目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

11_胎動

その眠りは、深海に沈むような静けさと、激しい嵐の後の凪(なぎ)のような脱力感を伴っていた。水上蓮(みずかみ れん)の意識がゆっくりと浮上したとき、最初に捉えたのは重力そのものの確かな感触だった。薄い布団越しの固いベッド、自らの身体の重み、穏やかに上下する胸の動き。それは彼が時間跳躍する前の、未来の朧月市(おぼろづきし)での日常を思い起こさせた。同時に、鏡界回廊(きょうかいかいろう)という非物質的な情報次元から、生々しい現実世界へと引き戻されたことの証左でもあった。


次に蘇ったのは嗅覚。古い紙とインクの匂い、微かな薬品臭、壁土に染みついたような埃(ほこり)の気配。疑いようもなく、そこは市立図書館地下の古文書修復室だった。最後に視覚。重い瞼(まぶた)を押し上げると、見慣れた天井が広がる。窓のない部屋の薄闇に、卓上ランプの温かいオレンジ色の光が唯一の光源として灯り、壁際に積み上げられた書物の背表紙や、修復途中の古文書が広がる作業台をぼんやりと照らし出していた。


(戻ってきた……のか……?)


脳裏に残る最後の記憶は、朧月市上空での『終焉の影』――天城朔弥(あまぎ さくや)と『虚(うつろ)』の融合体――との激突。自らの『界響(かいきょう)』と『鏡の意志』から流れ込む虹色の力を合わせ、辛うじてそれを浄化・消滅させた瞬間。そして、地上へと降下する中で安堵と共に意識を手放したことだった。


「……師匠?」


掠れた声で呼びかけると、ランプの光の下で分厚い書物を読んでいた人影が顔を上げた。若き日の如月(きさらぎ)だ。蓮を見つめるその瞳には、安堵の色に加えて、数日前とは比較にならない深みが宿る。かつての神経質さとは違う、静かで揺るぎない落ち着きがあった。あの最終決戦で、彼もまた街中の鏡を通じて『鏡の意志』と接続し、守人として大きな覚醒を遂げたのだろう。


「目が覚めたか、蓮くん。丸三日、眠り続けていたぞ」


若き師匠の声も、以前より低く落ち着いた響きを帯びていた。それは未来の蓮が知る師の声に、一歩近づいたようにも感じられた。


「三日も……? 皆さんは? 図書館は?」


蓮は慌てて上半身を起こした。全身の倦怠感は残るものの、驚くほど力は戻っている。『界響』を発動した反動や、『鏡の意志』のエネルギーを受け止めた負荷は大きかったはずだが、目覚めは悪くない。むしろ、魂の奥底で何かがクリアになり、自身の力がより深く身体に馴染んだ感覚すらあった。


「心配いらん」 如月は静かに本を閉じた。「君と私が駆けつけたおかげで、図書館の職員や来館者に死者は出なかった。負傷者も快方に向かっている。建物や街の被害は甚大だったが、それも『大規模な原因不明の自然災害』――おそらくは局地的なプラズマ現象か何か、という尤(もっと)もらしい説明と共に処理されつつある。無論、あの光景を目撃した者たちが全てを忘れるわけではない。だが、この街の人々は不都合な真実から目を逸らすのに慣れているからな」


彼の言葉には皮肉と諦観が滲んでいた。それは未来の師に通じる響きであり、蓮は少し胸が痛む。


「朔弥……天城朔弥が引き起こした災厄は、一応の終息を見たと言っていいだろう。彼自身も、あの後完全に消滅したようだ。我々の感知能力でも、もはやその痕跡を追うことはできない」


蓮は空に浮かぶ終焉の影、その中にある朔弥の歪んだ顔を思い出した。最期に見せた、あの僅かな悔恨にも似た表情。彼はただの悪だったのだろうか?


「師匠、朔弥は完全に……? 彼が利用しようとしていた『虚』の力も、消えたのでしょうか?」


蓮の問いに、如月の表情が再び険しくなった。


「……それが問題なのだ」 彼は難しい顔で首を振った。「朔弥の魂は消えた。しかし、彼が呼び寄せ、利用しようとした『虚』の力の残滓……いや、あれは残滓というより、もっと質の悪いものだ。君があの時、『鏡の意志』のコア内部で感じたことは確かなのか? 『虚』の『種子』のようなものだと?」


「はい」 蓮は頷いた。「ユキさん…いえ、『鏡の意志』がそう告げていました。朔弥が最終手段として引き寄せたのは、ただの『虚』のエネルギーではない。『虚』そのものがこの世界に根を張り、新たな侵食の起点とするため、より凝縮され、隠蔽された…まさしく『種子』だと」


コア内部での出来事が蘇る。法則の深淵に打ち込まれようとしていた『虚』のコード、ユキ/意志との対話、そして最後に託された言葉。


「『種子』はコアの浄化と朔弥の消滅で一時的に活動を停止し、隠蔽されている状態だそうです。どこにあるか、『鏡の意志』にも正確な場所は掴めない。それでも、放置すればいずれ必ず芽吹き、内部からこの世界を侵食し始める…朔弥のような個人のエゴによる支配とは違う、もっと根源的で静かな、だが止められない破滅が訪れるだろう、と…」


「静かな破滅……か」 如月は呻くように言った。「それこそ、我々一族が最も恐れてきた事態かもしれんな。大仰な侵略より、日常が少しずつ歪み、気づかぬうちに『無』へと変質していく……」


彼は窓のない修復室の壁を見つめ、深いため息をつく。すぐに気を取り直し、蓮へと視線を戻した。瞳には新たな決意が灯っていた。


「だが、嘆いてばかりもいられん。我々にはまだやるべきことがある。『鏡の意志』は、『種子』に対抗する手段について何か示唆していたのかね?」


「はい。『古代の鏡』、あるいは『鏡守』が遺したアーティファクトが必要だと。天城家の記録にあったかもしれません。あの地下研究室で襲われ、詳しく調べる時間がありませんでした」


「天城の地下研究室か…!」 若き如月は思い出したように立ち上がった。「そうか、あそこならば! 彼の研究日誌だけでなく、一族に伝わるより古い記録が残されている可能性が高い。すぐにあそこへ戻り、手がかりを探さねば!」


彼の行動力は以前にも増して高まっていた。それはおそらく、『鏡の意志』との接続で得た新たな力と使命感、そして未来から来た蓮という存在がもたらした切迫感によるものだろう。


二人は簡単な準備を整え、再び鏡ヶ池近くの天城家の屋敷を目指す。地下の研究室へと続く隠し扉は、以前蓮が開いたままのはずだ。


図書館を出て街へ出ると、そこには三日前とは明らかに異なる空気が流れていた。決戦の痕跡は迅速に撤去され、表向きの日常が戻りつつある。ただ、人々の表情には、以前にはなかった微かな不安や困惑の色が見て取れた。何より、街に溢れる『鏡』の輝きが変わっていた。


かつての「鏡のある街」は、単に光を反射する物質が多いだけの状態だった。しかし今は、全ての鏡が意志を持つかのように淡い光を帯び、互いに共鳴し合って見える。ショーウィンドウのガラス、車のボディ、水路の水面、人々の眼鏡のレンズ、街灯の金属部分……。それらが微かな光のネットワークを形成し、街全体を包み込んでいる。目に見える形で『鏡の意志』が街に偏在し、活性化している証拠なのだろう。


「……街が……生きているようだ」


蓮は呟いた。美しいと感じる一方、ある種の畏怖も覚える。この力が、本当に人類の味方であり続けるのか?


「『鏡の意志』は目覚めた。しかし、その性格はまだ定まっていないのだろう」 如月は周囲を観察しながら言った。「人々の意識や感情、そして我々のような力を持つ者の行動で、それは善にも悪にも、全く予測不能な方向へも成長していく可能性がある。我々の責任は、以前にも増して重くなったのかもしれんな」


彼の言葉は重い。蓮は自身の持つ『界響』の力と、この世界への影響力を改めて自覚し、身を引き締めた。


鏡ヶ池の屋敷に到着すると、予想通り結界は解かれており、地下への隠し扉も開いていた。再び足を踏み入れた地下研究室は、朔弥の気配もミラーアイの気配もなく、静まり返っている。壁一面の鏡も光を失い、普通の鏡に戻っていた。中央に鎮座する巨大な装置――『鏡の意志』覚醒のトリガーとなったもの――だけが、今も微かなエネルギーを発し続けていた。


「装置は停止させるべきでしょうか?」 蓮は尋ねた。


「いや、待て」 如月は装置に近づき、慎重に調べ始めた。「これは単なる増幅器ではないらしい。鏡界回廊との接続を安定させ、『鏡の意志』の顕現を調整するためのインターフェース…あるいは制御盤のような役割か。下手に止めれば、コアに悪影響を及ぼす危険がある。今はそのままにしておこう」


二人は手分けして、研究室内に残された資料を探し始めた。朔弥の日記は持ち去られていたが、壁際の棚や隠し引き出しから、羊皮紙の巻物、金属板に刻まれた図版、水晶板に記録された情報など、大量の古文書や研究データが見つかった。それらは『鏡守』一族に代々伝わる知識と朔弥自身の研究成果が混在しており、解読には相当な時間と労力を要しそうだった。


蓮と若き如月は、それぞれの知識と能力を総動員して解読作業に没頭した。蓮は未来の言語知識と『界響』による情報感知能力を、如月は一族の古い知識と古文書解読の経験を活かす。二人の連携は、時を超えた師弟という奇妙な関係ながらも、驚くほどスムーズに進展した。


数時間後、ついに核心に迫る記述を発見する。それは『虚の種子』に関する項目と、それに対抗するとされる二つのアーティファクトについてだった。


『……原初の「揺らぎ」、「虚」はその根源において種子を孕む。種子は時間と空間を超え、最も脆弱なる点、あるいは最も強い意志ある場所に根付く。覚醒せし種子は「虚無の樹」と化し、その枝葉は多元宇宙に広がり、全ての存在を静かに蝕む……』


「虚無の樹……なんと……」 若き如月は顔を青ざめさせた。「我々の伝承にも類似の概念はあったが、これほど具体的ではなかった。やはり『虚』は単なるエネルギーや現象ではない、意志ある侵食者なのだな……」


『種子の発芽を防ぎ、これを浄化しうる力は二つ。一つは「月涙(げつるい)の鏡」。月光の純粋なる精髄と、「意志」を持つ鏡の共鳴によってのみ創り出される、絶対的な浄化の光を放つ鏡。持ち主の魂を映し、その最も清らかな部分を増幅する。もう一つは「星霜(せいそう)の盾」。星々の運行と時の流れそのものを力とし、あらゆる侵食と改変から対象を守護する盾。持ち主の覚悟と繋がり、因果律をも歪める防御力を発揮する……』


二つのアーティファクト。月涙の鏡と星霜の盾。どちらか、あるいは両方が必要となるかもしれない。問題はその在り処だ。


『……両秘宝は「鏡守」初代が鍛え上げしもの。星霜の盾は永きに渡り天城家に秘蔵されたが、先の動乱期に喪われ、現在は行方知れず。月涙の鏡は、「水鏡の都」創生の際に鏡ヶ池の龍神に捧げられ、池の底、あるいは次元の狭間に眠ると伝わる……』


「星霜の盾は行方不明…月涙の鏡は鏡ヶ池の底か異次元に…」 蓮は呻いた。「手がかりが…漠然としすぎている」


「いや、そうでもないかもしれん」 若き如月がある古い図版を指差した。それは鏡ヶ池とその周辺を描いた地図のようだったが、地形と共に複雑な紋様やエネルギーの流れが書き込まれている。「通常の地図ではないな。鏡界回廊から見た、エネルギーの流脈図のようなものだろう。そして、ここ…池の中心の最も深い場所から、別の次元への『扉』が開く可能性が示唆されている。『水鏡の都』創生の龍神伝説…単なる作り話ではないのかもな。おそらく古代の強力な水霊か精霊が、池と鏡を守護しており、その存在と交信するか試練を乗り越えねば、鏡へはたどり着けないのだろう」


「龍神…あるいは水霊…」 蓮は『鏡の意志』と繋がった自らの『界響』が、鏡ヶ池に満ちる巨大なエネルギーに確かに反応していたことを思い出した。あれは単なる『意志』のエネルギーだけではなかったのかもしれない。


「決まりだな」 若き如月は顔を上げた。「次なる目標は、鏡ヶ池の深淵に挑み、『月涙の鏡』を手に入れることだ」


その決意を固めたまさにその時だった。


ピリリリリ……!


研究室の中央にある巨大な装置が、突如として甲高い警告音を発し始めた。装置に接続された水晶モニターに、朧月市の地図が映し出され、市内の複数箇所が赤い警告マークで点滅を始める。


「なんだ!?」


二人がモニターに駆け寄ると、警告マークは特定の場所に集中していた。学校、公園、デパート、そして以前虚獣が現れた図書館!


モニターには警告地点のリアルタイムのエネルギー反応が表示されていた。それは『虚』でもなく、ミラーアイでもない、歪で不安定な、しかし確実に増殖していく新たな種類の負のエネルギーだった。


「これは……!」 蓮は息をのんだ。「『鏡の意志』の覚醒による副作用か…? それとも、『虚の種子』がすでに影響を及ぼし始めているのか?」


その時、モニターに図書館の映像が映し出される。一見、平静を取り戻したかに見える図書館。ホールの中心、かつて大鏡があった空間に、陽炎のような歪みが生じている。その歪みの中から、人々の恐怖や不安を餌にするように、ゆっくりと黒い『染み』が広がっていく。


その染みは虚獣とは違った。物理的な実体を持たず、壁や床に広がる影のようだが、確実に空間を侵食し、触れた場所の「意味」や「記憶」を希薄化させているようだ。例えば書架に染みが広がれば、そこに収められていたはずの本の存在感が薄れ、誰もその本を思い出せなくなる、といった具合に。


『警告……「虚の種子」の活性化を確認……副次的汚染事象、「忘却の影(シャドウ・オブ・フォーゲット)」の出現を確認……増殖速度、予測以上……』


装置から感情のない合成音声が響く。天城朔弥が仕込んでいた監視システムか、それとも『鏡の意志』自身が発している警告か。


「忘却の影……? そんなものが…!」 若き如月は愕然とした。物理的な破壊よりも、ある意味で恐ろしい。存在そのものを静かに消し去っていく侵食。


「師匠、早く図書館へ戻らないと!」


二人は急いで地下研究室を飛び出した。だが、彼らの目の前には、想像以上の速さで変容していく朧月市の姿があった。


街角の鏡、ショーウィンドウ、水面。それらは依然として『鏡の意志』の光を宿して輝くものの、同時にその表面に黒い『忘却の影』がまとわりつき始めている場所が出現している。人々はまだその異常に気づいていないようだが、街全体の活気が失われ、人々の表情から感情が薄れているような、不気味な均一化が進んでいるのを感じられた。


『鏡の意志』による活性化が、皮肉にも『虚の種子』の影響を受けやすくしているのか。二つの力が互いに干渉し合い、新たな脅威を生み出しているのか。


「急がねば!」


二人は走り出した。忘却の影が図書館を完全に飲み込む前に、何としてもその進行を食い止めねばならない。そして『月涙の鏡』の探索という、更なる困難な使命も待っている。


道すがら、蓮はふとショーウィンドウに映った自分の顔を見た。十歳の少年。瞳の奥には、未来を知る者としての覚悟と、世界の根源に触れたことによる人ならざる深みが宿る。彼の視線の先、ショーウィンドウの奥、薄暗い店内の一角に、一瞬だけ、白い着物を着た別の『少女』の姿が見えた気がした。ユキではない。もっと幼く、しかし底知れないほどの哀しみを湛えた瞳の少女。


(今の、は……?)


蓮が目を凝らした瞬間、少女の姿は消え、ショーウィンドウの表面に、黒い『忘却の影』が蜘蛛の巣のように広がった。


『虚の種子』の脅威、『忘却の影』の出現、ミラーアイの監視、そして謎の少女の幻影。未来を変えるための戦いは、さらに複雑な様相を呈し始めていた。蓮は走りながら、これから立ち向かうべき幾多の困難に、改めて身を引き締める。彼の持つ『界響』の力は、この混沌とした世界に真の調和をもたらすことができるだろうか。鏡のある街の運命は、依然として予断を許さない。忘却の影との対峙、鏡ヶ池の深淵への挑戦が始まることになる。困難な選択が待ち受けている予感が、街全体に満ちる鏡面の残響のように、蓮の魂に深く響いていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?