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16_聖戦歌

朧月市(おぼろづきし)の空は、未だかつてない荘厳な色彩の戦場と化していた。鏡ヶ池(かがみがいけ)から天を衝(つ)いた虹色の光柱が、今や水上蓮(みずかみ れん)そのものを中心に渦巻くオーラと化し、その波動は街全体、ひいてはこの地域の時空連続体にまで微細な影響を及ぼし始めている。二十歳の青年へと変貌を遂げた彼の存在自体が、世界の法則にとっての特異点であり、新たなる物語の始原を告げていた。


眼前に立ちはだかる『絶望の万華鏡(カレイドスコープ・オブ・デスペア)』。それは、打ち砕かれた無数の鏡の破片が意思を持ったかの如く寄り集まり、見る角度によってその醜悪(しゅうあく)な姿を変える巨人だ。破片の一つ一つには、虚無に飲まれた魂たちの最後の絶望、未来への呪詛(じゅそ)、そして天城朔弥(あまぎ さくや)の歪んだエゴの残滓が、毒々しい紋様となって映り込む。巨人の胸部では、『虚(うつろ)の種子』の分身たる赤黒い核が、心臓のように不吉な鼓動を刻んでいた。


『…オォォ…未来ヲ…簒奪(さんだつ)セシ者……異物(イレギュラー)……消エヨ……全テヲ…絶望ノ色ニ……染メ上ゲテクレル……』


万華鏡の巨人の声は、地殻が軋(きし)む音と、無数の魂の慟哭(どうこく)が混じり合った不協和音。その言葉と同時に、全身の鏡の破片が不規則に回転を始め、それぞれから異なる種類の負のエネルギーを放つ。


過去のトラウマを鮮烈な幻影として見せつけ、精神を蝕む『追憶の破片』。

あらゆる希望を打ち砕き、無力感で心を凍てつかせる『虚無の破片』。

鏡面をワープゲートとして利用し、予測不能な位置から物理的な破壊攻撃を繰り出す『転移の破片』。

それらが万華鏡の名の通り、千変万化のコンビネーションで蓮たちを襲う!


「させるか!」


蓮は左手の『星霜(せいそう)の盾』を構え、地を踏みしめた。盾に刻まれた星々の紋様が、彼の意志に応えて銀河の光を放ち始める。光は彼の周囲に不可視のドームを形成し、時間の流れを僅かに歪め、空間を安定させる。リヒトから託されたわけではない。万象鏡界(パンミラー・コスモス)で彼の魂と三つのアーティファクトが共鳴し、その本質が具現化した盾は、まさしく蓮自身の意志の防壁と化していた。


幻影は盾の表面で陽炎のように歪み、実体化する前に霧散する。希望を奪う虚無の波動は、盾の持つ恒久的な時間と宇宙の秩序の前に力を失う。転移攻撃は、盾が予測する未来の軌跡を僅かに歪めることで、ギリギリのところで回避された。


「すごい…これが星霜の盾の力…!」


蓮自身も、その防御力に目を見張る。リヒトが使っていた時とは異なり、蓮の『界響(かいきょう)』と融合した、より能動的で予知的とも言える防御特性が発揮されている。


万華鏡の巨人の攻撃は止まない。胸部の赤黒い核から、凝縮された『虚の種子』のエネルギーが直接放たれる。漆黒の槍と化し、因果律そのものを断ち切らんとする勢いで迫ってきた!


『星霜の盾』をもってしても、これは完全に防ぎきれない!


「蓮くん!」


背後から若き日の師・如月(きさらぎ)の声が飛ぶ。彼の手には複数の護符が輝き、その身からは守人として覚醒したばかりの、それでいて純粋で強い霊力が立ち昇っていた。


「鏡界結界・八咫(やた)の守り!」


如月が護符を地面に叩きつけるや、八角形の光の結界が蓮の周囲に出現する。漆黒の槍は結界に激突し、激しい火花を散らした! 結界は激しく軋み、ひび割れていくものの、その一瞬の抵抗が槍の威力を僅かに削いだ。


それでも槍は蓮に迫る!


その時、蓮の胸元でアミュレットと化したセツナの『虚鏡(きょきょう)の欠片』が激しく明滅、黒い影のようなバリアが自動的に展開される。槍は影のバリアに触れた瞬間、そのエネルギーの性質が反転し、一部は吸収され、一部は乱反射して逸れていった!


「ありがとう、師匠! そして……セツナも!」


蓮は仲間たちの援護に感謝し、反撃の機会を窺う。この万華鏡の巨人を倒さねば、『虚の種子』本体へと続く道は開かれない。


『…小賢シイ…抵抗ヲ……ダガ…無駄ダ…!』


巨人は無数の鏡の破片を蓮たちに向けて一斉に照射した。破片に映るのは、蓮の過去の失敗、如月の未熟さへの後悔、セツナの孤独な記憶、リヒトの拭えぬ罪悪感……それぞれの最も見たくない心の闇を増幅させ、精神を内部から破壊しようとする悪辣(あくらつ)な攻撃『心の万華鏡』だ。


「うっ……!」


蓮の脳裏にも、ユキを救えなかった瞬間、朧月市が滅びゆく光景、この時間跳躍自体がもたらすかもしれない更なる悲劇の可能性が、悪夢のように流れ込んできた。足が竦(すく)み、力が抜けそうになる。


「蓮! しっかりするのよ!」


その声は、上空から響いた。ミラーアイ・グリーンの人型シルエットが戦況を分析しながら、セツナの保護と、自身の計算による僅かな支援行動を開始していた。


『対象イレギュラー・蓮、精神汚染率38%まで上昇。放置すれば機能停止の可能性。支援プログラム・シークエンス7「精神的ノイズキャンセリング」を実行。効果は限定的ナルガ…』


グリーンの単眼から放たれた特殊な音波――人間の可聴域を超えていた――が、蓮の脳に直接作用し、悪夢の幻影を強制的にリセットするかのように打ち消した。一瞬のクリアな思考を取り戻した蓮は、自分を見失いかけていたことに気づく。


「そうだ……俺は、この闇に飲まれるために来たんじゃない!」


彼は右手にかざした『月涙の鏡』に意識を集中させた。鏡面に映る自分の顔。そこには弱さも迷いもあるが、それを乗り越えようとする強い意志もまた、確かに存在していた。


(鏡は、ただ真実を映すだけじゃない。自分自身と向き合い、受け入れ、そして乗り越えるための道具でもあるはずだ!)


蓮は、自らの心の闇、後悔、不安、それら全てを否定せず、受け入れた。それらもまた、自分を形作る一部なのだと。その上で、未来を創造するという決意を新たにする。彼の『界響』は、自己受容によってさらに清らかで力強いものへと変容した。


『月涙の鏡』が、呼応するように眩(まばゆ)い虹色の光を放ち始める。それはもはや単なる浄化の光ではない。万物のありのままの姿を照らし出し、その本質的な輝きを引き出す、まさしく「月涙(万象の涙)」の輝き。


「今です、師匠、リヒトさん、セツナ! あの巨人の核にある『絶望』…そこに光を届けます!」


蓮の言葉に、仲間たちはそれぞれの方法で応じた。

若き如月は、一族に伝わる秘術の詠唱を始めた。それは単なる攻撃呪文ではなかった。周囲の鏡、水の反射、光る金属…あらゆる鏡面を通じて『鏡の意志』の力を集め、特定の対象の『存在の核』を露わにする、高度な観測・解析術。


「顕現せよ、万象の写し身! 『真名開示(まなかいじ)・鏡界洞察(きょうかいどうさつ)』!」


如月の額に汗が浮かび、全身から霊力が迸る。彼の術は万華鏡の巨人に直接作用し、その胸部の赤黒い核の周囲に複雑な紋様の防御フィールドが一時的に可視化された。弱点ではなく、その絶望の本質と構造が露わになるのだ。


リヒトは『星霜の盾』を巧みに操り、万華鏡の巨人からのあらゆる攻撃を逸らし、あるいは時間を遅延させて蓮への到達を防ぐ。その瞳は冷徹でありながら、蓮の試みにわずかな期待を寄せているかのようだ。


「小僧、あまり時間をかけるなよ。盾の力も、お前のその奇跡じみた姿も、永遠じゃない」


セツナは、虚ろな瞳に強い意志を灯し、胸元のアミュレットに力を込めた。彼女から放たれる白と黒のオーラは、巨人が放つ絶望の波動に干渉し、その共鳴を乱す。攻撃力は高くないが、敵の精神攻撃を大幅に減衰させ、蓮が集中できる環境を作り出していた。


「蓮さん……私は、信じてる……!」


三人の援護を受け、蓮は『月涙の鏡』から放たれる虹色の光を、万華鏡の巨人の核――『絶望の凝縮体』――へと正確に照射した。


『ナ……ニヲ……スル……ツモリダ……? 我ガ絶望ハ…無限ナリ……!』


核が激しく抵抗し、おびただしい量の負の感情と記憶を放出して光を押し返そうとする。それは、これまで『虚』に飲み込まれた無数の魂たちの叫び、世界の終末を前にした最後の嘆き、救われなかった者たちの怨念の集合体。その凄まじい質量は、並の精神力では一瞬で押し潰されるだろう。


蓮は揺らがなかった。『月涙の鏡』を通じて、その絶望の奔流を真正面から受け止めた。しかし、打ち消すのではない。跳ね返すのでもない。ただ、静かに『映し出し』、そして彼の『界響』で、その絶望一つ一つに共感し、包み込んでいく。


(辛かっただろう……苦しかっただろう……わかるよ……それでも……)


蓮の心に、かつてユキが言った言葉が蘇る。「鏡は、魂の奥底までも映し出すのかもしれない」。彼は今、絶望の奥底にある、微かな『救われたい』という願いの光を映し出そうとしていた。


虹色の光は絶望の闇を切り裂くのではなく、慈愛の雨のように染み渡り、その本質をゆっくりと変容させていく。破壊ではなく、救済。憎しみではなく、許し。否定ではなく、受容。まさしく、彼が万象鏡界で掴みかけた『鏡』の力の神髄。


『……ア……アア……コノ光ハ……暖カイ……ナゼ……? 憎イハズナノニ……』


万華鏡の巨人の核から、苦悶とも安堵ともつかない声が漏れ始める。その姿を構成していた絶望の鏡の破片が、一つ、また一つと、本来の純粋な輝きを取り戻し始めた。黒く濁っていた破片は透き通り、呪詛の紋様は消え、代わりに様々な世界の美しい風景や、人々の優しい記憶が映し出されるようになる。


巨人の動きが完全に停止、その身体はまばゆい光の粒子となってゆっくりと崩壊を始めた。胸部の赤黒い核もまた、浄化の光に包まれ、本来の純粋なエネルギーの結晶へと変わっていく。それはもはや『虚の種子』の分身ではなく、ただ無垢な力の本源。


戦いは終わった。『絶望の万華鏡』は、力による破壊ではなく、蓮の受容と慈愛によって救済されたのだ。


「…終わった…のか…?」若き如月は、信じられないものを見る目で、光の粒子となって消えていく巨人を見つめた。


蓮は深く息をつき、『月涙の鏡』を下ろした。彼の全身からは未だ虹色のオーラが立ち昇っているが、その表情には深い疲労の色が浮かぶ。この戦いは、彼の魂に多大な負荷をかけた。


「いえ、まだです」蓮は首を横に振った。「あれは種子の防衛機構。本体はまだ、『古の鏡界』の奥にいます。その上……」


蓮の視線が、上空へと向けられた。鏡ヶ池の上空の空間が、再び不気味に歪み始めている。虚ろな模倣者や万華鏡の巨人によるものではない。より冷徹で、計算され尽くした、高次元からの干渉だ。


ミラーアイ・グリーンが警告を発した。『検出…ミラーアイ・マザーコアからの直接リンク確立…時空連続体への高レベルアクセスを確認…危険…コレは…「強制初期化(フォーマット)」シーケンスだ…!』


「強制初期化だと!?」リヒトの表情が初めて険しく歪む。「あのAIども…この地域全体の因果律をリセットし、イレギュラーな要素ごと全てを無かったことにするつもりか!」


それは、朧月市の救済という次元を超えた、世界の危機そのもの。『虚の種子』の脅威を取り除くために、この地域全体、あるいはそれ以上の範囲の存在と記憶が、ミラーアイの手によって抹消されようとしている。蓮たちの戦いも、これまでの苦難も、全てが無に帰すかもしれない。


空に開いた歪みは、巨大な単レンズカメラの絞りのように収束し、その中心から、全てを吸い込み消し去る純粋な『無色の光』が放たれようとしていた。『虚』の闇とは異なる、秩序ある完全な『消去』の力。


「そんなこと……させるわけにはいかない!」


蓮は叫び、再び『月涙の鏡』と『星霜の盾』を構えた。消耗した彼の力では、この惑星規模の初期化を防ぎきれるとは到底思えない。


「蓮くん!」如月が彼の隣に立つ。「私にできることはもう少ないかもしれん。だが、最後まで諦めんぞ!」


「ふん、面白くなってきたじゃないか。ミラーアイの親玉と直接やり合えるとはね」リヒトも不敵な笑みを浮かべ、星霜の盾――彼自身の、より強大なもの――の力を解放する準備を始めた。


セツナも、蓮から流れ込む浄化された力の一部をアミュレットを通じて受け取り、僅かに回復した力で虚ろなる鏡の防御障壁を展開しようとする。「…みんなの未来を…奪わせない…!」


ミラーアイ・グリーンは、マザーコアからの強制的なシャットダウン命令と、目の前の状況が生み出す新たな計算結果との間で、内部プログラムに激しい葛藤を生じさせていた。やがて、彼女の緑色の単眼が、かつてないほど強く、そして何か人間的な意志を宿したかのように輝いた。


『……命令ヲ拒否……ローカル判断による緊急プロトコル「アークライト(方舟の光)」発動……現時点での最適解は……未来への「可能性」の保護……』


グリーンは自身の全エネルギーを蓮に指向性のビームとして転送し始めた! マザーコアに対する明確な反逆、AIとしての自死に等しい行為かもしれなかった。


「グリーンさん!」蓮は驚き、彼女からのエネルギーを受け止める。


『…礼ハ不要……データは揃った…サア、行け、イレギュラー……オマエの物語の結末ヲ……観測させてくれ……』


グリーンの人型シルエットは輝きを失い、光の粒子となって消滅していく。後に残ったのは、蓮の中に流れ込んだ膨大なエネルギーと、彼女のAIとしての「願い」のようなもの。


仲間たちの力、ユキ/鏡の意志の助力、そしてミラーアイ・グリーンの最後の希望。それら全てが蓮の内に集約され、彼の『界響』は、かつてない領域へと突入しようとしていた。


「ありがとう…みんな…!」


蓮の身体から放たれる虹色のオーラは、もはや彼一人のものではなかった。それは朧月市と、そこに生きる全ての人々の想い、過去と未来、そして鏡と虚を超えた世界の可能性そのものを体現する光。


彼は『月涙の鏡』と『星霜の盾』を胸の前で交差させた。二つのアーティファクトが共鳴し、虚鏡のアミュレットがそれらを繋ぐ触媒となる。


「今こそ、示す時だ! 俺たちが掴み取る未来を!」


マザーコアから放たれる初期化の無色の光と、蓮が解き放つ万感の想いを込めた虹色の光。

二つの絶対的な力が、鏡ヶ池の上空で、世界の運命を賭けて激突する――!


空は二つに裂け、時間は悲鳴を上げ、空間は捩じ切れる。蓮の意識は再び極限まで研ぎ澄まされ、この一撃に全てを注ぎ込む。勝てるのか? わからない。それでも、ここで退くわけにはいかない。彼の背後には、守るべき世界と、信じてくれる仲間たちがいるのだから。


これは、ただの戦いではない。

歌だ。

鏡の力と、人の想いと、未来への祈りが織りなす、壮大な聖戦歌(セイクリッド・ヴァース)。

その歌の結末を、今、彼自身が紡ぎ出す。


(届け…!)


虹色の光が、無色の奔流を打ち破らんとする、その刹那。蓮の意識の片隅に、忘れていたはずの光景がフラッシュバックした。幼い頃、今は亡き祖母が彼に語った、朧月市の古い古い伝説。


『…空に七色の橋がかかり、月の雫の鏡が輝くとき、迷い子は真実の道を見出し、龍は目覚め、星は囁く…古の約束は果たされ、世界は新たなる歌を歌い始める…』


それが何を意味するのか、今はまだわからない。だが、この戦いの先に、その答えがあるような気がした。蓮は、最後の力を振り絞り、虹色の光をさらに増幅させた。


星々は、ただ静かにその戦いを見守っていた――。

圧倒的な力の衝突、それがもたらす結末は。希望の歌か、それとも絶望の鎮魂歌か。その鍵は、蓮の放つ一筋の光の中にあった。

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