翌日、登校前に恒例の喫茶店に寄った。昨日あんなことがあったというのに、(当たり前だが)マスターも喫茶店もいつも通りのモノクロームだ。
少し苦すぎるコーヒーを飲みながら、ハルはカウンター席で昨日あったことをマスターに話した。
「それは……大変だったね。龍の『影』か。それだけ具体的に、しかも複数となると、相当な数の人間を食ってきたのだろうね」
「そうなんでしょうね。もしかしたら、最近このあたりで増えてる『ノラカゲ』の正体はあいつかもしれない」
「その可能性は高い。気を付けることだよ。『ノラカゲ』は一度狙った獲物は食うまで逃がさないという話だ……それより、影子ちゃんは大丈夫なの?」
「影子は……まだ、影の中で休んでるみたいです。呼びかけても出てこなくて」
「そうか。君の『影』――イデアは、君とは違って相当好戦的なようだね。それが災いしないことを祈るばかりだよ」
「はい……僕が言って聞くような性格じゃないけど。ごちそうさまでした、師匠」
コーヒーカップとお代を置いて、席を立つ。気を付けて、と見送ってくれるマスターの声は、いつもより低く警告するかのようだった。不安に胸をざわめかせながら店を出る。
さて、学校に行くか。一ノ瀬の脅威も去ったことだし、影子はいないし、今日は快適なスクールライフが送れそうだ。
少し気分を明るくして歩き出そうとしたときだった。
「……っあー、よく寝た」
すう、と影から伸びた黒いセーラー服姿が、生あくびをかみ殺しながら伸びをする。
「影子! もう傷はいいのか!?」
慌てて詰め寄ると、げし、とすねを蹴られた。痛みに転げまわる。
「のおおおおおおお!!」
「近寄んな、ヘタレが移る。せっかくのサワヤカな目覚めが台無しだ」
「だからって、蹴ることないだろ!?」
起き上がりつつ抗議すると、影子はいつも通り、にやり、と笑った。
「目覚ましのベル代わりに愛するヘタレご主人様の悲鳴を聞きたい、そんなオトメゴコロです♡」
「そんなドSなオトメゴコロがあってたまるか! あーもう……その分じゃ、だいぶん良くなったみたいだな」
よかった、とは言わないでおく。
影子はうーん、と猫のように伸びをしてから肩をこきこきと鳴らし、
「まあ、2割、ってとこだな。HPゲージ真っ赤っ赤。外面は取り繕えるくらいにはなったけど、中身ぼろぼろよ?」
「じゃあまだ影の中で休んでた方が――」
言いかけると、影子がいつものようにがし!と頭を鷲掴みにして引きずってきた。そのまま意気揚々と歩き出す。
「冗談! 楽しい楽しい楽しい楽しい楽しいスクールライフを一日たりとも無駄にしてたまるかっつの!」
「いでででででで! わかった、わかったから離して!」
影子は大丈夫なのか大丈夫でないのかわからないままだが、ああ、いつもの影子だと無性に安心する。
影子の魔手から逃れつつ、いつも通りの通学路を登校した。教室に入ると昨日と同じで、誰も声をかけてくることはない。が、誰もが遠巻きに教室の絶対的支配者を眺めている。
しかし影子は支配者らしいことはなにもしない。ただ、自分の席にふんぞり返っているだけだ。それが逆にプレッシャーとなって教室中に緊張の糸が張り巡らされているようだった。
「あの……影子、さん?」
ふと、一ノ瀬が影子に声をかけてきた。昨日あんなことがあったにもかかわらず、大した度胸だ。しかしハルをイジメていたときの威圧感は鳴りを潜め、すっかり委縮している。取り巻きもおらず、完全に影子の支配下に置かれていた。
そんな一ノ瀬を、笑いながら睨む影子。
「んん? 昨日のリベンジか? いっちょキャットファイトでもやろうってか?」
「そ、そうじゃなくて! あの……便所飯、もうやめてくれませんか……?」
おそるおそる懇願する一ノ瀬に、影子は口元の笑みを更に深くした。
「ま、いいや。その代り……」
ずい、と組んだ上履きの足を突き出す。
「舐めろ」
おいおい、そりゃないだろ……と止めようとしたところ、それよりも先に素早く一ノ瀬がかがみこんだ。そして、ぺろぺろと影子の上履きの足を舐め始めた。
「一ノ瀬、さん!?」
驚いて目を見開くと、一ノ瀬は恍惚とした表情で上履きを舐めつつ、
「ああ、影子様、影子様……! ありがとうございます、ありがとうございます……!」
うわごとのように繰り返す。
こいつ、あまりのショックに開けてはならない扉を開けてしまったか……!
かつてのいじめっ子が立派なドМになり果てた姿を見て、思わず固まってしまう。
ひとしきり舐めさせたあと、影子は満足した顔で一ノ瀬のあごをつま先でどける。
「もういい。目障りだ、失せろ」
「影子様、なにかありましたらぜひ私に……!」
「失せろっつってんだ、アバズレ」
「はい!」
元気よく返事をすると、一ノ瀬はそのままひとりで教室を出て行ってしまった。
これにはクラスメイト一同、ドン引きである。
「奴隷げーっと♡」
「やめろ、こっちに向かってにこやかにピースサインすんな」
にんまりする影子から視線を外して、つくづくドSだなと再認識する。
すると、『陽』である自分はドMということになるが、それについては考えを先送りにしておく。
やがて授業が始まる頃には一ノ瀬も戻ってきて、いつも通り……とは少し違う日常がやってきた。一ノ瀬は昼休みも影子にまとわりつき、うざったそうに蹴られては喜んでいた。取り巻きは去っていったが、なかなか楽しそうだ。
そして放課後のホームルームの時間になった。担任が申し訳なさそうに言う。
「実はな、一週間後の学園祭、うちのクラスは不参加だったんだが、あまりに不参加のクラスが多くてな。なにかやらなくてはいけなくなった」
ええー!?と教室中でブーイングの声が上がる。ハルは、ふうん、とまるっきり他人事のように騒ぎを眺めていた。どうせなにをやろうが自分はズル休みをしてしまうと毎年決めているからだ。
「そこでだ、実行委員を決めなくちゃならない。だれか、やりたいものはいるか?」
途端にしーんと静まり返る教室。そりゃそうだ、あとわずか一週間でなにかを形にするための指揮を執るなんて、誰がやりたがるか。ただでさえめんどくさいのに、時間が足りなさすぎる。
お前やれよ、いや、お前が、と押し付け合う声があちこちで聞こえた。
その中で、す、とまっすぐに手を挙げる者がいた。
こともあろうに、影子だった。
「私、やろうと思います!」
決意に満ちた声ではっきりと宣言し、教室はざわめきに包まれる。
影子は今や教室の支配者だ。誰も反対などしないだろう。逆に、喜んで従うはずだ。
こそこそ、隣の席にないしょ話をする。
「……どういうつもりだよ!?」
「んー、楽しそうじゃん? いかにも青春! って感じだし。それに、今のうちに連中に主従関係ってヤツをはっきりさせとかねえとなあ」
にんまり、隠れて笑う影子。
こいつは、教室での支配力を更に強固にするためにこのイベントを利用する気だ。楽しそう、というのはあくまでついでの理由だろう。
「おー、そうか、塚本がやってくれるか。じゃあ、後の進行は塚本に任せようかな」
そう言って、担任は職員室に帰っていった。