
村瀬の問いに、佐久間は静かに頷いた。
「少しずつだが…成長している」
その言葉に、智也は驚きと喜びを感じた。佐久間からの評価は、彼にとって大きな励みになった。
「明日は最終テストだ」
佐久間がポツリと言った。智也と村瀬は驚いた顔で佐久間を見た。
「最終…テスト?」
「ああ。お前一人で、暗闇の
智也は緊張した面持ちで頷いた。
「必ず、クリアしてみせます」
佐久間はただ黙って頷くだけだった。
◆◆◆
最終テストの日、訓練場には村瀬だけでなく、他の団員たちも集まっていた。
「青山くん、頑張ってね!」
橘が明るく声をかけた。智也は緊張しながらも笑顔で応じた。
佐久間が無言で智也に目隠しを渡した。智也はそれを受け取り、深呼吸してから目に当てた。世界が再び闇に包まれる。
「始めろ」
佐久間の短い言葉と共に、テストが始まった。今回は誰の足音も頼りにできない。完全に一人で、感覚だけを頼りに進まなければならない。
智也は慎重に一歩を踏み出した。最初は恐る恐るだったが、徐々にペースを上げていった。壁の
時折、
「信じられない…」
「あれだけスムーズに動けるなんて…」
智也は周囲の声に気を取られず、ただ前に進むことに集中した。やがて、空気の流れが変わり、出口が近いことを感じ取った。
最後の一歩を踏み出し、智也は出口に到達した。目隠しを外すと、そこには微笑む村瀬と、珍しく満足げな表情の佐久間の姿があった。
「見事だ、青山」
村瀬が肩を叩いた。
「佐久間の特訓の成果が出たな」
智也は深く息を吐きながら、佐久間に向き直った。
「佐久間さん、ありがとうございました。たくさんのことを学びました」
佐久間は
「おめでとう!」
「すごかったよ!」
他の団員たちが智也を取り囲み、祝福の言葉を掛けた。彼は照れくさそうに笑いながら、その声に応えた。
その様子を少し離れた場所から見ていた村瀬と佐久間。村瀬が静かに言った。
「教えるのが苦手とは思えないな」
佐久間は少し困ったような表情を見せた後、小さく言った。
「言葉は…必要なかった」
村瀬は優しく微笑んだ。
「ああ、お前の背中が全てを語っていたよ」
佐久間は視線を逸らし、装備の片付けを始めた。だが、その背中には何か晴れやかなものが感じられた。
夕暮れ時、訓練場から帰り支度をしていた智也は、ふと佐久間が一人で座っているのを見つけた。彼は迷った後、勇気を出して近づいた。
「佐久間さん、一つ質問してもいいですか?」
佐久間は静かに顔を上げ、頷いた。
「なぜ…あまり話さないんですか?」
智也の率直な質問に、佐久間は少し驚いたような表情を見せた。しばらくの沈黙の後、彼はポツリと言った。
「昔、余計な一言で、仲間を危険な目に遭わせた」
その言葉に、智也は息を呑んだ。
「それ以来…必要な言葉だけを選ぶようにしている」
佐久間は遠くを見つめながら続けた。
「言葉より大切なものがある。行動、責任、背中で語ること…」
智也はじっと佐久間の言葉に耳を傾けた。それは彼がこれまで聞いた中で、最も長い佐久間の「スピーチ」だった。
「私もそうありたいです」
智也は真剣な表情で言った。
「必要な時に必要なことを、しっかりと伝えられる人に」
佐久間はわずかに微笑んだ。それは彼にしては珍しい表情だった。
「お前なら…できる」
その短い言葉は、智也にとって最高の励ましとなった。二人は静かに並んで座り、夕焼けに染まる磐梯山を眺めた。