僕がその奇妙な生き物を見たのは、深度20メートルほどの海の底だ。
頭上遠くにまだぼうっと日の光が見えるが、基本的には黒と
それはカレイやヒラメの一種だったかもしれないし、
だがそれは、通常の魚類や
動き方も独特で、海底をずりずりと音をさせながら移動し(不思議なことに、そんな音が聞こえたような気がしたのだ)、砂を巻き上げ、上空を優雅に舞っていた魚たちを駆逐しながら、まっしぐらに栄進丸のほうへ向かった。そして、その中に姿を消した。
栄進丸。そこは、僕の行き先でもある。
数十年まえ、衝突事故でここに沈んだ明治時代の沈船だ。中にはもちろん誰もいないし、そこにあるのはただ、がらんどうになった鉄の残骸だけ。そこに無数のフジツボがくっつき、水草がひっつき、軟質サンゴがその石灰の骨片をくい込ませて、それぞれ自分の領分であることを主張していた。
あいまに大きなイセエビや貧相な
僕がこの栄進丸に潜るのは、三度目だ。
だがどうやら、今回は中にかなり大きな先客がいるようである。
不思議なことに、恐怖は感じなかった。危険も感じなかった。
僕はいずれ近いうち確実に死ぬ人間だ。
生への執着はなかった。
だから、仮にこのなにかわからぬ先客が有害な生物だったとしても、あるいは殺意を帯びた敵だったとしても、そう。ただ、なるようになるだけだ。
僕はむしろ勇躍して、沈船の中に入った。
目の前を小さな魚どもがあわてて通り過ぎてゆく。僕の動きに押されて小さな水流が起こり、目の前の
泡は立たない。
僕は常に息を鼻で吸い、口から吐いている。このリズムを保ちつづける限り、僕の身体が必要とする酸素と排出される炭酸ガスとは、僕の潜水服にまとわりつく管や缶の中で浄化され、循環してゆく。だから外に漏れることはないのだ。
僕は独立した一個の呼吸機構を持つ海棲生物となって、扉の内側で立ち泳ぎをしていた。
船室の中を満たした黒い海水が、かすかに揺れているのがわかる。
船室の闇の中に動くものはふたつ。僕と、そして先ほどの正体不明の生き物だけだ。やつも、おそらく立ち泳ぎをしている。腕か足か、それとも
それが何なのかはわからないが、それがいま、僕と同じ船室にいることはわかる。この部屋を満たす海水と闇の中で、じっと身を潜めているのがわかる。さて、いま何を考えているのか。
とつぜん、それが動きだした。
滑らかな動きで闇の底から飛び出し、醜く身をくねらせ、激しく水を掻いて船室を駆け上がった。そして、硝子の失われた天窓の痕をぬるりとした動きでくぐりぬけ、その姿を消した。目にもとまらぬ速さだった。
僕は、あとに取り残された。
結局、それが何なのかはわからなかった。僕は、人間としてはかなり鋭い視力を持っているほうだが、それを目にしたのはほんの
僕はそのまま沈船の一室でぶらぶらと立ち泳ぎを続けていたが、やがて疲れて動きを止めた。装備を含めて100kg以上にもなる自重が、地球重力の作用を受けてゆっくりと沈み、僕はかつて船室の床だった鉄板の上に降り立った。
海の底に一人とり残された気分だった。なにかわからぬ先ほどのものからも見放され、去られてしまった。僕はここで永遠に一人ぼっちなのだ。
だが、まあ、それはそれでいい。僕の運命だ。
僕はすでに、先ほどのものに対する興味を失っていた。奇妙な生物だったが、人間の知らない暗い海底では、ああいう未知の存在が、まだいくらもいるのだろう。
僕はその場にたたずみ、静かにこれからの自分のことを考えた。
もうすぐ、この世のすべてにオサラバし、
そこはおそらく、闇に満たされた静寂の世界なのだろう。なにも動かず、なにも変わらず。だがもしかしたら、いまいる海底のような、居心地のよい世界なのかもしれない。
だとしたら、僕はいつまでも、そこにいたい。
ぷくぷくぷくと、泡すら立てない。僕は魚なのだ。いや、物も言わず海底に横たわり、たまにゆっくりと這って、ただ時を過ごすナマコの類と同じなのだ。
そしてそのまま、
けっこう素敵なことだ。僕はそう思う。
誰に見送られるわけでも、誰にお別れを言われるわけでもないけれど。
僕は海底の一部になるのだ。
この大いなる世界の構成要素となるのだ。
ただ真っ暗で、なにも見えない。
でも、僕は包まれている。大いなる闇に包まれている。
とっても優しく包まれている。
僕は大いなる存在の一部だ。存在の一部で、そして全体だ。
僕は、闇だ。そして闇こそが僕だ。
僕は、闇そのものだ。
だから、そう。僕にはなんの後悔もない。