事務所に駆け込むと、グレイスはソファに縮こまり書店主夫婦のチャールズとメリッサが彼女を守るように立っていた。グレイスの腕輪が光り、ひびがさらに広がっている。彼女の瞳には涙が浮かび、金髪に結んだ赤いリボンが震えていた。
「お兄様、アリス! 霧が、……変な感じがするの」
グレイスの声が震え、「共鳴」の力が無自覚に漏れ出す。事務所内を埋め尽くす霧が一瞬黒く渦巻き、暖炉の火が不自然に揺らめいた。
ジェラルドが水晶を握り霧を鎮めようとするが、彼自身の能力が不安定になる。「霧の支配」を遥かに凌駕する「共鳴」の力。
「グレイス、落ち着け。俺たちがいる」
ジェラルドがグレイスの両肩に手を置き穏やかに言うが、彼の視界はさらに歪み額に汗が滲んでいた。
事務所のドアが勢いよく開き、冷たい風が室内に吹き込んだ。
黒いコートに身を包んだ女性が現れる。彼女の瞳は鋭く、肩に届かない黒髪が風に揺れていた。彼女の周囲を透明な風が取り巻き、霧を切り裂くように渦巻く。
「共鳴の力を渡せ。さもなくば、この街ごと霧に沈める」
女性の声は低く、冷酷な響きを帯びていた。ジェラルドは水晶を掲げて五人を守る霧の障壁を張る。
「お前も監査局の刺客か!?」
彼女が一瞬目を細め、口元に薄い笑みを浮かべる。
「そう、私はシャーロットだ。監査局の『風』。『共鳴』が均衡を崩せば、監査局も手を出せなくなる。それが私の目的だ。──あの腐った組織は『整理』されなければならない」
簡単に名乗るからには、本名はもちろん「コードネーム」ですらないのではないか。彼女の言葉に、ジェラルドとアリスは一瞬顔を見合わせる。監査局内部に亀裂があることを示唆する言葉だった。
シャーロットが手を振ると、風が刃のように霧を切り裂き、ジェラルドの障壁を突き破る。ジェラルドの視界がさらに歪んだが、彼は歯を食いしばって霧を操る。
グレイスの「共鳴」が反応し、霧が黒く渦巻く予兆を見せた。彼女が目を瞑り、胸を抑えると霧は一瞬収まるが、事務所の分厚い窓ガラスが共鳴の力で微かに震えた。
「グレイス!」
アリスがグレイスを抱き締めて共鳴を抑えようとするが、封印の代償が彼女を襲う。頭痛と眩暈が強まり、アリスの身体から力が抜けて行く。
ジェラルドがシャーロットに向き直って霧の刃を放つが、風がそれを簡単に弾き返した。
「お前たちの家族ごっこは見ていて微笑ましいが、『共鳴』の力は私のものだ。」
シャーロットの声に嘲りが混じるが、彼女の瞳にはどこか葛藤の色が浮かんでいた。
戦闘が膠着する中、アリスがグレイスの耳元で囁く。
「グレイス、あなたの力は私たちを守る力でもあるのよ。怖がらないで」
グレイスの震えが少し収まり小さく頷く。だが「共鳴」の力はまだ不安定で、霧が再び黒く渦巻き始める。
シャーロットが一歩下がり風を収めた。グレイスの共鳴はまだ不安定で、再び霧が黒く渦巻く気配を感じ取った彼女は唇を噛んで呟いた。
「この力、今は手に負えない……。だが次は逃がさない。均衡の祭壇で会おう」
意味深な言葉を残して、彼女は姿を消した。その声が霧に溶けて事務所に静寂が戻る。
ジェラルドが息を整え、額の汗を拭った。アリスがグレイスを抱いたまま、ソファに崩れ落ちる。
「アリス、大丈夫か?」
ジェラルドが心配そうに尋ねると、アリスが弱々しく微笑む。
「なんとか……。でも、グレイスの封印が限界に近いわ。私の体も、もう……」
彼女の言葉にジェラルドの胸が締め付けられる。
あの時と同じだ。
八年前、霧の中で出会ったアリスの姿が脳裏を過った。孤児として路上で行きていた彼女は能力のために監査局に追われていた。
偶然出逢って助けた同じ「霧」の能力者であるアリスを、ジェラルドは守ると誓った。あの日の約束が今も彼を突き動かしている。
グレイスがジェラルドを腕を握り、小さな声で呟く。
「私が悪い子だから、みんなを危なくしてるの?」
その言葉に、アリスがグレイスの金髪を撫で、暖炉の温もりを思い出すような声で答える。
「そんなことないわ、グレイス。あなたは私たちの宝物よ。あなたの力があってもなくても、私たちはあなたを守る」
ジェラルドもグレイスの手を握り、静かに告げた。
「グレイス、俺たちは家族だ。何があっても一緒に乗り越える。約束するから信じろ」
グレイスの大きな瞳に涙が浮かんだ。事務所の霧が一瞬青く光った。
ジェラルドがノートを手に立ち上がり、室内にまだ漂う霧を見据える。
「『均衡の祭壇』が答えをくれる。どういうものなのかはわからないが……。監査局を止めるためにもグレイスを守るためにも、俺たちは行くしかない。」
窓の外で霧がさらに濃くなり、テムズ川の汽笛が不気味に響く。遠くで風が霧を切り裂く音が聞こえ、シャーロットが完全に引いてはいないことが示唆された。
──次なる戦いは、霧と光の均衡を賭けたものになるだろう。