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数日がたち、情報は更に集まってきた。
裕も眞原井さんも独自のルートで情報を仕入れてくるらしく、部長も大分喜んでいた。
──みんな凄いな
僕は地図の上に新たに書き込まれた印を見つめながら、そんなことを思う。
赤い丸がまた一つ、二つと増えていく。
まるで都市に広がる疫病みたいだ。
「ふむ」
祟部長が満足そうに地図を眺めている。
長い黒髪が肩から流れ落ちて、まるで黒い滝みたいだ。
「これだけ情報が集まれば、ある程度の傾向も見えてきそうだね」
そう言いながら部長は急に福々先輩の方を向いた。
「福々君」
「はい?」
のんびりとお茶を飲んでいた福々先輩が顔を上げる。
「君の"眼"で、この『点』から何が視える?」
部長が地図上のある一点を指差した。
緑ヶ丘三丁目。
あの全住民と連絡が取れなくなったアパートがある場所だ。
福々先輩の表情が少しだけ引き締まった。
「ああ、念視ですか」
「そう。君の力を借りたい」
──ん? でも福々先輩の念視って……
『まあ相当気合入れて1キロってとこだね。高性能の双眼鏡のほうが役に立つかも』
と言っていたような。
“こういう事”に使えるのだろうか?
「福々君の念視は特殊でね」
部長が僕たちの方を向いて説明を始めた。
「物を視るのは苦手でも、モノを視るのは得意なのさ」
物とモノ。
同じように聞こえるけど、響きが違う。
物は物理的な物体。
モノは──きっと霊的な何かのことだ。
福々先輩はゆっくりと立ち上がり、地図の前に立った。
そして深呼吸を一つ。
「じゃあ、ちょっと視てみますね」
そう言って目を閉じる。
部室の空気が急に重くなったような気がした。
誰も声を出さない。
息をするのも憚られるような、そんな緊張感。
数秒の沈黙。
でもそれがやけに長く感じられた。
やがて福々先輩がゆっくりと目を開く。
その顔からは、いつもの人の好い笑みが消えている。
代わりに浮かんでいるのは──困惑? いや、違う。
恐怖に近い何かだ。
「……冷たいです」
福々先輩の声が、部室に響く。
いつものふわふわした口調じゃない。
真剣そのものの声だ。
「すごく冷たくて、空っぽで……」
言葉を探すように、少し間を置く。
その間も、誰も口を開かない。
「飢えている」
飢えている。
その言葉に、僕は背筋がぞくりとした。
何が飢えているんだろう。
「暗い──昏い所で……何かをずっと待っている感じがします」
福々先輩が続ける。
「美味しいご馳走を、お腹を空かせて待っているような……」
僕は思わず生唾を飲み込んだ。
ゴクリ。
喉が鳴る音がやけに大きく聞こえる。
「そんな感じです」
福々先輩がそう締めくくって、ふらりと椅子に座り込む。
額には汗が滲んでいた。
念視ってそんなに消耗するものなのか。
「ありがとう、福々君」
部長が労わるように声をかける。
そして再び地図に目を落とした。
「飢えた何か、か……」
独り言のように呟く部長。
どこか思案顔だ。
僕は恐る恐る口を開いた。
「あの、それってどういう……」
「まあそのうち教えるよ」
部長があっさりと答える。
「予断があってもいけないからね。ただ、良くない兆候なのは確かだね」
良くない兆候。
そんなのは聞かなくても分かる。
美味しいご馳走を待っている──その表現が頭から離れない。
まさか、その「ご馳走」って……。
「人間、でしょうね」
眞原井さんがぽつりと言った。
まるで僕の考えを読んだみたいに。
「飢えた霊的存在が求めるものといえば、生気か魂か……いずれにせよ、人間そのものです」
「おいおい、マジかよ」
祐が顔をしかめる。
「じゃあ、あのアパートの住人たちは……」
言いかけて、口をつぐむ。
最後まで言わなくても、みんな分かっている。
既に「ご馳走」になってしまったかもしれない、と。
重い沈黙が部室を支配する。
カチ、カチ、と壁の時計の音だけが響いていた。
「とりあえず」
部長が沈黙を破る。
「緑ヶ丘三丁目は最高危険度に引き上げよう」
そう言って、赤い丸の上にさらに大きな赤い×印を書き込んだ。
「近づいてはいけない場所、ということだね。ああ、もちろんこういう危険な場所は然るべき場所へ報告しておくよ」
僕たちは無言で頷く。
でも、心の中では別のことを考えていた。
──もし、あの時立ち止まっていたら
──もし、好奇心に負けて近づいていたら
きっと祐も眞原井さんも同じことを考えているはずだ。
あの時、二人が警戒してくれて本当に良かった。
「他にも気になる場所はあるかい?」
部長が話題を変える。
きっとこれ以上重い雰囲気にしたくないんだろう。
「あ、はい」
僕は気を取り直してノートをめくる。
「桜台の泣き声の件ですが、新しい情報が──」
そんな風にして、僕たちは再び情報の整理に戻っていった。
でも頭の片隅にはずっと福々先輩の言葉が引っかかっている。
──飢えている
──美味しいご馳走を待っている
都市に潜む魔物たちは、今この瞬間も獲物を狙っているのかもしれない。
そう思うと、窓の外に見える日常の風景さえもどこか不気味に見えてくるのだった。