◆
病室の天井には、染みがあった。
水漏れか何かの跡だろう。不規則な形が、見ているうちに色んなものに見えてくる。
犬とか、雲とか、悦子さんの作る謎料理とか。
「……暇だなぁ」
呟いても返事はない。
当たり前だ──個室だし。
体を起こそうとすると、鉛みたいな倦怠感が全身を押さえつける。
まるで重力が三倍くらいになったみたいだ。
暇は暇なのだけれど、動く気にもなれないのだ。
──また寝よう
それしかすることがない。
瞼を閉じると、すぐに意識が沈んでいく。
ここ数日はずっと調子だ。起きては寝て、寝ては起きて。
時間の感覚も曖昧になってきた。
そしてうとうとしていると──
ノックの音で目が覚めた。
「入っていいか?」
裕の声だ。
お見舞いに来てくれたんだろう。
僕が入院して一週間くらいたつけれど、これまでに何度か来てくれている。
「うん……」
ドアが開いて、裕が顔を覗かせた。
手にはコンビニの袋を持っている。
「よう、生きてるか?」
「かろうじて」
苦笑しながら答える。
裕は椅子を引いて、ベッドの横に座った。
「これ、差し入れ」
ニヤニヤしながら袋から雑誌を取り出す。
表紙には水着姿の女性が──いや、下着だこれ。
「……なにこれ」
「いいだろ? 病院生活の清涼剤だぜ」
得意げに言う裕。
「こういうのって、持ち込んでいいの?」
「バレなきゃいいんだよ」
そう言いながら、ベッドの横の引き出しに雑誌を滑り込ませる。
「ナースが来たらすぐ隠せ」
「いや、そういう問題じゃ……」
「細かいこと気にすんなって」
裕はあっけらかんとしている。
「つーか、お前も年頃なんだからさ」
「年頃って……」
「彼女とかいないの?」
唐突な質問に戸惑う。
「いないけど」
「マジで? もったいねぇ」
裕が大げさに肩をすくめる。
「俺なんか彼女に振り回されっぱなしだぜ」
「ノロケ?」
「違ぇよ。この前なんかさ──」
裕が彼女との日常を語り始める。
デートの待ち合わせに三十分遅刻されたとか、プレゼント選びで丸一日付き合わされたとか。
聞いていて微笑ましい。
「でも楽しそうじゃん」
「まあな」
裕が照れたように頭をかく。
「お前も早く彼女作れよ」
「そのうちね」
適当に流す。
「つーか、クラスの女子とか狙い目じゃね?」
「急に何?」
「だってお前、最近有名人じゃん。河童から生還した男」
ああ、そういえば──
「モテ期来るかもよ?」
「来ないって」
僕は苦笑する。
でも裕は真面目な顔で続ける。
「いや、マジで。女子って強い男好きだし」
「僕、全然強くないし」
「生き残ったんだから強いだろ」
なんだその理論。
「まあ、とりあえずその雑誌で勉強しとけ」
「何を勉強するんだよ……」
呆れながらも、なんだか楽しい。
こういう馬鹿話も悪くない。
◆
裕が帰った後、一、二時間くらいしてから──
「失礼しますわ」
ノックと同時に声がした。
アリスだ。
「どうぞ」
ドアが開いて、制服姿のアリスが入ってきた。
手には革装の立派な本を持っている。
「お加減はいかがですか?」
「ぼちぼち……かな」
アリスは椅子に座って、持ってきた本を差し出した。
「これ、差し入れですわ」
受け取ってみると、ずっしりと重い。
表紙には金文字で『HOLY BIBLE』と書かれている。
「聖書……?」
「ええ。病院で暇でしょうから」
いや、暇だけど。
聖書って暇つぶしに読むものなのか?
「あの、アリス……」
「なんですか?」
「これ、全部英語なんだけど」
「あら、英語の勉強にもなって一石二鳥ですわね」
にこやかに言うアリス。
いや、そういう問題じゃ──
「でも、ありがとう」
結局お礼を言う。
気持ちが嬉しいし。
「ところで」
アリスが何か言いかけた時、引き出しが少し開いているのに気づいたらしい。
「これは……」
中から雑誌の端が見えている。
女性の太ももあたりが──
「……」
「……」
気まずい沈黙。
アリスがゆっくりと僕を見る。
その目がジト目になっていく。
「男の子ですから、咎めませんけれど……」
声が冷たい。
「いや、これは裕が勝手に──」
「言い訳は見苦しいですわよ」
ぐうの音も出ない。
「まあ」
アリスは咳払いをして話題を変えた。
「健全な証拠ということで」
健全……なのか?
「それより、退院はいつ頃になりそうですか?」
話題を変えてくれたことに感謝しつつ答える。
「来週には出られるかも」
「それは良かったですわ」
アリスが微笑む。
「学校のみんなも心配してますから」
「そうなの?」
「ええ。御堂君は最近色々巻き込まれていますから」
自慢じゃないけれど、僕はクラスでは空気の様な存在だ。
だから皆が気にかけてくれているっていうのは正直いって嬉しい。
けれど、心配をかけるっていう形はちょっとね。
なんというか、もっとこう、胸を張れる事で有名──有名? なんだか違う気がするけれど、まあ、有名になりたい。
そうして他愛もない話をしているうちに、面会時間が終わりに近づいてきた。
「それでは、お大事に」
アリスが立ち上がる。
「聖書、ちゃんと読んでくださいね」
「が、頑張ってみる……」
「あと」
ドアの前で振り返る。
「そういう雑誌は、もう少し上手に隠した方がよろしいですわよ」
最後にもう一度ジト目を向けて、アリスは出て行った。
……恥ずかしい。
◆
次の日の午後。
「やあ、御堂君」
のんびりした声と共に、福々先輩が現れた。
「先輩、わざわざすみません」
「いやいや、たまたま近くに来たからね」
そう言いながら、持ってきた紙袋をテーブルに置く。
「差し入れ。病院って暇でしょ?」
中を覗くと、漫画が何冊か入っていた。
「わぁ、ありがとうございます」
「最新刊もあるよ」
人気シリーズの最新刊が入っている。
これは嬉しい。
「先輩も読みます?」
「いや、僕はもう読んだから」
そう言って椅子に座る福々先輩。
「そういえば」
先輩が急に真顔になる。
「祟部長、最近ずっと休んでるんだよね」
「え?」
思わず声が出る。
「もう四、五日かな。連絡も取れないし」
祟部長が……?
「何かあったんですか?」
「分からない。でもまあ、あの人のことだから大丈夫だと思うけど。これまでにも何度かあったからね、急に雲隠れしちゃったりするの」
福々先輩はあっけらかんとしている。
でも僕は少し不安になった。
都庁から邪気が出てるとか言ってたし、もしかして──
「心配しても仕方ないよ」
福々先輩が僕の表情を見て言う。
「それより君は早く元気になることだね」
「……はい」
確かにその通りだ。
今の僕に出来ることなんて何もない。
◆
その翌日。
「聖くーん!」
病室のドアが勢いよく開いた。
相沢さんだ。
金髪を揺らしながら、ずかずかと入ってくる。
「生きてる?」
「なんとか……」
「顔色悪っ。まあいいや。はい、これ」
ファッション雑誌を差し出してくる。
「え?」
「暇でしょ? これ先月号だけど」
表紙にはキラキラした女性モデルが写っている。
「いいんですか?」
「もう読んだし。つーか、男子も読んだ方がいいよ」
「なんで?」
「女子の好みとか分かるじゃん」
なるほど……?
理屈は分かる。
でもなぜ今──まあいいか。
相沢さんはベッドの端に腰掛ける
。
「つーかさ、聖くんモテそうなのにもったいないよね」
「え?」
突然の話題に戸惑う。
「だって優しいし、真面目だし」
「それだけじゃモテないでしょ」
「いやいや、需要あるって」
相沢さんが断言する。
「実際、クラスの子で聖くんのこと気にしてる子いるし」
「……本当に?」
「教えないけどね〜」
意地悪な笑顔。
「ヒントは?」
「んー、黒髪ロングの子」
それだけじゃ分からない。
クラスに黒髪ロングの女子なんて何人もいる。
「もうちょっとヒント」
「ダメ〜。自分で考えな」
相沢さんは楽しそうだ。
「じゃ、また来るね」
相沢さんは立ち上がる。
「雑誌、参考にしなよ〜」
ひらひらと手を振って出て行った。
……黒髪ロングの子、か。
誰だろう。
◆
それから数日が過ぎた。
朝起きると少し体が軽い。
あの鉛のような倦怠感が少しずつ薄れてきている。
「おはよう」
茂さんが病室に入ってきた。
手には──和傘だ。あの、黒い和傘。
「おはようございます」
ベッドの上で体を起こす。
もう普通に動けるようになった。
「調子はどうだ?」
「だいぶ良くなりました」
「そうか」
茂さんは安堵の表情を見せる。
でも、どこか真剣な表情も混じっている。
「聖、話がある」
茂さんの声が、いつになく重い。
「今回のことも含めて、お前に伝えなければならないことがある」
空気が変わった。
僕は背筋を伸ばす。
「お前には異能がある」
茂さんがはっきりと言った。
「え……?」
心臓が跳ね上がる。
異能? 僕に?
「正確には、霊媒体質だ」
茂さんは続ける。
「お前は怪異を引き寄せ、時には力を貸して貰う事が出来る。あの傘もそうだ。付喪神に気に入られたな」
頭が真っ白になる。
僕に、異能が──
「じゃあ、僕も……!」
思わず身を乗り出す。
裕みたいに火を出したり、アリスみたいに戦ったりできるのか。
でも茂さんの表情は厳しいままだった。
「浮かれるな」
ピシャリと言われて、僕は縮こまる。
「いいか、よく聞け。霊媒体質というのは、他の異能とは違う」
茂さんは言葉を選びながら続ける。
「交渉次第では、確かに力を貸してもらえるかもしれない。だが──」
一呼吸置く。
「制御を誤れば喰われるぞ」
ぞくり、と背筋が凍る。
「喰われる……?」
「文字通りだ。魂を、精神を、存在そのものを奪われる」
茂さんの目は真剣そのものだった。
「だから絶対に、勝手に自分の力を試そうとするな。いいな」
「は、はい……」
声が震える。
嬉しさと恐怖が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
茂さんは傘を指差した。
「この傘も、お前が無意識に引き寄せたモノの一つだ。今回はたまたま上手くいったが──」
言葉を切る。
「次も同じようにいくとは限らない」
僕はようやく自分に異能があると分かった。
ずっと欲しかった力。
でも同時に、それがどれほど危険なものかも理解した。
「複雑な気持ちだろう」
茂さんが少し表情を和らげる。
「だが正しく学べば、制御することも可能だ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、独学は厳禁だ。必ず指導者の下で学ぶこと。まあその辺は手配するよ。あの同級生の眞原井さんも協力してくれる言っているし。知っているか? 彼女は高名な祓い師の娘なんだぞ」
茂さんは立ち上がった。
「とりあえず、この傘はお前のそばに置いておく。既に繋がりができているからな」
そして、アドバイスをくれた。
「道具──といってはなんだがな、付喪神というのは手をかければかけるほど、持ち主との繋がりが強くなる。手入れをしっかりしろ」
「分かりました」
「繋がりが強くなれば、制御もしやすくなる。同じことがあっても、今度は倒れたりしないかもしれない」
茂さんは部屋を出る前に、もう一度振り返った。
「聖、嬉しい気持ちは分かる。だが命に関わることだ。慎重にな」
「……はい」
僕は深く頷いた。
◆
午後。
茂さんの言葉が頭の中でぐるぐる回っている。
異能がある。
霊媒体質。
魔を引き寄せ、宿す力。
でも、下手をすれば喰われる。
複雑だ。
本当に複雑な気持ちだ。
でも──
傘を見つめる。
まずは、この子との繋がりを深めることから始めよう。
僕は傘の手入れを始めた。
ティッシュで表面の埃を払い、骨組みの部分を軽く拭く。
黒い和紙に朱色の模様。
改めて見ると、本当に綺麗な傘だ。
「よろしくね」
小さく呟いてみる。
傘は答えない。
当たり前だ。
でも、なんとなく温かい感じがする。
丁寧に、ゆっくりと拭いていく。
竹の骨組みも一本一本確認する。
傷んでいるところはない。
最後に、持ち手の部分を磨く。
「よし、終わり」
満足して、傘をドアの横に立てかける。
ベッドに腰を下ろして、ふぅと一息。
窓の外を見ると、もう夕方だった。
その時だった。
ぞくり。
急に寒気がした。
──部屋の中に、誰かいる気がする
慌てて部屋を見回す。
そして──
傘を置いた場所に、少年が立っていた。
「!」
あの時の少年だ。
おかっぱ頭、古臭い着物、中性的な顔立ち。
改めて見ると、とても美しい少年だった。
ドアが開いた音はしなかった。
つまり──
──傘の
でも、茂さんの言葉を思い出す。
霊媒体質。魔を引き寄せる力。
これもその一つなのか。
僕は息を止めて、じっと少年を見つめた。
少年も僕を見つめ返す。
沈黙が続く。
やがて、少年の口が開いた。
「ねえ、お兄さん」
少年特有の高い声。
表情は呆れたような顔だった。
「少しは鍛えたら?」
それだけ言って、少年は煙のように消えた。
僕はしばらく呆然としていた。
そして、自分の体を見下ろす。
確かに貧弱だった。
例えば裕なんて、お腹がきれいに六つに割れているのだが──僕はぺたんこだ。
むっ、と腹筋に力を入れてみるが──
ふ、と意識が遠のいた。
力んだせいで貧血気味になったんだろう。
弱い、弱すぎる。
ずっと横になりっぱなしというのも差し引いても、余りにもひょろい。
僕は枕に顔を埋めて、心の中で──
──鍛えよう
と心に決めた。