目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第11話 洗濯物はなぜ乾く?

 いつものように洗濯物を干そうとベランダに出た時だった。

 ほとんど同じタイミングでお隣の木井きいさんもベランダに出てきた。


 手にはライターと線香。

 日課の一服の時間だったようだ。


「こんばんは。偶然ですね」


 見なかったことにはできないので、先手を取って挨拶する。

 木井さんは私がいるのに気付いていなかったのか、小さく飛び跳ねた。

 それから私と洗濯物が入ったかごを交互に眺め、困り顔をした。


「こんばんはー……。タイミング失敗しちゃったなぁ」

「吸われるんでしたらお気になさらずどうぞ!」

「いやいや、臭いが付いちゃいますよ」


 言いながら大げさに手をぶんぶんと振る木井さん。

 マイペース具合と言い、どこか結城ちゃんに似ている気がする。


「まだ干す前ですし。木井さんさえ良ければ吸ってる間にちょっとお喋りしましょうよ!」


 私の申し出に木井さんは子供の用に目を輝かせる。


「本当に吸っちゃって大丈夫ですか?」

「嫌いな臭いじゃないし、気にしませんよ」


 私が応えると、彼はポケットからライターと線香を一本取り出して慣れた手つきで火をつけた。

 真っ白なケムリが風に揺られながら緩やかに夜空へ昇っていく。

 それをぱくりと口に含んで、木井さんは幸せそうに笑った。


「いやぁ、実は僕禁煙しようと思ってたんですけどね。失敗しちゃったんです」

「禁煙? 健康診断で引っかかったりしたんですか?」

「いや、うちの家内が嫌だって言ってまして。仏壇もないのに部屋が線香臭いのは耐えられないって」


 木井さんは寂しそうに零して、細くケムリを吐き出した。

 龍のようにくねくねと身をよじらせながらこちらへ向かってきたケムリを捕まえようと手を伸ばしたけれど、触れた所から崩れて逃げられてしまう。


「次吸ったら出て行くって言われてるんですけど、どうしてもやめられなくて。こうやって家内がお風呂に入ってる隙に吸いに出てるんですよ」

「えっ、それって大丈夫なんですか!?」


 まさか別居寸前の状況になっているなんて思いもしなかったので、迂闊に吸うことを勧めてしまったのを反省した。

 吸っている現場を目撃されずに済んだとして、服に付いた線香の独特の臭いは隠しようがない。


「木井さん! 今なら間に合いますから! 吸うのやめて戻ってください!!」


 胸の高さの隣との仕切りに身を乗り出して、木井さんの手から線香を取り上げようと腕を伸ばす。

 彼は持っていた線香に視線を落とし、しばし戸惑ったような様子を見せてからポキンと真っ二つに線香を折った。


「……あちっ」

「えっ!?!? 大丈夫ですか!?」

「えへへ、燃えてるの忘れてました」


 木井さんはぺろっと舌を出して指先を舐める。

 線香の燃えカスが付いていたのか、すぐに顔をしかめてぺっぺっと唾を吐き出した。


「木井さんって意外とおっちょこちょいなんですね」


 言いながら自分の部屋をさっと見回して、目についたチューハイの空き缶を手に取った。


「ここに入れてください」

「何から何まで……。本当にすみません」


 ぺこぺこ頭を下げながら缶の中へ燃えさしが落とされると、中に残っていた水分に触れてジュッっと短く音を立てた。


「禁煙成功目指して頑張ってください。木井さんならできるって信じてますから!」


 この前助言をもらったお礼のつもりで激励したら、木井さんは少しだけ眉を下げた。


「困っちゃうなぁ。香塚さんにまで言われたらやらないわけにいかないじゃないですか」

「こうやって夜にお話しするのも楽しかったですけどね。奥さんとの約束なら絶対守ってあげてください」


 約束を守らない男ってほんっっっとうに腹が立つから。

 木井さんがそういう人じゃないことを。そして、そういう人にならないことを切に祈っているんです。

 声には出さなかった思いも届いたようで、木井さんはなんだか憑き物が落ちたようにすっきりして見えた。


「ありがとうございます。洗濯物、干しに来られてたんでしょう? こんな時間まで手を止めさせてしまって申し訳ないです」

「……あ! そうでした」


 木井さんに言われるまで洗濯物のことをすっかり忘れていた。

 夜風に吹かれてすっかり冷え切ってしまっている。


「つかぬことを伺いますが、こんな時間に干して乾くんですか?」

「え?」


 彼が何を言わんとしているのか最初はわからなかった。

 いつもこの時間に干しているし、朝になればすっかり乾いているから。

 それが普通のことではないのだと気付くまでに少し時間がかかったのだ。


「そういえばそうですよね! こんな時期に外へ干したら昼間でも乾くかどうかわからないのに……」


 私は首をかしげる。

 このアパートに越してきてからというもの、季節も天気も関係なく洗濯物はベランダで外干ししていた。

 台風の日でも水たまりに薄氷が張った日でも私が取り込もうとした時にはしっかりと乾いていた。

 だからそういうものだと思い込んでいたけれど、よく考えたらそんなはずないもんね。


「羨ましいですよ。うちなんて冬の日に暖房をガンガンにつけながら部屋干ししても、夏の昼間に外干ししても、変わらず生乾きの匂いになっちゃうんですから」


 ほんの数メートルしか違わないのに何がそんなに違うんでしょうねぇ、と悲しそうな顔で木井さんが呟く。

 洗濯機は半年前に買い替えたばかりだというし、使っている洗剤や柔軟剤はうちで使っているものよりワンランクお高い生乾き臭防止のものだという。

 ということは使っているものの性能の差ではないはず。


「奥さんさえ嫌じゃなければ、今度うちで洗濯してみましょうか?」


 私が提案すると、木井さんは申し訳ないと言って辞退しようとした。

 それを私の興味のためですから! と押し切った時、頭にタオルを巻いた姿の木井さんの奥さんがベランダへ出てきた。


「部屋ン中にいないと思ったら! また吸ってんのかい!」

「ひっ……! ち、違うんですぅ……」


 大きな体を縮こまらせて蚊の鳴くような細い声で弁解する木井さん。

 さっきまで一緒に語っていた姿とのギャップに思わず笑ってしまいそうになりながら、私は助け舟を出した。


「木井さんをお引止めしちゃったのは私なんです」

「あ、あ、あら? ごめんなさいっ! あたしったらこんな格好で……」


 ワタワタと頭のタオルを手で隠そうとなしながら、奥さんは部屋に引っ込んでしまう。


「私の部屋、冬の夜に洗濯物を干しても朝起きたら乾いてるんです、って話をしてまして。逆に木井さんのお部屋では夏の昼間でも洗濯物が乾きにくいって聞いたので、もしご迷惑でなければ試しにうちで洗濯して干させていただけませんか? ってお願いしてたんですよ」

「そんな……」

「タオルとお洋服一枚とかでもいいので、実験させていただけませんか?」


 頼み込むこと数分。

 奥さんの了解も得られ、次の晩に実験をやらせてもらえることになった。




 洗剤と柔軟剤は木井さんがいつも使っているものを借り、洗濯のコース設定は私がいつも使っているものを選ぶ。

 私の洗濯物は端へ寄せて、木井さんの部屋側のスペースに間隔を広めに取りながら木井さんの家の洋服を干した。

 その様子を木井さんと奥さんにも確認してもらい、私たちはそれぞれの部屋に戻っていつも通りの生活を送る。


 翌朝、隙間なく干していた私の洋服たちはいつも通り綺麗に乾いていた。

 それを部屋に放り込んで、木井さんの洗濯物に手を伸ばす。

 木井さんの服は風通しがよくなるように間隔を開けて干していたのに、洗濯したてのようにぐっしょりと濡れていた。


「うわ……本当にこんなことになるんだ」


 木井さんの話を半信半疑で聞いていたけれど、こんなものを見せられたら信じるしかない。


「洗剤のせいでも、場所のせいでもないってなったら何が悪いんだろう……」


 首をかしげながら、それでも私が仕事から帰ってくるまでには乾いているだろうという根拠のない自信を持って私は伏木分室に向かった。




 その日、帰宅した私はこのアパートに越してきて初めて生乾きの臭いを嗅いだ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?