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東京都水道局、第三庁舎の応接室。
普段は業者との打ち合わせや、市民からの陳情対応に使われる場所だ。
田中はそこで怪異と向き合っていた。
朝一番、上司から呼び出された時は驚いた。
『田中、お前を指名してきた河童がいる』
作業員の自分がなぜと思ったが、聞けばカワ太郎だという。
仲間が急に凶暴化し、水道局に助けを求めてきたというのだ。
「タナカよ。世話になる」
カワ太郎の声は、いつもの飄々とした調子とは違っていた。
疲れている。
いや、それ以上に──憔悴しきっている。
頭頂部の皿は乾いてひび割れ、普段なら艶やかな緑色の肌もくすんだ灰緑色になっていた。
「いえいえ、しかし大変な事になりましたね……」
田中は向かいの椅子に腰を下ろしながら言った。
上司から渡された資料が既に机の上に広げられている。
過去一週間の異常報告書。
下水道内での河童の暴走事案。
被害状況の写真。
そして──行方不明者リスト。
「水道局でも調査はしているのですが……」
田中の言葉を遮るように、カワ太郎が口を開いた。
「毒じゃ」
低い、押し殺したような声。
「毒……?」
田中は身を乗り出した。
「ある日、水に毒が混じった。そして同胞たちが皆狂った」
カワ太郎の言葉は簡潔だったが、怒りか悲しみか──いずれにせよ負の感情が滲んでいる事は明らかだった。
田中は資料をめくりながら尋ねた。
「カワ太郎さんはどうして無事だったのですか?」
しばしの沈黙。
カワ太郎は天井を見上げた。
蛍光灯の光が、乾いた皿に反射している。
「儂はお主らと少々関わり過ぎた。ゆえに混ざっていたのだろうな。だから狂わずに済んだ」
「混ざる……?」
田中が聞き返すが、カワ太郎はそれ以上語ろうとしなかった。
ただ、深く息をついて俯くばかりだった。
◆
田中は椅子に座り直した。
現場の作業員である自分に、大した権限はない。
しかしカワ太郎との付き合いは長い。
その信頼関係があるからこそ、今ここにいるのだろう。
「とりあえず、カワ太郎さんの安全を確保することが先決ですね」
田中は実務的な口調で切り出した。
「私からも上に掛け合ってみます。これまで協力していただいた実績もありますし」
カワ太郎が顔を上げた。
「本当か?」
「ええ。ただ、私は一介の作業員ですから、どこまでできるか……」
正直なところを話す。
でも、現場の声として上申することはできる。
「まずは、上司と相談してみます」
そう言って、田中は内線電話に手を伸ばした。
「すみません、山田課長はいらっしゃいますか? ……はい、田中です。カワ太郎さんの件で至急ご相談が」
◆
十分後、環境対策課の山田が応接室に入ってきた。
五十代の実直そうな男性だ。
「そうか」
山田の視線が、カワ太郎に向けられる。
驚きの色はない。
ある程度状況は把握しているのだろう。
「で、保護が必要ということか」
「はい」
田中が説明を始める。
「カワ太郎さんは、これまで下水管の調査で何度も協力してくださいました。今回の件でも、重要な情報を提供してくれています」
「ふむ」
山田は腕を組んだ。
「正直なところ前例がない」
「ですが──」
「まあ、待て」と山田は手を上げて田中を制する。
「前例がないなら、作ればいい。最近はそういう時代だからな」
山田はカワ太郎に向き直った。
「カワ太郎さん、でしたね。田中から話は聞いています」
「うむ」
「毒、ですか」
カワ太郎は頷いた。
「水に憎しみが溶けておった。触れるほどに心が黒く染まっていく」
山田の表情が険しくなる。
「霊的汚染の可能性がありますね。最近の怪異大量発生と関係があるかもしれない」
そして田中を見た。
「とりあえず、保護については前向きに検討しよう。田中、お前が担当者だ」
「え?」
「カワ太郎さんが信頼しているのはお前だろう? なら、お前が面倒を見るのが筋だ」
田中は戸惑った。
自分はただの作業員。
こんな大事な案件を任されていいのか。
「心配するな、必要な権限は与える。とりあえず住居の確保が先決だな。第五浄水場の地下貯水槽はどうだ。メンテナンス用の予備槽があっただろう」
「はい。ではそちらを住居として手配します」
「ああ。承認はこちらでとっておく。じゃあ後は任せた。それではカワ太郎さん、後は田中と──」
「うむ、ご苦労だった。ニンゲン」
◆
山田が退室した後、田中はほっと息をついた。
田中にとって山田という男は非常に仕事がしやすい上司だった。
絶対に残業をしないことで知られている山田だが、とにかく仕事が早い。
「良かったですね、カワ太郎さん」
「かたじけない」
カワ太郎も安堵の表情を見せた。
「それで、先ほどの『混ざった』という話ですが」
カワ太郎の表情が曇る。
しかし、今度は口を開いた。
「儂らのような者は長く同じ場所にいると、その土地と一体化していく」
「はい」
「じゃが、儂は違った。お主ら人間と交わり、人間の理屈を学び、人間の情を知った」
カワ太郎は自分の手を見つめる。
水かきのある、人とは違う手。
「きゅうりを貰い、話をし、時には一緒に働いた。そうしているうちに儂の中に人間の何かが混ざっていったんじゃろう」
なるほど、と田中は納得した。
共生はお互いを変えていくものだ。
人間が怪異に影響を受ける様に、怪異もまた人間に影響される。
「だから毒に侵されなかった、と」
「そうじゃ。皮肉なものじゃがな」
◆
田中は渡された書類を確認した。
『特定異形災害被害者一時保護申請書』──山田が用意したものだ。
「これに記入する必要があるんですが」
「儂は字が書けん」
「代筆で構いません。お名前は?」
「カワ太郎」
「本名は?」
「それが本名じゃ」
田中は苦笑しながら書類に記入していく。
生年月日の欄で手が止まった。
「お生まれは?」
「覚えておらん。ニンゲンの暦で言う江戸の頃には既におったが」
その欄は空白のままにした。
書類作成が一段落したところで、田中は立ち上がる。
「では、貯水槽を見に行きましょうか」
「よいのか?」
「ええ。カワ太郎さんが気に入るかどうか、確認していただかないと」
二人は応接室を出て、廊下を歩き始めた。
途中、何人かの職員とすれ違う。
彼らは河童を見て一瞬驚くが、すぐに会釈して通り過ぎていく。
この程度ではもう誰も騒がない。
◆
田中は自分のロッカーから作業用の車のキーを取り出した。
「すみません、公用車じゃなくて作業車で」
「構わん」
カワ太郎は物珍しそうに、軽トラックを眺めていた。
「これも車か」
「ええ、まあ」
助手席に乗り込む河童の姿は、どこかシュールだった。
第五浄水場までは、車で二十分ほどだった。
途中、カワ太郎は窓の外を流れる景色を、じっと見つめている。
「地上は明るいのう」
「そうですね」
「じゃが、空が見えん」
ビルに囲まれた道路からは、空はわずかしか見えない。
◆
浄水場に着くと、当直の職員が驚いた顔で出迎えた。
「田中さん、これは……」
「水道局の方から連絡は?」
「あ、はい。聞いてます。でも、まさか本当に河童が……」
田中は苦笑した。
確かに、電話で『河童を連れて行く』と言われても、にわかには信じられないだろう。
地下への階段を下りていく。
ひんやりとした空気が、肌に心地よい。
「水の匂いがする」
カワ太郎が深呼吸した。
その顔に、少し生気が戻ったように見える。
予備の貯水槽は、地下二階にあった。
直径十メートル、深さ五メートルほどの円形のプール。
清浄な水がなみなみと満たされている。
「おお……」
カワ太郎が感嘆の声を上げた。
「綺麗な水じゃ」
「循環濾過システムが動いていますから」
田中が説明する。
「温度も一定に保たれています」
カワ太郎は水面に手を浸した。
その瞬間、顔がぱっと明るくなる。
「よい。実によい水じゃ。出来ておる
そのまま、躊躇なく水の中へと飛び込んだ。
ざぶんという音と共に、水しぶきが上がる。
◆
水中を自在に泳ぎ回るカワ太郎を見て、田中は安心した。
やはり河童は水の中が一番なのだ。
しばらくして、カワ太郎が水面から顔を出した。
「久しぶりに綺麗な水で泳げた」
その顔は、先ほどまでの憔悴が嘘のように晴れやかだった。
「気に入っていただけましたか?」
「この上なし」
カワ太郎は満足そうに頷いた。
「ただ、食事はどうすれば……」
「きゅうりを水面に浮かべておいてくれればよい」
なるほど、それなら簡単だ。
「それと──時には小魚も欲しいのう。もちろん儂も何かできる事があれば力になろう。といっても、儂にできる事なぞ余り無いかもしれんが」
「お気持ちだけでも十分ですよ。分かりました。明日から毎日届けます」
言いながら、田中は貯水槽の縁に腰を下ろした。
「それで毒の出所について、何か分かることはありませんか? 我々もこのままで良いとは思っていません」
下水道に凶暴化した河童が巣くうとあっては、メンテナンスも大きく滞る。
すぐにどうこうという事にはならなくとも、この先かならず問題が起きるだろう。
カワ太郎は水中から顔を出し、答える。
「西じゃ。大きな建物が集まっている辺りから、毒が流れてきた」
──新宿の方角か
「あの辺りから嫌な気配がする」
田中はメモを取る。
これは重要な情報だ。
上に報告する必要がある。
「分かりました。調査してみます」
「頼む。同胞たちをこれ以上狂わせたくない」
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帰宅していた山田は自宅のマンションで田中からの報告のテキストを受信した。
西から毒が流れてきた──カワ太郎の証言。
山田はベランダに出て、新宿方面を眺めた。夜の帳が降りた都心は、無数の光を放っている。その中でひときわ目立つのが、二つの塔を持つ都庁舎だった。
「都庁か……」
ふと、先週の出来事を思い出す。
居酒屋で松本という学生時代の同級生と呑んでいた時のことだ。
松本は霊捜の部隊長(閑話③「怪異行:ゴミ処理施設職員・室井の場合」参照)をやっている同期の出世頭だった。
そんな松本だが酒に弱く、酔うとよく愚痴ったりする。
その日も赤ら顔でこんなことを言っていた。
『都庁が気に食わん』
その時は酔っ払いの戯言だと思って聞き流していた。
大方、都の職員かなにかに嫌味でも言われたのだろうと。
しかし気に食わないというのが、そういう意味ではなかったとしたら?
山田はスマートフォンを取り出し、松本にメッセージを送った。
内容はまあちょっとした懸念のようなものだ。
しかしそういった“引っかかり”から、思わぬ解決に到る事もある。
送信ボタンを押す。既読はつかない。この時間なら、まだパトロール中かもしれない。
山田は部屋に戻り、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
プルタブを開ける音が、静かな部屋に響く。
「余りでかい話にならないといいんだが」
山田はそう独りごち、テレビの野球中継を観続け──東京ワクルトスパローズの弱さに大きく舌打ちをした。
連敗に次ぐ連敗──打てず、守れず。
そんなワクルトはこの日も完封負けであった。