その街の名は朧月市(おぼろづきし)。月がおぼろにかすむがごとく、輪郭の曖昧な、どこか捉えどころのない都市だ。
初めてこの街に足を踏み入れた者は、例外なく、五感を覆う独特の感覚に息をのむ。それは視覚的な奇妙さだけではない。耳に届く音の質感が、他のどの場所とも決定的に異なるのだ。車の往来、列車の発着、広場を行き交う人々の喧騒――そうした音源は確かに存在する。だが、 音が壁にぶつかり、建物に反響して空間を満たすはずの複雑な倍音や残響が、まるで分厚い吸音材に吸い取られたかのように希薄なのだ。音は発生するそばから街の空気に溶けるように消え、その結果、 妙に「近い」音だけがクリアに、それでいて 奥行きなく鼓膜に届く。それは深い霧に閉ざされた森の中、あるいは 防音設備が施されたスタジオにも似た、奇妙な静けさだった。街全体が巨大な耳栓をしているような感覚。それが朧月市の揺るがぬ日常の風景であり、空気だった。
この不可解な音響特性の根源は、やがて訪れる者の視覚にも明らかになる。この街には、光をそのまま跳ね返す平面、すなわち「鏡」が存在しないのだ。
あらゆる建築物の窓は、ことごとく すりガラスや型板ガラス、もしくは 透過率を緻密に調整された特殊な樹脂パネルで覆われている。陽光は柔らかく拡散されて室内を照らすものの、外の景色や自分の姿を鮮明に映し出すことは決してない。ガラス張りの高層ビルが林立する現代都市の風景を知る者にとっては、あまりにも異様な光景だろう。水路や噴水も多いが、その水面は常に微細な超音波で揺らされているのか、それとも 界面活性剤のようなものが混ぜられているのか、風のない日ですらさざ波が絶えず、像を結ぶことを頑なに拒んでいる。人々が覗き込む池の水面も、底の泥が掻き混ぜられたかのように常に濁っていた。
無論、 生活に密着した鏡も同様だ。店舗のショーウィンドウはアクリルやポリカーボネート製ではあるが、表面には微細な凹凸加工が施され、中の商品をぼんやりと見せるのみ。自動車には、本来バックミラーやサイドミラーがあるべき場所に、高性能な光学センサーと連動したマットな質感の液晶モニターが設置されている。それは後方や側方の状況を「映像として表示」する装置であって、光を物理的に「反射」するものではない。そのモニターですら、輝度やコントラストは意図的に抑えられ、ぎらつきやまぶしさは徹底的に排除されている。
家庭の中に目を向けても、洗面台に鏡はなく、化粧台という概念も希薄だ。美容院や理髪店に巨大な姿見はなく、客は施術者の手先の感覚と、周囲の客や店員の言葉を頼りに髪型を整える。ハンドバッグに忍ばせるコンパクトミラーや、服屋の試着室の全身鏡に至っては、この街では伝説上の産物でしかない。光沢を持つ金属製品ですら、宝飾品や一部の装飾を除けば、意図的に避けられているかのように少ない。食器は陶器や木製、あるいは マット加工されたステンレスが主流だ。ピカピカに磨き上げられたものは、奇妙なほどに存在しない。朧月市の住民は、己の姿を正確に知覚する手段を完全に奪われている、そう言っても過言ではなかった。
それでも 彼らは、その欠落を悲嘆したり、不便に感じたりする様子はあまりない。生まれた瞬間から、それが世界の標準だったからだ。彼らにとって、自分の顔や全身の姿を直接見るという行為は、空を飛ぶのと同じくらい非現実的な概念なのかもしれない。
己の姿が見えない代償として、朧月市の住民は他の感覚を鋭敏に発達させてきた。特に触覚と聴覚、そして 他者への観察眼だ。彼らは、互いの服装の乱れや髪のほつれを、まるで自分のことのように敏感に察知し、ごく自然に指摘し合う。
「ミナミ、右の襟が少し折れてるわよ。直してあげる」
「あら本当? ありがとう、助かるわ。…背中のところに、何か糸くずが付いてないかしら?」
「ええ、小さな白いのが。はい、取れたわよ」
親しい間柄であれば、言葉と同時に手が動き、相手の身なりを整えるのが当たり前の光景だ。それは信頼と相互扶助に基づいた、この街ならではのコミュニケーション様式だった。自分の姿を確認できないという共通の条件が、人々を緩やかに、しかし 確実に結びつけているかのようだ。
視覚的な自己認識が欠如しているものの、美意識が存在しないわけではない。むしろ見えないからこそ、それは 内面化され、研ぎ澄まされ、独特の様式美へと昇華していった。ファッションは、シルエットの美しさ、素材のテクスチャー、歩行時のドレープ(布の揺らぎ)といった、視覚以外の感覚にも訴えかける要素が極度に重視される。大胆で印象的な色使いも好まれるが、これは 他者に自分の存在を明確に示すための記号としての意味合いが強い。細かい柄や精緻な刺繍のような、鏡がなければ自己満足に終わりかねないディテールは廃れ、代わりに 体型を補正し、所作を美しく見せるためのカッティング技術が高度に発展した。
髪型も同様だ。手櫛で簡単にまとまり、頭の形に自然に沿うような、手触りの良いスタイルが好まれる。ワックスやスプレーで固めるような、鏡を見ながらでなければ維持が難しいスタイルは一般的ではない。化粧は、肌のキメを整え、健康的な血色を与えることに重点が置かれる。ファンデーションやチークは存在するものの、アイラインやマスカラ、リップライナーといった、鏡を用いた精密な作業を必要とするものはほとんど見られない。その代わりに 香りの文化が驚くほど豊かに花開いた。すれ違う人々から漂う、繊細かつ複雑に調合された香りは、単なる嗜好品ではない。それは 個人のアイデンティティ、感情の状態、社会的背景までも示唆する、高度な非言語的コミュニケーションツールとして機能していた。朧月市の空気は、無数の香りの粒子が織りなす、見えないタペストリーのようでもあった。
だが、根源的な問いは残る。なぜ、朧月市から鏡は消え去ったのか?
その起源を正確に語れる者は、現代には一人もいない。歴史の闇に葬られたのか、あるいは 意図的に忘れ去られたのか。わずかに残された断片的な伝承や、古老たちの間で囁かれる迷信めいた物語が、かつてこの街に存在したであろう「何か」の輪郭を朧げに浮かび上がらせるのみだ。
ある伝説によれば、この街はかつて「水鏡の都(みかがみのみやこ)」と称えられ、街中に張り巡らされた水路の水面に映る四季折々の風景と、神業とも 称された鏡作りの職人たちの技によって、比類なき繁栄を謳歌していたという。ところが、その栄華に驕った為政者が、天をも映し出す巨大な鏡――天鏡(てんきょう)――の建造を命じた。完成した天鏡が初めて太陽の光を反射した瞬間、そこに映し出されたのは天上の風景ではなく、名状しがたい恐るべき「何か」の姿だった。その「何か」の怒りに触れたのか、天鏡は粉々に砕け散り、破片が降り注いだ街全体から、あらゆる「反射」する力が永遠に失われた、と。
また 別の伝説では、人の心の深淵に潜む、本人すら気づかない欲望や憎悪、すなわち「心の影」を映し出す、呪われた魔鏡(まきょう)がこの街で密かに作られた、と語られる。その魔鏡は所有者の心を蝕み、やがて街全体を狂気と破滅に導く力を持っていた。危機を察知した賢者たちが、自らの命と引き換えに街中のすべての鏡を破壊し、魔鏡の製法もろとも鏡を作る技術そのものを未来永劫にわたって封印したのだ、と。
さらに 異説もある。鏡は本来、この世と異界を繋ぐ「境界(きょうがい)」であり、「門(もん)」としての性質を帯びていたのだ、という。かつて朧月市の鏡は、あまりにも清冽に、そして 強力に異界と繋がってしまった。豊穣や恩恵をもたらす存在だけでなく、混沌や災厄を振りまく異形の者たちをも呼び寄せてしまったのだ。街が魑魅魍魎(ちみもうりょう)に蹂躙されかける寸前、当時の守護者たちは苦渋の決断として街からすべての鏡を抹消し、異界への門を永久に閉ざしたのだ、と。
これらの伝説は、それぞれ細部は異なるが、共通して「鏡がもたらす災厄」を示唆している。しかし、その核心に触れようとすると語り部の口は重くなり、言葉は不明瞭に、記憶そのものすら 霞がかかったように曖昧になるのだった。まるで街に深く根付いた無意識の検閲システムが作動するかのように。タブー。それは 単なる古い言い伝えなどではない。街の存立に関わる強力な呪縛であり、一種の自己保存本能として、住民たちの精神の最深層に刻み込まれているのだ。「鏡」という言葉自体が不吉な響きを帯び、公の場で口にすることさえ憚られるような空気が街全体を覆っていた。人々は反射という現象そのものを忘却の彼方に追いやり、反射のない世界こそが唯一の現実であるかのように振る舞い、生きていた。
水上 蓮(みずかみ れん)は、そんな奇妙な静寂と忘却に包まれた朧月市で、二十回目の誕生日を間近に控えていた。市立図書館の地下深くにある古文書修復室。それが 彼の職場であり、世界のほとんどすべてだった。
埃と古紙、そして 微かな黴の匂いが混じり合う独特の空気が満ちるその場所は、地上とは時間の流れが違うかのように静謐さに満ちていた。そびえ立つ書架には、羊皮紙に書かれた中世の写本、虫損の激しい江戸時代の和綴じ本、変色して丸まった古地図、作者不明の奇妙な寓話が記された私家本などが、永い眠りについている。蓮の仕事は、これらの失われゆく過去の断片を未来へと繋ぐこと。破れたページを気の遠くなるような精密さで補修し、脆くなった紙を強化し、消えかけたインクの文字を特殊な薬品や赤外線撮影技術を駆使して判読する。それは、途方もない集中力と無限とも思える忍耐力を要求される、孤独な作業だった。
だが、蓮はこの仕事に没頭するのが好きだった。修復に集中している間は、外の世界のことも、自分自身の輪郭さえも忘れることができたからだ。古文書に残されたインクの染みや、製本に使われた糸の一本一本に触れていると、かつてこれを書き、読み、所有していたであろう人々の息遣いが、時を超えて伝わってくるような気がした。とりわけ 彼が心を奪われたのは、彩色された挿絵が多く含まれる装飾写本や、錬金術や占星術に関すると思われる不可解な図版が描かれた書物だった。それらの絵の中には、朧月市の現実からは想像もできない鮮やかな色彩の洪水や、緻密で眩暈がするほど複雑な模様、そして ごく稀にではあるが、「反射」そのものを描いたかのような表現が見受けられた。夜の湖面に映る月光、磨き上げられた盾に映る騎士の顔、水晶玉の中に揺らめく未来のビジョン――。もちろん、それらは写実的な描写ではなく、様式化された、もしくは 象徴的な表現に過ぎない。それでも、蓮はそうした図像に出会うたびに、心の奥底に存在する、普段は意識することのない空洞が微かに共鳴するのを感じずにはいられなかった。見たことのないもの、失われたとされるものへの、説明のつかない渇望のような感覚。
「師匠、この写本の挿絵なんですけど、ちょっと気になって」
ある日の昼下がり、蓮は作業台に広げた分厚く重い革装丁の書物から顔を上げ、隣で破損した地図の補強作業を行っていた老修復師、如月(きさらぎ)に声をかけた。如月は、白髪を後ろで無造作に束ね、修復用の拡大鏡付き眼鏡をかけた、仙人のような風格を持つ老人だ。この修復室の主であり、蓮にとっては師匠であり、そして 朧月市の語られざる歴史について、誰よりも深く知る(あるいは、知っていることをひた隠しにしている)人物だった。
「ん? どれだね、蓮くん」
如月は、虫眼鏡のようなレンズを目元から外し、蓮が指し示す箇所に、皺の刻まれた目を近づけた。それは中世ヨーロッパで描かれたと思われる精緻なミニアチュール(細密画)だった。星が降るような夜空の下、静謐な湖のほとりに一人の美しい女性が佇んでいる。彼女は何かを探すように、あるいは 何かに見入るように、わずかに身をかがめて水面を見つめている。そして、その黒々とした湖の水面には、驚くほど鮮明に、寸分違わぬ女性の姿と、頭上に輝く満月、そして満天の星々が、まるで鏡のように映り込んでいたのだ。その描写は、朧月市の濁った水面しか知らない蓮にとって、衝撃的なほどにクリアで、神秘的だった。
「…こんなに、くっきりと『映って』いる絵は、この図書館でもほとんど見たことがありません。まるで、本当に…鏡のようです」
蓮が、無意識のうちに禁句となっていた「鏡」という言葉を発した瞬間、修復室の空気が凍りついた。如月の表情から穏やかな老人の面影が消え、まるで鋭利な刃物のような、厳しい光が目に宿った。
「蓮くん」
その声は低く静かだったが、有無を言わさぬ重みがあった。
「その言葉は、この街では軽々しく口にするものではない。たとえ古文書の中の話であってもだ」
「え…あ…! も、申し訳ありません、師匠!」
蓮は、師の予期せぬ厳しい反応に全身が強張るのを感じ、慌てて頭を下げた。如月はしばし沈黙した後、ふぅ、と深く長い息を吐き、その息と共にいくらか表情を和らげた。だが、その瞳の奥には依然として警戒の色が残っていた。
「…いや、すまない。強く言い過ぎた。だがな、蓮くん、言葉には力がある。特に忘れられた言葉、封じられた言葉には、時として我々の想像を超える力が宿るものだ」
如月は眼鏡をかけ直し、指先でそっと挿絵に触れた。
「この写本が描かれた時代、描かれた場所では、おそらく世界は『ありのまま』を映し返していただろう。光も、影も、真実も、偽りも。水面は空を映し、磨かれた金属は人の顔を映し、そして 人の手で作られた『鏡』は、魂の奥底までも映し出したのかもしれん」
「魂の奥底…ですか?」
「ああ。我々が普段、目を背けているもの、認めたくない自分自身の姿、心の内に秘めた闇。鏡はそれらを容赦なく暴き出す。そしてな…」
如月は声を潜め、まるで壁に耳があるのを警戒するかのように周囲を見回した。
「映し出されるのは、自分自身だけとは限らない。鏡の向こう側…別の次元、別の存在が、こちらを覗き込み、時には干渉してくることもある、と…古い言い伝えではそうなっている。だからこそ、この街は…」
彼はそこまで言うと、再び口を閉ざした。これ以上語ることは許されない、とでも言うように。地下の修復室の静寂が、先ほどまでとは比較にならないほど重く、深く感じられた。壁の染みや書物の間に積もった埃までが、息を潜めて彼の言葉の続きを待っているかのようだ。
「…すまん、また古い話をしてしまった。忘れてくれ。さ、仕事に戻ろう」
如月は、努めて明るい声を作り自身の作業台に向き直った。しかし、その横顔に浮かぶ深い憂慮とかすかな恐怖の色を、蓮は見逃さなかった。師匠は何を知っているのだろう? なぜ鏡をそれほどまでに恐れるのだろう? そして、この朧月市が「反射」を捨て去った本当の理由は何なのか? 蓮の胸の中で、疑問と好奇心が危険なほどに膨らんでいくのを感じていた。
それから数週間が過ぎた。蓮は努めて普段通りに仕事をこなしていたが、「鏡」という言葉と師匠のあの時の表情が頭から離れなかった。古文書を修復する指先は正確に動いているものの、意識の一部は常に失われた「反射」の世界を彷徨っていた。
そんなある日、蓮は館長から、通常業務とは別に特別な任務を与えられた。それは、図書館の地下書庫の中でも最も奥深く、厳重に封印された一角から数十年ぶりに発見されたという、奇妙な木箱の調査と修復だった。
蓮が対面したその木箱は、異様な存在感を放っていた。一辺が三十センチほどの立方体。素材は、まるで夜の闇そのものを削り出したかのような、艶のない漆黒の木材で、非常に硬く、そして 驚くほど冷たい。表面全体には複雑怪奇な紋様が、白金色に輝く極細の金属線で象嵌(ぞうがん)されていた。その紋様は、一見すると古代の天球儀に描かれた星座の配置図のようにも、あるいは 錬金術の秘儀に用いられる記号の羅列のようにも見えたが、注意深く観察すると、どの既知の体系とも一致しない独自の法則性を持っているように思われた。見る角度によって紋様が蠢き、形を変えるような奇妙な錯視効果がある。そして何より 不可解なのは、その木箱には蓋らしきものも継ぎ目も鍵穴さえも見当たらないことだった。完全に閉じられた、密閉された立方体。
「記録によれば、少なくとも半世紀以上、誰もこの箱に触れた者はいないらしい。由来も不明。中身も不明。ただ、一つだけ、漠然とした、しかし 強い警告のような言い伝えが残っているそうだ。『決して開けるな。決してその紋様に心を奪われるな』と」
館長は、どこか不安げな、しかし 学究的な好奇心も隠せないといった複雑な表情で言った。
「だが、正体不明のまま放置し、朽ちさせるわけにもいかないだろう。君の修復技術と古文書解読の知識を見込んで、まずはこの箱の材質、年代、そして 表面の紋様の意味を突き止めてほしい。外装のクリーニングと保護も頼む。ただし、くれぐれも、無理にこじ開けようなどとは考えないことだ。何が起こるか、我々には全く想像がつかないのだから」
蓮は、その黒い木箱から放たれる尋常ならざるプレッシャーに、背筋が凍るような感覚を覚えていた。それは 単なる古い工芸品ではない。何か強大な意志、あるいは 古代の呪詛のようなものが、この箱の中に封じ込められている。そんな非科学的な直感が彼の全身を貫いた。白金色の紋様は、見つめていると意識が吸い寄せられ、眩暈と共に軽い吐き気を催すほど異様な力を放っていた。
蓮は、他の職員たちの好奇と不安が入り混じった視線を感じながら、慎重にその木箱を自分の作業スペースがある修復室の奥へと運び込んだ。そして 深呼吸を一つして、調査と修復作業に取り掛かった。
まずは柔らかい布と特殊なクリーナーを使い、箱の表面に積もった数十年の埃と汚れを、紋様を傷つけないよう細心の注意を払いながら拭き取っていく。次に、木材の微細な亀裂や欠損部分を、同質の素材(もちろん 完全には一致しないが)と専用の接着剤で補修していく。そして 最も重要かつ難解な作業、表面の紋様の解読に取り掛かった。高解像度のカメラで全体と部分を撮影し、スケッチブックに正確に模写し、パターンや繰り返し、対称性などを分析していく。図書館のデータベースにある古今東西の記号、紋章、文字体系と比較してみるが、どれ一つとして一致するものはない。それは、まるでこの世界の法則から外れた場所で生まれたかのような、異質なデザインだった。
何時間、いや、何日そうしていただろうか。蓮は木箱の紋様と向き合ううちに、奇妙な精神状態に陥っていった。紋様が単なる静的なデザインではなく、まるで複雑な生命体のように、あるいは 星々が巡る宇宙のように、絶えず微細に変化し蠢いているように感じられるのだ。視線を集中させると、白金色の線が自ら光を発し始め、その光が複雑なパターンを描きながら流転し、立体的な構造を立ち上げてくるような錯覚…。意識が朦朧とし、自分が箱を調べているのか、箱に調べられているのか、判然としなくなってくる。
(集中しろ…疲れているだけだ…これはただの古い箱だ…)
蓮は激しく頭を振り、目頭を押さえて意識を現実に引き戻そうとした。そして 再び木箱に手を伸ばし、特に複雑な紋様が密集している一角に指先を触れた。その瞬間だった。
パチッ!!
静電気よりも鋭く、しかし小さな放電音が響き、蓮の指先にまるで針で刺されたかのような鋭い痛みが走った。同時に、彼が触れていた部分の白金色の線が、眩いばかりの閃光を放った!
「うわっ!」
思わず手を引っ込めた蓮が息をのんで見たのは、信じがたい、そして この朧月市においては絶対的にありえないはずの光景だった。
閃光が収まった後、木箱の表面、蓮が触れた箇所を中心にして、直径五センチほどの完璧な円形の「鏡」が出現していたのだ。
それは、この街のどんな窓ガラスとも、どんな水面とも、どんな金属とも違う、真の鏡だった。曇りも歪みも一切ない、吸い込まれそうなほど深い光沢を湛えた漆黒の円。それは まるで夜空から零れ落ちた純粋な暗闇の欠片を、完璧に磨き上げて嵌め込んだかのようだった。その表面は、周囲の薄暗い修復室の光景を驚くほど鮮明に、しかし どこか不吉なほど冷たく映し出していた。
蓮は呼吸を忘れた。全身の血が逆流し、心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動する。指先はまだ痺れ、耳の奥ではキーンという高い音が鳴り続けている。恐怖。それは 間違いなく恐怖だった。この街で生まれ育った者にとって、「鏡」の出現は世界の法則が崩壊するのを目撃するにも等しい異常事態だ。しかし 恐怖と同時に、それを遥かに凌駕するほどの抗いがたい好奇心が、蓮の全身を支配していた。知りたい。見たい。このありえないものが映し出すものを、確かめずにはいられない。
震える指先で、まるで禁断の果実に手を伸ばすかのように、蓮はゆっくりとその漆黒の円形の鏡を覗き込んだ。
そこにあったのは、見知ったようでいて、全く見慣れない一人の青年の顔だった。
いや、それは疑いようもなく水上蓮、彼自身の顔に違いなかった。やや細面で通った鼻筋。意志が強そうに結ばれた薄い唇。色素の薄い茶色がかった瞳は、今、鏡の出現という信じがたい事態に、驚愕と困惑に見開かれている。額にかかった黒い癖のある前髪。子供の頃、今は亡き祖母に「お前は利発そうだけど、ちょいと意地っ張りな顔をしてるねぇ」と、その皺くちゃの手で頬を撫でられた記憶が不意に蘇った。あの時の感触でしか知らなかった自分の顔の輪郭が、今、寸分違わぬ「視覚情報」として目の前にある。
それは、蓮の二十年の人生において最も衝撃的な瞬間だったかもしれない。自己という、常に曖昧で捉えどころのなかった存在が、初めて明確な像を結び、実体を持ったような感覚。自分が、他ならぬこの「顔」を持つ人間なのだという揺るぎない、しかし どこか他人事のような認識。感動、戸惑い、そして 言葉では言い表せない根源的な違和感。自分であって、自分でないような…。
(これが…俺の顔…俺自身なのか…?)
蓮は、まるで初めて出会った他人の顔を吟味するかのように、鏡の中の自分を食い入るように見つめた。自分の瞳の、そのさらに奥にあるはずの「何か」を確かめようとした、まさにその刹那。
鏡の中の「蓮」の表情が、不意に変化した。
驚きと困惑が消え、別の感情が急速に浮かび上がってきた。それは恐怖か? 絶望か? それとも、何かに対する必死の懇願か…?
そして 蓮が息をのむ間もなく、鏡の中の「彼」の背後に、もう一つの影が現れた。
最初は陽炎か水面の揺らぎのように不定形だった影が、急速に人の形を成していく。長い黒髪。白い、まるで死に装束のような着物。それは、儚げで、しかし 異様な存在感を放つ一人の少女の姿だった。少女は、鏡の中から現実の蓮に向かって何かを必死に訴えかけている。声は聞こえない。しかし その蒼白な顔は苦痛に歪み、目は恐怖に見開かれ、唇は意味のない音を紡いでいる。助けて。その言葉が声なき声となって、蓮の脳内に直接響いてくるようだった。
(だ…誰だ!? 一体、何が…!?)
蓮が混乱の極みに達した、その時。少女の姿が、掻き消すようにフッと消えた。代わって 鏡の深淵から、ぞわりと全身の肌が粟立つような、絶対的な冷気と悪意の塊が這い上がってきた。
それは、漆黒の、しかし 形を持たない「何か」。影とも闇とも違う、もっと根源的な「無」としか言いようのない存在。それは、まるで鏡という界面を通してこちら側の世界を侵食しようとしているかのように、ゆっくりと、しかし 止めようもなく、鏡の表面いっぱいに広がってくる。
蓮は、完全に体を動かすことができなかった。蛇に睨まれた蛙のように、ただその圧倒的な恐怖の顕現を見つめるしかなかった。脳が、魂が、本能のすべてが叫んでいた。見るな! 目を閉じろ! 逃げろ!
しかし、間に合わなかった。
その定形のない「虚(うつろ)」が円形の鏡の縁にまで達し、溢れ出そうとした瞬間、蓮の意識を、脳髄を直接鷲掴みにされるような耐え難い激痛と、鼓膜を突き破るような高周波のノイズが襲った。
『―――アアアァァァ…………キ……ル……ナ……』
それは 人の声ではなかった。絶望と嘲笑と、そして 永劫の孤独が混じり合ったような、おぞましい響き。蓮の世界は急速に暗転していく。
床に崩れ落ちるのか、あるいは 鏡の中の底なしの暗黒に引きずり込まれていくのか、その境界線すら曖昧になるほどの意識の混濁の中で、蓮の耳に最後に届いたのは、すぐそばで響いた師である如月の、切羽詰まった、そして 絶望的な響きを帯びた声だった。
「…馬鹿な…! 早すぎる…! やはり、目覚めてしまったというのか…! 封印が…『虚(うつろ)』が…!」
そこで、蓮の意識は完全に途切れた。
・・・・・・
絶対的な静寂が、再び古文書修復室を支配した。
床に倒れた蓮の傍らには、あの黒檀の木箱がまるで何事もなかったかのように鎮座している。表面の、蓮が触れた箇所にあったはずの漆黒の鏡は跡形もなく消え失せ、元の複雑な白金色の紋様に戻っていた。だが、以前とは比較にならないほど禍々しい、不吉なオーラを放っているように見える。まるで永い眠りから覚めた、飢えた獣のように。
そして、意識を失った蓮のすぐそばの、冷たい石の床の上には、一枚の、羽根のように軽い、しかし この世のどんな黒よりも深く濃い、奇妙な形の「染み」が残されていた。それは 光を全く反射せず、まるで空間に空いた小さな「穴」のように見えた。朧月市の、光が満遍なく拡散する環境下ではありえないほどの、絶対的な暗黒。
鏡のない街、朧月市。
その永い間保たれてきた、巧妙で脆い静謐の均衡は、今、破られた。