早春の夕暮れ、わたしは急いで荷物を追いかけていた。
「もう、ちょっと大人しくして!」
わたしの目の前で、茶色の荷物が宙に浮き、左右に揺れながら逃げようとしている。この荷物、今日は特に元気だ。西日が街を優しく染める時間帯に、人目につかないはずの裏路地で魔法の箱と格闘するなんて、考えてみれば笑ってしまう状況だけど、今はそんな余裕はない。
「拓人さん、そっちしっかり押さえて!」
同僚の拓人さんが反対側から荷物に飛びつこうとしている。彼はいつも不機嫌そうな表情をしているが、今日は特に苛立っているようだ。
「やってるよ!こっちだって必死だよ!ちくしょう!」
佐々木拓人さんとわたし――日比野千秋は「マジカルエクスプレス便」という少し変わった宅配会社で働いている。わたしは24歳、魔法使いでもある。拓人さんは26歳で魔法は使えないけれど、優秀なドライバー兼パートナーだ。
普通の宅配会社と違うのは、わたし達は魔法界と人間界をつなぐ特別な配達をしているということ。そう、魔法を使った配達だ。そして、会社の理念は「配達すべきは物のみにあらず」。すなわち、時には思いを伝えるための心を運んだり、魔法界と人間界の境を超えて悩みごとの種を解決可能な場所へ運んだり、そうやって人々の助けになること。それは同時に私の理念でもある。
ただ、現実は魔法の品物の配達が多いわけで、様々なトラブルも生じる。
――ただでさえ今日は修理に出すための魔法の杖の運送だから、少し厄介なんだよね。
ふと気づくと、そんなわたし達の仕事ぶりを、今、誰かが見ていた。
振り返ると、路地の入り口に二人の高校生が呆然と立っていた。男の子と女の子。彼らの制服は近くの高校のもので、おそらく放課後の帰り道だったのだろう。そして路地の奥でわたしと拓人さんが奇妙な格闘をしているところを目撃してしまった。
「あ……」
言葉が出ない。わたし達の秘密の仕事を見られてしまった。空気が一瞬凍りついたようになる。
次の瞬間、わたしは思わず叫んでいた。
「ほら、見つかっちゃったじゃん!」
わたしの声に驚いたのか、箱が再び激しく動き、拓人さんの手を振り切って空高く舞い上がった。
「ほらじゃないよ。お前が不用意に箱を振るからだろうがこのバカ千秋!とりあえず先にこっちを何とかしろ!」
拓人さんの怒声に、わたしは慌てて両手を前に伸ばした。指先から淡い光を放ち、言い訳と共に魔法の言葉を唱える。
「中身が固定されてるか確認しようとしただけだもん!ベシューツ・ノース!」
わたしの指先から放たれた光が空中の箱を包み込み、荷物はゆっくりと地面に降りてきた。ようやくおとなしくなった。普段だったら回収済みの荷物に万が一遭遇した人間がいたとしても、普通はそれを魔法だと気づかれることはない。でも今日は実際に魔法を使ってしまった。
高校生の男の子の目が興奮で輝いた。
「今の……魔法?」
彼の声は純粋な驚きと喜びで満ちていた。一方、女の子の方は警戒心を隠せない様子だった。
――あぁ、やってしまった。見られちゃった。
魔法界の秘密を一般の人に見られるなんて、これは大問題だ。店長にどう報告しよう。きっとまた「考えなし」とか「ポンコツ」とか言われるに違いない。
「あなた達……見ちゃったのね」
申し訳なさそうに笑いながら、わたしは高校生二人に近づいた。どうにかこの状況を収拾しなければ。
「というか、見られてるの分かってるのに魔法使ったのはお前だろ?」
拓人さんが深いため息をついた。確かに彼の言う通りだ。でも緊急事態だったし、他に方法がなかったんだから仕方ない。
「しかし、緊急事態だったとはいえ大変なことになったな……」
「店長にどうやって報告する?」
「どうもこうも……。そのまま報告するしかないだろう?」
拓人さんは悟りきったような表情で遠くを見つめていた。確かに店長の情報収集能力は恐ろしいものがある。ごまかしてもすぐにバレるだろう。
「ごまかしきれないかな?……いや、ごめん。言ってみただけ」
拓人さんから厳しい視線を向けられてわたしは思わず謝った。そんなわたしと拓人さんの会話を、高校生二人が興味深そうに聞いている。特に男の子の目は好奇心でいっぱいだった。
「私、日比野千秋って言います。こっちが佐々木拓人さん」
わたしは自己紹介しつつ、彼らの様子をじっくり観察した。二人は同じ高校の制服を着ているが、反応は対照的だ。男の子は興奮気味にわたし達を見つめ、女の子は冷静に状況を分析しているように見える。
「あの、あなたたち……」
呆然としている二人にわたしが声をかけると、男の子が我に返ったように自己紹介を始めた。
「僕、高梨優斗って言います。こっちが水沢茜。お二人とも魔法使いなんですか?」
優斗くんは少し緊張した様子だが、目は期待に輝いている。茜ちゃんは冷静な視線でわたし達を観察していた。
「ちょっと優斗、魔法なんてあるわけないじゃない。そんな事より、明日の数学のテスト、またギリギリになって慌てるんじゃないの?」
茜ちゃんが優斗くんに向かって言った言葉に、彼は明るい笑顔で後頭部を掻きながら苦笑いした。二人の自然な掛け合いから、長い付き合いなのだろうと想像できる。
「でも、茜もさっきの魔法、見たよな?」
「見たけど……」
冷静に見えても、茜ちゃんは自分の目で見てしまったものと、魔法なんてあり得ないという固定観念の間で少しパニックになっているようだ。魔法の話から少しでも自分の理解が及ぶテストの話に話題を変えようとしている。それを現実逃避と悟ったような優斗くんが、また魔法のことに話を戻す。困ったことに、優斗くんの方は興味津々だ。
その時、優斗くんはテストについての茜ちゃんのお説教を聞きつつも、周りを見渡して何か違和感を感じたようだった。わたし達が起こした魔法の痕跡にでも気づいたのだろうか。
「それに、なんか今日、この路地変な感じしないか?」
彼の観察力は鋭いようだ。きっと魔法の痕跡か、人払いの結界を感じ取ったのだろう。そんな素質がある子供はとても珍しい。わたしは内心驚きながらも、目の前の状況に集中する。
――魔法の痕跡に気付いた!?この子たち、どうしよう?
魔法界のルールでは、魔法を目撃した一般人に対しては二つの選択肢しかない。記憶を消すか、魔法関係の仕事に就かせるか。魔法評議会のルールはそうなっている。前者は手っ取り早いが、他の記憶に影響する可能性もあるし、何と言っても寂しい解決法だ。後者なら、彼らもわたし達の世界を知ることができる。
わたしは二人の様子をさらに観察した。特に優斗くんの目の輝きと、魔法の痕跡を感じ取った素質に、わたしは何か可能性を感じた。わたしの使命は魔法界と人間界の橋渡し。そして今、目の前にいる二人の高校生も、その架け橋の一部になれるかもしれない。そう思うと、心が決まった。
――この出会いは偶然じゃなくて、何か意味があるのかもしれない。
「ここは話せる場所じゃないから、良かったら事務所に来ない?」
できるだけ柔らかい声で提案してみた。空を見上げると、夕日が空を赤く染め始めていて、このまま路上で長話するのもよくない。それに、魔法を見てしまった彼らに必要な手続きもある。
「おい、本当に良いのか?相手は今日知り合ったばかりの高校生だぞ。ちゃんと考えたのか?それに、連れて行くってことはアレだろ?高校生に務まるのか?」
拓人さんが小声で問いかけてきた。
「うーん、ちょっと勢いもあるかもしれないけど、そのままにはしておけないじゃん?それにこの仕事に興味持ってくれてるよ?」
「仕事じゃなくて千秋の魔法に興味を持ってるだけに見えたけどな。それに、片方は警戒してるぞ」
「まあ何とかなるって。私の勘がこっちに引き込めーって言ってるの」
「あてにならねぇ……」
こそこそした会話を終えて、わたしは期待に満ちた笑顔で改めて二人に誘いかけた。
「さあ、行こうか!」
「はい!」
優斗くんは、まるで冒険に誘われたかのように目を輝かせて即答した。その無邪気さに思わず微笑んでしまう。一方、茜ちゃんは明らかに警戒心を解いていない。賢明な子だな、と内心感心した。
「大丈夫、変なことするつもりはないから」
わたしは茜ちゃんの不安を和らげようと微笑みかけた。彼女の知的な瞳には、まだ疑いの色が残っている。
「変なことって……」
茜ちゃんが訝しげに言い、わたしは一瞬言葉に詰まった。
――うーん、だいぶん警戒されちゃってるなぁ。
「いや、何を考えたか知らないけど、怖い事とか痛い事とかしないから。ただ、見ちゃったものについては説明しないといけないし……」
わたしの言葉に、茜ちゃんは優斗の方を振り返り、小声で相談を始めた。
「優斗、本当に行くの?」
「だって、さっきのは絶対魔法だったよ!すごく興味ある!」
優斗くんの目は輝きを増していた。茜ちゃんはため息をついた。優斗くんのこういう好奇心は昔から止められなかったのだろう。長い付き合いが感じられる自然なやりとりに、わたしは少し羨ましさを覚えた。
――いいなぁ、こういうの。ちょっと憧れちゃう。年取った証拠かなぁ。いや弱気になっちゃダメだ。わたしだってまだギリギリ20代前半の乙女なんだから。
「分かりました。でも変だと思ったらすぐ帰りますからね」
「ああ、こちらとしては助かるよ」
わたしの代わりに拓人さんが皮肉めいた口調で答えた。彼はいつも最初はこんな調子だ。でも、その厳しい態度の奥に、彼なりの心配が隠されていることをわたしは知っている。
わたし達がこれから事務所に向かおうとしているとき、ふと空き地の塀の上に黒猫が座っているのに気づいた。その黒猫はじっとわたし達の様子を観察していたようだ。嫌な予感がした。
そんなわたし達の様子を確認すると、黒猫は不機嫌そうにバタバタと尻尾を振り、足音も立てずに塀の陰に消えていった。
――あれは、ひょっとして……。
こうして、春の柔らかな風が吹き抜ける空き地で、わたし達の不思議な出会いが始まった。この出会いが、これからわたし達をどんな冒険へと導いていくのか。まだ誰も知らない。
――でも大丈夫。きっとこの出会いには意味があるはず。
魔法界と人間界の橋渡し役として、新しい仲間と共に一歩を踏み出す。そんな期待を胸に、わたしは二人の高校生を事務所へと案内することにした。夕暮れの街を歩きながら、わたしの心はすでに次の冒険へと向かっていた。