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深淵の釣人
深淵の釣人
早川隆
ホラー怪談
2025年04月18日
公開日
2.9万字
連載中
終戦直後の広島某所にある大咲島。検疫施設が置かれ、空母2隻が撃沈されたままになっている特異な島だ。ここにやってきた元伏龍特攻隊員が、異様な体験をする。最終的に彼が遭遇する妖魔の正体とは。ラブクラフトの名作「インスマウスの影」の我流後日談です。どうかお楽しみに。

第1話

 僕がその奇妙な生き物を見たのは、深度20メートルほどの海の底だ。


 頭上遠くにまだぼうっと日の光が見えるが、基本的には黒とあい色が織りなす暗い世界で、分厚い海水の層に濾過ろかされた淡い陽光が、ほのかな照明となって海底を照らしている。照らす、といっても明度が足りないから、見えるのはただ動かぬ岩や砂のおぼろげな輪郭と、ゆらゆらとたゆたう海藻類、ひらひらと舞う丸い紙幣のような魚の身体と、そしていま、暗がりとなった海底をうなにものかの黒い影だけなのだ。


 それはカレイやヒラメの一種だったかもしれないし、あなぐらを出てきたウツボの類だったかもしれない。なにかしらの変異で素早く移動する能力を獲得した未知のナマコかもしれないし、あるいは、それはただ単に僕が想念の中でこしらえた、なんでもない、ただの幻だったのかもしれない。


 だがそれは、通常の魚類や海棲かいせい生物の常識からするとかなり大きかった。


 動き方も独特で、海底をずりずりと音をさせながら移動し(不思議なことに、そんな音が聞こえたような気がしたのだ)、砂を巻き上げ、上空を優雅に舞っていた魚たちを駆逐しながら、まっしぐらに栄進丸のほうへ向かった。そして、その中に姿を消した。


 栄進丸。そこは、僕の行き先でもある。

 数十年まえ、衝突事故でここに沈んだ明治時代の沈船だ。中にはもちろん誰もいないし、そこにあるのはただ、がらんどうになった鉄の残骸だけ。そこに無数のフジツボがくっつき、水草がひっつき、軟質サンゴがその石灰の骨片をくい込ませて、それぞれ自分の領分であることを主張していた。


 あいまに大きなイセエビや貧相な平家蟹へいけがに、縞目のイシダイなどが見え隠れているが、僕はその中に身を潜め、12時間、ただじっとして過ごさねばならないのだ。なぜなら、それが軍に命じられた僕の任務だったから。


 僕がこの栄進丸に潜るのは、三度目だ。

 だがどうやら、今回は中にかなり大きな先客がいるようである。

 不思議なことに、恐怖は感じなかった。危険も感じなかった。


 僕はいずれ近いうち確実に死ぬ人間だ。

 生への執着はなかった。

 だから、仮にこのなにかわからぬ先客が有害な生物だったとしても、あるいは殺意を帯びた敵だったとしても、そう。ただ、なるようになるだけだ。


 僕はむしろ勇躍して、沈船の中に入った。

 目の前を小さな魚どもがあわてて通り過ぎてゆく。僕の動きに押されて小さな水流が起こり、目の前の赤錆あかさびた鋼製のドアが少しだけ動いた。僕はそのへりをつかみ、背中に背負った清浄缶に当たらないよう、たくみに回り込んで中に入った。


 泡は立たない。

 僕は常に息を鼻で吸い、口から吐いている。このリズムを保ちつづける限り、僕の身体が必要とする酸素と排出される炭酸ガスとは、僕の潜水服にまとわりつく管や缶の中で浄化され、循環してゆく。だから外に漏れることはないのだ。


 僕は独立した一個の呼吸機構を持つ海棲生物となって、扉の内側で立ち泳ぎをしていた。

 船室の中を満たした黒い海水が、かすかに揺れているのがわかる。


 船室の闇の中に動くものはふたつ。僕と、そして先ほどの正体不明の生き物だけだ。やつも、おそらく立ち泳ぎをしている。腕か足か、それともえらのようなもので、かすかに水を掻いている。


 それが何なのかはわからないが、それがいま、僕と同じ船室にいることはわかる。この部屋を満たす海水と闇の中で、じっと身を潜めているのがわかる。さて、いま何を考えているのか。


 とつぜん、それが動きだした。

 滑らかな動きで闇の底から飛び出し、醜く身をくねらせ、激しく水を掻いて船室を駆け上がった。そして、硝子の失われた天窓の痕をぬるりとした動きでくぐりぬけ、その姿を消した。目にもとまらぬ速さだった。




 僕は、あとに取り残された。


 結局、それが何なのかはわからなかった。僕は、人間としてはかなり鋭い視力を持っているほうだが、それを目にしたのはほんの一刹那いっせつなに過ぎず、また周囲があまりにも暗すぎて、そもそも網膜もうまくにその形態を焼き付けることができなかったのだ。


 僕はそのまま沈船の一室でぶらぶらと立ち泳ぎを続けていたが、やがて疲れて動きを止めた。装備を含めて100kg以上にもなる自重が、地球重力の作用を受けてゆっくりと沈み、僕はかつて船室の床だった鉄板の上に降り立った。


 海の底に一人とり残された気分だった。なにかわからぬ先ほどのものからも見放され、去られてしまった。僕はここで永遠に一人ぼっちなのだ。


 だが、まあ、それはそれでいい。僕の運命だ。

 僕はすでに、先ほどのものに対する興味を失っていた。奇妙な生物だったが、人間の知らない暗い海底では、ああいう未知の存在が、まだいくらもいるのだろう。


 僕はその場にたたずみ、静かにこれからの自分のことを考えた。


 もうすぐ、この世のすべてにオサラバし、黄泉よみの国の住人になる。

 そこはおそらく、闇に満たされた静寂の世界なのだろう。なにも動かず、なにも変わらず。だがもしかしたら、いまいる海底のような、居心地のよい世界なのかもしれない。


 だとしたら、僕はいつまでも、そこにいたい。

 ぷくぷくぷくと、泡すら立てない。僕は魚なのだ。いや、物も言わず海底に横たわり、たまにゆっくりと這って、ただ時を過ごすナマコの類と同じなのだ。

 そしてそのまま、永劫えいごうの時を過ごす。


 けっこう素敵なことだ。僕はそう思う。

 誰に見送られるわけでも、誰にお別れを言われるわけでもないけれど。


 僕は海底の一部になるのだ。

 この大いなる世界の構成要素となるのだ。


 ただ真っ暗で、なにも見えない。

 でも、僕は包まれている。大いなる闇に包まれている。

 とっても優しく包まれている。


 僕は大いなる存在の一部だ。存在の一部で、そして全体だ。

 僕は、闇だ。そして闇こそが僕だ。

 僕は、闇そのものだ。



 だから、そう。僕にはなんの後悔もない。


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