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僕は切り落とした蜘蛛の足の肉を、拾ってきたプラスチックのまな板の上に置いた。
節くれだった昆虫の足──見た目はグロテスクだが、処理さえ間違えなければとてもおいしく食べられる。
生存者の間では「女郎蜘蛛」と呼ばれているこいつの調理法は、"あの掲示板"で見た。
『女郎蜘蛛は関節の臭腺さえ取れば極上の鶏肉。ただし加熱しすぎると硬くなるから注意』
この書き込みをした人は大田区に住んでるらしい。
ゾンビがあふれて大変だそうだ。
池袋ではゾンビはあまり見た事がないけれど、区によって違うんだろうか?
最初に試した時は半信半疑だった。
怪異の肉が食べられるなんて掲示板で知るまでは考えもしなかった。
文化包丁の刃を関節に滑り込ませる。
硬い外殻の下、柔らかい肉の感触。
肉を少し裂くと、緑色の小さな袋が姿を現す──臭腺だ。
ピンセットでこれをつまみ出し、ベランダの外へ放り投げた。
これで下処理は完了。
引き締まった白い身を薄切りにしていく。
鶏のササミそっくりだ。
今日は昼間の探索で桃の缶詰も手に入れたからデザートとして食べる。
主食は蜘蛛肉の塩胡椒炒め。
ベランダに設置したカセットコンロに火をつける。
ボンベの残量はあと半分くらいか。数本ボンベがあるから暫くは大丈夫だ。
フライパンが温まるのを待って、薄切り肉を一枚ずつ並べる。
じゅわりと肉汁が弾けた。
白い身が熱でキュッと縮み、香ばしい匂いが立ち上る。
エビやカニのような甲殻類系の香りがかすかに混じる。
食欲をそそる匂いだ。火の通りもいい──最高の焼き加減。
塩と黒胡椒を振って、鉄板の上で肉を躍らせる。
僕も中々上手く自炊出来る様になったものだ──そんな事を思っていると。
「御堂くーん、それ、すっごく美味しそうね」
甘えたような声。
振り向くと、隣の部屋のベランダから女性が身を乗り出していた。
牧村さんだ。
下の名前は知らない。
僕より少し年上で、僕がここに流れ着く前から住み着いているらしい。
短いショートカット。ゆったりしたタンクトップから豊かな胸の線が見える。カジュアルというか、ラフというか。話すたびに僕をからかうような仕草を見せる。少し苦手だ。
「そのお肉、少し"コレ"と交換しない?」
よく冷えたビールの缶。水より貴重な場合もある代物だ。
「すみません、未成年なので」
「あ、そっか。御堂くん、真面目だもんねえ」
悪戯っぽく笑って、ビールを引っ込める。
今度はガサゴソと部屋から別のものを取り出してきた。
「じゃあ、これはどう?」
アルファニチロの鮭缶。
赤と白のツートンカラー。鮭の絵。手のひら大の缶詰。
僕は「むっ」と内心で唸った。
各社が色々と鮭の水煮缶を出している中で、僕にとってはこれが一番だ。
しっとりとした身のほぐれ具合。しょっぱすぎず、鮭の旨味を最大限に引き出す塩加減。
缶の中に満たされた旨味の塊のような煮汁。
昔、茂さんがこれをツマミにビールを飲んでいた。子供の僕に「うまいぞ」と少しだけ食べさせてくれた時の味が忘れられない。
一個四百円で少し割高だけれど、コンビニでもスーパーでもどこでも売っている。
蜘蛛肉が最高の焼き加減を主張してくる。
これも絶対美味しい……間違いなく。
命を懸けて手に入れたタンパク源だ。で
も鮭缶の誘惑は強烈すぎた。
脳内で蜘蛛肉と鮭缶が壮絶な戦いを繰り広げる。
牧村さんはにこにこしながら缶詰を振って見せた。僕の葛藤を楽しんでいる。
──結局僕は屈してしまった。
「やった! じゃあいまからそっちいくね。鍵あけといて」
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牧村さんを部屋に招き入れ、向かい合って床に座る。
それぞれの戦利品を味わう時間だ。
鮭缶の身を少しずつ崩し、蜘蛛肉と一緒に食べる。
塩気のある鮭と淡泊な蜘蛛肉──相性は抜群だった。
「そういえば御堂くんはさ、いつもそうやって"お肉"取ってくるけど、どんな"力"を持っているわけ?」
鮭缶と交換した蜘蛛肉を頬張りながらの質問。
「……うーん、企業秘密です。それより牧村さんは? 結構外出してるみたいですけど」
「えー、うーん、乙女の秘密!」
牧村さんはウインクしながら話をはぐらかす。
このやり取りは何度もやっている。
僕が自分の力について話さないことを牧村さんは知っているし、僕も牧村さんが話してくれないことを知っている。
お互いに距離を測っているんだと思う。多分。
東京はこうなってしまった。
クリーチャーも怪異も怖い。
だけど本当に怖いのは人間だ。
特に異能持ちにとっては、同じ異能持ちが一番怖い。
異能の種類によっては物資を集めやすい事はいうまでもない。だから異能持ちは沢山の物資をため込んでいる。
それを同じ異能持ちが狙ったりするのだ。
警察も霊捜もろくに機能していないし、本当なんというか……力こそすべてっていう世界になってしまっている。
「そういえばさ、あくまで噂話なんだけど」
声を潜める牧村さん。
「池袋の、ほら、役所の連中いるじゃん?」
「ええ、まあ」
箸を置く。真剣な話だ。
僕も彼らの事は知っている。
一言で言えば滅茶苦茶柄が悪い連中。不良、ヤンキー。
たまに街で見かけるけれど、関わらない様にしている。
「最近は異能持ちを集めてるらしいよ、それも結構無理やり。無理やり集めて何考えてんだかね。御堂君も気を付けなー?」
「……教えてくれてありがとうございます。牧村さんも気を付けて」
「もちろん」
笑って、最後の一切れを口に放り込む牧村さん。
何気ない情報交換も生存戦略の一つだ。
腹の内は探りつつも、危険な情報は共有する。
付かず離れず──そんな奇妙な隣人関係。
それが今の僕と牧村さんの関係だった。