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第17話「聖:暗い家③」


 ◆


 玄関の薄暗がりの中で、僕は戸惑っていた。


「悦子さん?」


 もう一度呼びかけてみる。


 でも返事はない。


 家の中はしんと静まり返っていて、僕たちの息遣いだけが聞こえる。


「とりあえず、上がろうか」


 僕はそう言って靴を脱いだ。


 アリスと裕も続いて上がり込む。


 廊下を進んでリビングへ向かう。


 薄暗い中を手探りで進んで、壁のスイッチを探し──押す。


 照明が点くが、何も変わったところはない。


 テーブルの上には悦子さんの料理本が置いてあった。


『驚きの組み合わせ! 新感覚創作料理レシピ100選』


 ──ああ、また変な料理を研究してるんだな


 そんなことを思いながら、僕は部屋を見回した。


「悦子さんは……留守、なのかな」


 ぽつりと呟く。


 キッチンの方も覗いてみるけど、誰もいない。


 洗い物も片付いているし、特に急いで出かけた様子もない。


「もしかしたら夕飯の買い物にでかけているのかも」


 そう言いながら、僕は冷蔵庫を開けた。


 麦茶のボトルが目に入る。


「お茶飲む?」


 振り返って二人に聞くと、アリスが「いただきますわ」と頷いた。


 裕も「サンキュー」と言う。


 僕はグラスを三つ用意して、麦茶を注いだ。


 冷たいお茶が喉を潤す。


 学校から歩いてきて、ちょうど喉が渇いていたところだった。


「美味しいですわね」


 アリスが上品に口元を押さえながら言う。


「なんだか色々混ぜてるらしいんだよね。ハーブとか」


「美味い! 美味い! 金取れるぜ、これ」


 裕は大げさなほど美味しそうに飲んでくれた。


 そんな時、ふと視線の端に何かが引っかかった。


「あれ?」


「どうしましたの?」


 アリスが首を傾げる。


「いや、勝手口の鍵が開いてるから」


 僕は台所横の勝手口へ向かい、施錠をした。


 その時、足元で何かを踏んだ。


 硬い感触。


 見下ろすと──スマートフォンだった。


 ピンク色のケース。悦子さんのものだ。


 拾い上げてみると、画面は真っ暗なまま反応しない。


 バッテリーが切れているのか、それとも壊れているのか。


「悦子さんのスマホ……」


 僕は呟いた。


 買い物に行くのに、スマートフォンを置いていくだろうか?


 しかも床に落としたまま。


 胸の奥で、不安が小さく芽生える。


「出かけるときに落としてしまって──そのまま気付かずに出て行ってしまったとか?」


 アリスが僕の手元を覗き込みながら言った。


「まあ、そういうこともある……かもしれないけど」


 僕はスマートフォンをテーブルに置いた。


 ◆


「それにしても戸締りは大事ですものね、気付いてよかったですわ」


 話を変える様にアリスが言う。


「こんな時代でも空き巣は嫌だもんなぁ」


 裕も同意する。


 でもアリスは少し違う表情を見せた。


「空き巣ももちろん嫌ですけれど」


 アリスが口を開く。


「でも何より、鍵が開いているという事実そのものが霊を呼び込む行為なのです」


 ──霊を呼び込む? 


 僕と裕は顔を見合わせた。


 アリスは説明を始める。


「魔の中には、招かれなければこちらへ干渉できないものも多いんです」


 なるほど、と思いながら聞く。


「開け放たれた扉や窓は、『どうぞお入りください』という招待状のようなもの。特に夜間は危険ですわ」


「へー、知らなかった」


 裕が感心したように言う。


「吸血鬼が招かれないと家に入れないって話は聞いたことあるけど」


「それも同じ原理ですわね」


 アリスが頷く。


「ですから、戸締りはとても大切なんです」


 そんな話をしながら、僕たちは麦茶を飲み終えた。


 グラスを流しに置いて、僕は言った。


「二階にクロがいるとおもうんだ」


「クロちゃんに会うの楽しみですわ」


 アリスが微笑む。


 三人で階段を上がって、僕の部屋へ向かった。


 ◆


 部屋へ入ってすぐ洗面器を見るが──


「あれ?」


 クロがいない。


 空っぽだ。


「またかくれんぼかな」


 僕がそう呟くと、アリスが不思議そうな顔をした。


「かくれんぼ?」


「うん、最近クロと良くしてるんだけど」


 僕は説明を始めた。


 クロが天井に隠れたり、ベッドの下に潜んだり。


 僕が見つけると洗面器に戻ってくる。


 そんな遊びを繰り返していることを話すと──


「なんだそりゃ!?」


 裕が驚きの声を上げた。


「普通スライムはそんな事しねえよ」


 そして疑いの目で洗面器を見る。


「というか本当にスライムなのか?」


 アリスも似たような反応だった。


「確かに……普通のスライムとは違いますわね」


 でも僕は胸を張った。


「頭いいでしょ」


 笑いながら、ベッドの下を覗き込む。


 暗がりの中を目を凝らして見るけど、クロの姿はない。


「どこかに隠れてるとおもうんだけど……」


 机の下も確認する。


 クローゼットも開けてみる。


 でも、どこにもいない。


 そうしていると──


 ガタン。


 階下で音がした。


 何かが落ちたような、あるいは椅子を引いたような音。


「悦子さんが帰ってきたのかな?」


 僕は顔を上げた。


「挨拶をさせてくださいまし」


 アリスが立ち上がる。


「だな、うちの聖がお世話になってますって言っておかないと」


 裕もそう言いながら立ち上がった。


「御堂君はいつから佐原君の家のお子さんに?」


 アリスがクスリと笑う。


 僕も笑いながら部屋を出た。


「悦子さん、おかえりなさい」


 階段を降りながら声をかける。


 返事はない。


 でも確かに台所から物音が聞こえる。


 水の音。


 食器が触れ合う音。


 階段を降りきって、リビングを通り抜け、台所へ向かった。


 そこには──


 悦子さんがいた。


 流しの前に立って、洗い物をしている。


 でも──


 ──なんだか変だ


 まず気になったのは姿勢だった。


 やや猫背になっている。


 悦子さんはいつも背筋を伸ばして、きれいな姿勢を保っている人なのに。


 それに──


 僕は鼻のあたりを軽くこすった。


 何か匂う。


 甘いような、腐ったような、何とも言えない匂いが漂っている。


「あラ、おかえリ、なさイ」


 悦子さんがこちらを見ずに言った。


 声が──おかしい。


 音程が微妙にずれているような、機械的な響きがある。


 僕の背筋にぞわりと悪寒が走った。


「お友達モ、連れテきた、の? さあ三人、トモ、コチらへいらっしゃイ」


 悦子さんが振り返る。


 顔は確かに悦子さんだ。


 でも表情が──


 なんというか、作り物めいている。


 笑顔なのに目が笑っていない。


「えっと……どうしたの?」


 僕は恐る恐る聞いた。


「アリスと裕を連れてくるっていうのは朝伝えたはず──」


 その時だった。


「しッ」


 アリスが鋭く制止した。


「御堂君。それ以上声を出してはいけませんわ」


 アリスの表情は真剣そのものだった。


 エメラルドグリーンの瞳に、警戒の色が浮かんでいる。


「おう、鼻もつまんどけ、聖」


 裕も僕の前に出た。


「臭えからよ」


 アリスと裕が、まるで僕を守るように前に立つ。


「臭い、って──」


 そう言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。


 ああ、そうだ。


 僕も気付いていた。


 この臭いに。


 むわりと立ち込める、甘ったるくて腐ったような匂い。


 その出所が──


 悦子さんから漂っているということに。


「どうし、タノ」


 悦子さんが一歩前に出た。


 ぎこちない動き。


 まるで操り人形みたいだ。


「こちらへ、いらっしゃイ」


 両腕を広げる。


 抱擁を求めるような仕草。


 でもその腕の動きも不自然で、関節があらぬ方向に曲がっているように見えた。


 僕の全身に鳥肌が立つ。


 これは悦子さんじゃない。


 絶対に違う。


 本物の悦子さんはどこにいるんだろう。


 もしかして──


 最悪の想像が頭をよぎる。


 いや、そんなはずは。


「いらっしゃい、だぁ? テメー1人で逝ってろボケ!」


 裕の怒声が響いた。


 同時に、裕が右手を前に突き出す。


 掌から炎が噴き出した。


 オレンジ色の炎が渦を巻きながら、悦子さんに向かって放射される。


 熱風が僕の頬を撫でた。


 炎は正確に悦子さんを捉え、体全体が炎に包まれる。


 でも──


 炎の中で。


 悦子さんの姿が歪み、溶け、別の何かに変わっていく。


「燃えねぇか、クソが」


 裕が吐き捨てる様に言った。


 炎が弱まった時、そこに立っていたのは──


 青紫色の肌をした怪物だった。


 頭部が異常に大きい。


 普通の倍──いや、三倍はあろうかという巨大な頭。


 そして目も口も、顔の大部分を占めるほど大きく開いている。


 ただ、片目はまるで爛れた様になっていた。


 まるで酸でも被ったような……。


 怪我をしているのだろうか?


 口は耳まで裂けていて、中には無数の小さな歯がびっしりと並んでいる。


 体は悦子さんと同じくらいの大きさだけど、頭部とのバランスが完全に狂っていた。


 まるで子供の落書きが実体化したような、歪な姿。


 そんな怪物が──


 僕の目を見ている。


 真っ直ぐに。


 じっと。


 まるで僕の魂を覗き込むように。


 怪我なんてまるでへいちゃらみたいだ。


 あれだけすごい裕の炎を浴びたっていうのに。


 そして──


「エヅコザン……?」


 怪物の口が動いた。


 裂けた口から、粘液が糸を引く。


「エツウウウウコオオオオサアアアアアン!」


 耳をつんざくような叫び声。


 悦子さんの名前を、歪めて、引き延ばして、嘲笑うように叫んでいる。


 怪物は開いている方の目で僕の目を見続けていた。


 そして──


 嗤った。


 口の端が──耳まで裂けた口の端が、さらに上に吊り上がる。


 まるで何か面白いことを見つけたみたいに。


 まるで最高の獲物を見つけたみたいに。


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