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第4話 『再開』

 日が沈み、街には夜が広がっている。

 住宅街は街灯の淡いオレンジ色の光が点々と連なり、アスファルトの道を柔らかく照らしている。 

 住宅街の間には、細い路地がいくつも伸び、路地の先には田んぼや畑が広がる田舎らしい風景が垣間見え、遠くでカエルの合唱が響き合っていた。


 家々の窓からは温かな明かりが漏れ、家族の団欒を思わせる笑い声やテレビの音が時折聞こえてくる。


「あ、アイスない」


 冷凍庫の扉を開けた黒髪のくせっ毛の女の子が、小さく呟いた。

 彼女は風呂上がりらしく、濡れた髪をタオルで軽く拭きながら、白いタンクトップとショートパンツ姿で立っている。


 首筋にはまだ水滴が残り、ほのかにシャンプーの香りが漂っていた。冷蔵庫の冷気が彼女の素足を撫で、ひんやりとした感覚が心地よく感じられた。


「ねー、にぃー!アイスないんだけどー!」


 女の子は冷蔵庫の前から大きな声で叫んだ。

 リビングのソファーに寝転がり、スマホを弄っていた管方は、その声に少しだけ顔を上げた。


「おー、そう言えばそうだったな」


 管方はスマホを手に持ったまま、ソファーから軽く上半身を起こした。

 彼が昼にアイスを買いにコンビニへ出掛けたのも、冷蔵庫にストックがなかったからだと今さら思い出す。


 昼間の猛暑で溶けたアイスを飲み干した記憶が蘇り、疲れた表情に苦笑が浮かぶ。

 一方、女の子は冷蔵庫の前でそわそわと立ち尽くし、風呂上がりの火照った身体を冷やすように、時折タオルで首筋を拭いていた。


「ねえ、アイス食べたいんだけど」


「明日買いに行きな」


 管方のそっけない返事に、女の子はムッとした表情を見せた。

 くせっ毛の髪をタオルで拭く手を止め、唇を尖らせて眉を寄せ、不満げに腕を組んで管方を睨みつけた。


「今食べたい。お風呂上がり。夏のお風呂上がり。何が欲しいと思う?」


「牛乳か?」


 管方はスマホから視線を外さず、適当に答えた。

 女の子は冷蔵庫の扉を閉め、軽く足踏みしながら苛立ちを隠せない様子だ。

 彼女の素足がフローリングをパタパタと鳴らし、管方へと近づく。


「アイス!アイスがいいの!お願い!買ってきて!」


 彼女は両手を合わせて頼み込むように管方にさらに近づいた。

 風呂上がりの火照った顔に懇願の表情が浮かび、必死さが伝わってくる。

「自分で買ってこいよぉ」


「こんな時間に、可愛い妹をひとりで行かせる気?」


 彼女、管方夕の妹は可愛子ぶるように首を振って、くせっ毛の髪を揺らしながら上目遣いで管方を見上げた。

 彼女の声は甘く、風呂上がりのタンクトップ姿でわざとらしく肩をすくめて見せる。

 管方はスマホから視線を外し、ソファーから軽く顔を上げて妹を見た。

 疲れた表情に、呆れと少しの笑みが混じる。


「じゃあ、一緒に行くか?」


 管方はソファーからゆっくりと立ち上がり、スマホをポケットにしまった。

 妹のわがままに付き合う気になったものの、昼間の怪異との遭遇を思い出し、どこか億劫そうな様子が垣間見える。


「それは無理。ほら、私って夏休みの宿題をこれから終わらせなくちゃいけないし」


 妹は目線をそらし、くせっ毛の髪をタオルで拭く手に力を込めた。

 明らかに嘘っぽい言い訳に、彼女の視線が泳ぎ、口元が微かに引きつる。


「素直にめんどくさいから行きたくないって言えよ」


「めんどくさいから行きたくない」


「素直に言ったら行くとは言ってないからな?」


 管方は再びソファーの背もたれに寄りかかり、呆れたように小さく息を吐いた。

 彼女は唇を尖らせ、むすっとした表情で管方を睨む。


「ねー!お願い!ほら、お釣り上げるから!」


「それは別にいらんが」


 女の子は考え込むように指を顎に当て、髪を軽くかき上げた。

 しばらく黙り込んだ後、突然目を輝かせて何かを思いついた様子を見せる。彼女の表情がパッと明るくなり、期待を込めた視線を管方に向けた。


「なら、ほら!この前オススメしてた死にゲー?あれ、ちゃんとプレイしとくから!ね?」


「んー」


 管方は昼の怪異との遭遇を思い出し、疲れた身体に鞭を打つ気になれない様子だ。

 カーブミラーの不気味な光景や、蝉のけたたましい鳴き声が頭をよぎり、また怪異に出会ってしまうかもしれないという不安が心を過る。


「途中で辞めるなよ?どのルートでもいいからちゃんとエンディングまでやり切れよ?」


「やる!任せて!」


 妹は目を輝かせ、自信満々に胸を叩いた。

 管方はさすがに2回連続で怪異に遭遇することはないだろうと自分を納得させ、妹の頼みを渋々聞き入れることにした。

 疲れた顔に苦笑を浮かべ、ソファーから立ち上がる。


「仕方ない、行くかぁ」


 管方はソファーから立ち上がり、部屋着のままでは出られないと、軽く身支度を始めた。

 部屋着であるシャツの上に、薄手のグレーのパーカーを羽織った。


 パーカーの裾を軽く整え、ポケットから財布を取り出して確認する。

 疲れた身体を引きずるように、財布をパーカーのポケットにしまい、スマホを手に持つ。


「やった!お兄ちゃん好き好き!天才!きっとモテるぞ!」


 妹の顔には満足げな表情が浮かび、ソファーに腰を下ろしてニヤニヤと笑う。 


「ありがとう妹よ、ほら、もっと褒めてくれ」


「ごめん、今日の分は出尽くした。ほら、いってらっしゃーい」


「なんだお前」


 管方は呆れたように笑いながら、玄関のドアを開けた。

 外は夜の涼しさが広がり、街灯の淡いオレンジ色の光が住宅街を照らしている。

 雑木林のシルエットが暗闇に浮かび、風が吹き抜けるたびに葉擦れの音が静かに響く。夜の田舎町特有の静けさが漂っていた。

 管方はコンビニへ向かい、夜の住宅街を歩く。

 昼間よりは比較的涼しい風がパーカーを軽く揺らし、昼間の猛暑が嘘のような心地よさが感じられた。

 コンビニに着くと、自動ドアが開き、冷房の効いた店内に足を踏み入れる。アイスを手に取り、会計を済ませ、再び自動ドアを通って外へ出た。夜の涼しさが再び彼を包み、遠くの虫の音が静かな街に響いていた。


「よし、まあいいか」


 管方はアイスが入った袋を手に持ち、夜の住宅街を家へと戻る道を歩き始めた。街灯の光が彼の背中を照らし、静かな夜が続いていた。


 誰もいない夜道は、まるで自分だけの世界のように感じられて少し特別な気分に浸ることが出来る。


 どうにも、例の坂道の最寄りコンビニへ行く気になれなかった管方は遠い方のコンビニへと足を運んだこともあり、住宅の明かりも徐々に消えていた。


(……何か、いるよな。)


 管方はふと足を止め、背後に何かがいるような気配を感じた。

 夜の静けさの中、虫の音やカエルの合唱が響く中で、微かな異音が耳に届く。

 まるで誰かが近づいてくるような、かすかな足音が背後から聞こえてくる気がした。


 管方はゾクリと背筋が寒くなり、ゆっくりと振り返った。しかし、そこには誰もおらず、街灯の淡い光が照らすアスファルトの道が静かに伸びているだけだ。


 雑木林のシルエットが風に揺れ、木々の葉擦れが不気味に響く。再び歩き出すが、気配はますます近づいてくるようだった。

 背後の空気が重くなり、まるで見えない何かがすぐ後ろで息を潜めているような感覚が強まる。


 管方は再び振り返ったが、依然として何も見えない。街灯の光が届かない暗闇の中、心臓がドクドクと脈打ち、昼間の怪異の記憶が蘇り、思わず足を速めた。

 だが、何度振り返っても、そこには誰もいない。ただ、気配だけが執拗に追いかけてくるようだった。


(またこのパターンか……)


 管方は、ふととあることを思いついた。

 それは後ろを見たまま歩いてみようというアイデアだ。

 昼間の怪異の記憶が頭をよぎり、背後の気配に対する恐怖が好奇心と混じり合った。

 もし何かいるなら、見てやろうという妙な決意が湧き上がる。

 そして、後ろを振り返ったまま、1歩、そしてまた1歩と足を進めたその時。


 遠くの電柱の後ろに、尋常ならざる大きな影が一瞬揺らめくのを目撃した。


 街灯の淡い光に照らされたその影は、人間とも獣ともつかぬ異様な形をしており、まるで闇そのものが蠢いているかのようだった。

 影は一瞬だけ揺らめき、すぐに電柱の後ろに消えたが、その存在感は管方の背筋を凍りつかせた。


(あ、やっばいやつだ……)


 管方は反射的に走り出した。

 サンダルがアスファルトを叩く音が夜の静けさに響き、アイスの入った袋を握り潰しそうな勢いで手に持つ。


 パーカーの裾がバタバタと揺れ、汗が額から流れ落ちる。背後の気配は一向に離れず、むしろ近づいてくるようだった。


 まるで冷たい息が首筋に当たるような感覚がし、背後から何かが這うように追いかけてくる音が聞こえる。

 木々の葉擦れの音や虫の音が不気味に混ざり合い、恐怖が管方の心を支配した。

 何度も振り返るが、依然として姿は見えない。ただ、気配だけが執拗に追いかけてきた。


「はぁはぁ、もう来てないよな……」


 管方は街の川の周辺にある古びた石段の前まで走ってきて、息を切らしながら立ち止まった。

 肩で大きく息をし、パーカーの袖で額の汗を拭う。アイスの袋を地面に置き、膝に手をついて荒い息を整える。

 石段の周囲は街灯の光が届かず、暗闇が濃く、遠くの田んぼからカエルの合唱が響いていた。

 ようやく気配が消えたかと思った瞬間、すぐ後ろでかすかな衣擦れの音がした。

 冷たい空気が背後に立ち込め、まるで誰かがすぐそこに立っているような感覚に襲われる。

 管方の心臓が再び激しく鼓動し、恐怖が全身を駆け巡った。


「おや、君か。さっそく、怪異探しに興じているのかな?」


 その声には聞き覚えがあった。

 今日の昼間に聞いた、どこか美しく、落ち着きながらも不気味さを帯びた可愛らしい声。

 管方の背筋がゾクリとし、ゆっくりと振り返る。


「こんばんは、管方君。」


 白銀の髪が月光に照らされ、淡く輝いている。

 琥珀色の瞳がサングラス越しにキラリと光り、墨色のドレスが夜の闇に溶け込むように揺れている。


 ドレスの襟には金色の草花模様がほのかに輝き、彼女の華奢な身体を包み込む姿は、夜の田舎町の中で異質な美しさを放っている。


 涼しげな微笑が唇に浮かび、どこか楽しげな視線が管方を捉える。


 そこには、猫飼零が立っていた。

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