この世界には、古くから囁かれる不可解な法則が存在する。
曰く、「ダジャレは、ダサければダサいほど、人を強く惹きつける」と。
その起源は謎に包まれている。古代文明の呪詛か、特定人類が分泌する未知のフェロモンか、高度AIによる種の保存戦略か、あるいは単に、退屈した神々の気まぐれか。いずれも俗説の域を出ず、学術的な裏付けは何一つない。しかし、この奇妙な現象は、否定しがたい現実として社会の隅々に浸透している。
「布団が吹っ飛んだ」の如き古典は、もはや歴史的価値を持つのみ。現代で異性を虜にする“超絶ダサいダジャレ”とは、論理性が皆無で、語感も悪く、なにより口にした本人すら「…これで、いいのか?」と微塵も確信が持てない、純度100%の“スベり”を内包した代物でなければならない。脈絡なき言葉の衝突、意味不明な連想、聞く者の頬を染めさせ、頭を抱えさせるほどの破壊力。それこそが至高であり、人々を不可解な熱狂へと誘うのだ。
この法則は、社会の様相を歪にねじ曲げた。
テレビでは夜な夜な「ダジャレ・キングダム」が生中継され、驚異的な視聴率を記録する。出場者は苦悶の表情で唸り、いかに常軌を逸したダサさを捻り出せるか、その一点に全霊を注ぐ。審査員は感涙に咽び「ブラボー! この圧倒的なダサさ! まさに天啓!」と賛辞を惜しまない。勝者は一夜にして時の人となり、富と名声、そして無数の異性からの熱烈な視線を一身に浴びる。
街には「ダサ力(ぢから)診断センター」が林立し、人々は自らのポテンシャルを数値化すべく長蛇の列をなす。「あなたのダサ力は38。基礎から鍛え直しましょう」といった辛辣な診断に一喜一憂し、更なるダサさを求める高額セミナーが後を絶たない。
恋愛市場への影響は、とりわけ深刻だ。容姿や経済力といった従来の魅力が無価値とまでは言わないまでも、「ダジャレのダサさ」が最重要ファクターとなる。初デートは互いのダジャレを披露し合うことから始まるのが常。そこで繰り出される言葉が、もし少しでも“面白い”あるいは“気の利いた”ものであれば、場の空気は瞬時に凍てつき、関係の進展は望めない。逆に、支離滅裂で理解不能なダジャレを放てば、相手の瞳は潤み、頬は紅潮し、「……す、素敵……」と感嘆の吐息が漏れる仕組みだ。
無論、この奇妙な潮流に誰もが与するわけではない。
先天的に、あるいは何らかのきっかけでダジャレのダサさに反応しない「無ダサ力症候群」の人々も少数ながら存在する。彼らはしばしば社会で異端視され、生きづらさを抱える。一方、ダサいダジャレへの渇望が病的レベルに達し、日常生活に支障をきたす「ダサ力依存症」も、新たな社会問題として浮上しつつある。
それでも、大多数の人々は、この不可解な引力に身を委ね、ダサいダジャレに心を震わせ、日々を生きている。ダサければダサいほど価値がある、という倒錯した価値観の中で。
そんな世界の片隅に、一人の男がいた。
名を、田中一郎。齢、五十二。
彼は、自らに眠る途方もない“天賦の才”に、まだ気づいていなかった。