『婚約破棄の嘘をつく』という方法を思いついたのは、壮太が帰った後だった。
東雲壮太、私……一ノ瀬乙羽の婚約者で、愛する人。
中学生の時、私は彼のいる学校へ転入した。
それ以来、彼は私にずっと、ずっと、気持ちを伝えてきて……そして彼が大学卒業を間近に控えたとき、婚約を交わしたのだ。
優秀さは折り紙付きで、父や母だけでなく祖父母や親戚一同、社員からさえ期待されている。文武両道、5か国語を勉学だけでマスターし、弓道の腕前も一級品だ。それに、一ノ瀬グループの借金のことさえも知っていて、それこそ粉骨砕身で働くと宣言している。
それだけじゃない。
それだけで、私は彼を婚約者に選んだわけじゃない。
借金のことを知っていた私は、自分のことをいつも悲劇的に考えていた。だから恋愛なんてするべきじゃないと思って、親が決めた相手ならどんなに年上でも嫁ごうと思っていた。
だから告白されそうになったら真っ先に逃げたし、言葉で拒否することも一度もしなかった。
それも、恋愛のうちに入ることだと思っていた。
たいていの男の子は、逃げてしまえばあきらめてくれるし、無視し続ければ声をかけることさえなくなった。
なのに、何度も告白してくれたのが、壮太だった。
私のことをとても愛してくれていて、どんなにちょっとしたことでも、私と話し合おうとしてくれる。私が困っていたら、さりげなく助けてくれる。私を愛して、私だけに優しいことも知っている。
私は怖くて早々話すことさえできないような方からも、とても褒められる彼が私にしか甘い顔をせず、自分が濡れてでも傘をさしてくれる。その全部が、私を幸せにしてくれる。
私は壮太と、付き合うことを決めた。
そんな私は、間違いなく、幸せだと思う。
でも。心のどこかで、私が囁くの。
── 嘘じゃないの? 本心なの? どうしてそんなにも愛してくれるの?
── 私はただの、一ノ瀬グループの女児というだけなのに。
愛が怖かった。東雲壮太、彼の、捨て身ともいえる愛が怖くて怖くて、たまらなかった。
「どうして私が好きなの?」
「乙羽が乙羽だからかな」
「理由になっていないわ……」
「……好きって、理由が必要な感情?」
壮太が、私の目を見てくる。私は思わず、そこから目をそらしてしまった。
分からなかった。
私は恋をしたことがない、しようとしなかったし、最初からあきらめてしまった。壮太に愛されて、好きだと言われ、そしてやっと頷いた。幸せになりたいから、頷いた。
でも。
果たしてそれは、本当に壮太を愛しているということになるのだろうか。
「お嬢様、マーク・フォレック様がいらっしゃいましたよ」
本当に、私は。
「お嬢様?」
「っ、ごめんなさい! 壮太が帰ったとこで、ボーっとしてしまったの」
「おやおや。この爺はもう少し遅れてくるべきでしたな」
斎藤は、私が壮太ともっと一緒にいたいとでも思ったのだろう。微笑ましいものを見るように目を細めると、そそと私を案内し始めた。
マーク・フォレックは、私の幼馴染だ。フォレック株式会社の次男で、今日から一週間日本に滞在するという。その間には、壮太と一緒に会う約束もしていた。
「やあ、乙羽。久しぶり!」
「マーク! 日本語が上手になったわね? 前あった訛りが、全然感じられないわ!」
「ふふっ。ありがとう、実は今度、父の手伝いをしながら日本支社で修行することになったんだ。東雲壮太君かい? 彼の優秀さはいつも君のお父上から話を聞いていて……彼に負けたくないと思って頑張ったんだ」
嬉しそうに笑うマークは、金髪にグリーンの目を持つ、明らかな美青年だ。でも私はその美貌に、ドキリとしたことがない。同じ仕草をした壮太だったら、どうだろう。
想像すると、顔が勝手に赤くなる。
「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい。壮太のことを思い出して……」
「本当に君たちは仲がいいねぇ、羨ましいや」
「……あの、マーク」
この気持ちは、恋なのだろうか。
この気持ちは、愛なのだろうか。
「明日の壮太との顔合わせの、打ち合わせをしましょう」
「もちろん!」
マークとの結婚なら、理由がたくさん思いつく。たとえばフォレック社は大手であり、技術開発力もあるから、この先新たに財源を獲得できる。それに血筋も立派で、幼馴染の私と次第に仲良くなったという筋書きは多くの人から納得してもらえるだろう。
なんだ、その方が。
その方がよっぽど、一ノ瀬乙羽らしいんじゃないのかしら?
……そして私は、壮太への裏切りを演じることを決めた。
「はじめまして。東雲壮太と申します」
「はじめまして。マーク・フォレックです。ええと、イントネーションがあってるといいんだけど、東雲壮太、でいいんだよね?」
「そうですよ。乙羽とは幼馴染って聞いています」
和やかに会話する二人に、私もニコニコと笑みを浮かべる。
斎藤をはじめ、メイドたちには外に出てもらっている。今、このサロンにいるのは、私と壮太、マークの三人だけだ。
「壮太」
「なに、乙羽?」
「話があるの」
ぱちくりと目を瞬かせる壮太に、私は言う。
「私との婚約を破棄して、マークと結婚するから」
「っ!?」
目を見開いたマークが、悲鳴を飲み込んだ。信頼できる友人だから、こんな真似をしても彼なら黙っていてくれると思った。
壮太が本当に私を愛しているのなら、きっとこの婚約を阻止してくれるはずだ。
壮太が本当に私を好きでいてくれるのなら、きっとこんなこと、止めてくれるはずだ。
そう願った私に、壮太はいつものように微笑んだ。
「分かった」
「……え?」
「そんな顔しなくていいよ、乙羽。大丈夫だ、手続きは全部俺がするから」
頭が真っ白になって、何も答えられなくなった。
分かった、今、彼は、そう言った。マークが酷く困ったような顔をして、壮太に言う。
「済まない、壮太君。実はこれは……」
「フォレック社は直に新型のバイオ燃料の発売をするんだろう? 俺が聞いている限りでも、おそらく一ノ瀬グループの借金の補填になるほどの額を稼げるはずだ。一ノ瀬グループの借金のことをは、俺もすごく悩んでいたから……。これは仕方のないことなんだろう?」
「いや、そうじゃないんだ。その、乙羽。君から言うべきだよ! 彼と僕の顔合わせの場だろう?」
マークは、私の背を叩く。その腕に、思わず縋り付いた。
言えない。
言えるわけがない。
嘘だなんて、言えるわけがない。言ったら壮太がどんなことを言うのか、分からなくて、怖い。
「乙羽」
マークが困りはてて、壮太の方を向いた。
「壮太君、違うんだ。今、乙羽が言ったことは」
「嘘、だと?」
「そう。そうなんだよ。……乙羽は、凄く不安になっていたみたいなんだ」
必死に言葉を探す顔で、彼はつづけた。
「そう! その、君の気持ちを、確かめたいって。僕はそれに協力して、フォレック社のものとして恥ずべき行為だとは思うけど、友人の気持ちを手助けしてやりたかったんだ」
マークの優しさがにじみ出た言葉に、嬉しくなる。私は、もう、私自身が分からなくなっていた。
壮太はなんで、何も言わないのか。マークの言葉の方が、よほどうれしかったのはなぜなのか。
もう、分からない。
「……乙羽、彼が言っていることは、本当?」
頷かなくちゃいけない。頷かないと、私の言葉が肯定できない。
「乙羽」
壮太の優しい声に、私は彼の目を見た。
「嘘よ」
「乙羽!?」
驚くマークの前で、私の口がすらすらと動く。
「いつも思っていたの、どうして私のことをそんなにも愛してくれるのか、全然分からなかった。好きと言う感情に理由が必要ないなんて、私には分からない! 一ノ瀬の財産を狙っているって言ってくれた方が、まだましだった!! 私はあなたの何なの!? なんで私なんかを愛するの!? どうして、どうしてなの!?」
壮太は私を、じっと見つめていた。
私の口は、止まらない。止まってくれない。
「私なんかのために、どうしてそんなに頑張れるの!? どうして私をそんなに愛せるの!? わかんない、分からないよ! 壮太のことが、分からない!!」
目を閉じた壮太は、何も返してくれない。私は俯き、壮太の言葉を待った。
壮太が私を愛しているのなら……彼はどう言うの? どんな言葉を言ってくれたら、壮太が私を愛している証拠になるの? どうやったら私は、納得できるの?
「……分かった。乙羽、会長に話をしてくる」
「壮太君!?」
「マークさん。こんなことに巻き込んで、本当に申し訳ない。僕が……俺が、乙羽のことを、何もわかってやれなかったんだ。何も、伝えられなかった。きっと今までたくさん我慢させていたんだと思う」
我慢?
ああ、そうか。そうかもしれない。
一ノ瀬グループの借金のこと、一ノ瀬という名字のこと。その全部を重く重く考え込んで、私は……我慢に我慢を重ねたんだ。
「ごめん、乙羽。しばらく婚約を解消して、お互いに考える時間を持とう。思えば、中学高校くらいの年頃で、そのまま結婚までこぎつけるような真似をした俺が、バカだったんだ」
壮太は言い終えると、席を立った。
彼が出て言った後、マークも席を立って、私の方を複雑そうな顔で見た。
「乙羽。彼とちゃんと話をしなきゃ! このままじゃ、彼と二度と話せないかもしれないんだよ?」
「いいの」
「乙羽!」
「いいのよ! もう!! だってあの人、婚約破棄をするって言っても、私に泣いてすがりさえしなかったじゃない!!」
その瞬間。マークの手が、私の頬を打つ。
「Are you out of your mind!?」
『正気なのか!?』という彼の声に、私はもう、どうしていいか分からなかった。思わず、といった様子で、マークが地団太を踏む。
「君は彼に泣いてすがってほしかったのか!? 馬鹿じゃないのか!? 確かに、愛されすぎて怖くなることはあると思うよ! でも! 君がしたのは話し合いじゃない! あれは彼をだます行為だ! そして……僕も!!」
「ごめんなさい」
「今すぐそれを壮太君に伝えておいで! 大丈夫だよ、間に合うから! 乙羽!」
「ごめんなさい」
何を言っていいのか、もう分からなかった。座り込む私に、マークがついに、しびれを切らしたらしい。
「君がこんなバカな人だとは思わなかった! もういい、僕が彼に話をしてくる!!」
飛び出していくマークを、追いかける気力さえ湧いてこない。
そして。そして壮太は、行方不明になった。
懸命の捜索にも関わらず、彼の行方はちっともつかめず、半年が過ぎた。
私は、後悔なんて言葉では片付かないほど、自分のことを責めていた。マークとは仲が悪くなり、もう口もきいてくれない。でも、マークは、私のことを何も言わなかった。
けれどそれは……私への罰なんだろう。
壮太を傷つけ、何も言えず、混乱した私への罰。家族は私のしたことを、マーク経由で聞いているのか、以前にもまして私への厳しい教育を行うようになっていた。
でも。
でもだれも、私を責めなかった。
その苦しさと後悔に怯えながら、半年と2週間が過ぎたころ、警察から連絡があったのだ。
東雲壮太さんが、見つかりました。
池の中で、焼死体になって、見つかりました。
生前受けた手術痕が、彼のものと一致しました。
これにて、捜索は、打ち切りとなります。
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壮太の死が判明してから……数週間後。私の希望で、壮太が行方不明になってから最後に会ったという友人……木下武人さんにお会いした。平凡な顔立ちの、どこにでもいそうな青年だった。
だけど。
だけどその目は……どこか、壮太に似ていた。
そのせいだろうか。私の口から、どんどん言葉が零れ落ちる。
「婚約破棄なんて、嘘なの。あの人の愛があまりに深くて、怖くて、思わず試したの。昔から、マークは友達だったから、協力してくれて。あの人が、まさか、別れを了承するなんて、思わなくて」
ふと顔をあげると、彼は何の興味もなさそうに、私を見ていた。
「お話は、以上ですか?」
え、と私は目を見開く。
「俺は壮太ではありません。俺は壮太ではないのです。謝罪もお話も、なんの意味も持たないのです」
来た時の無表情のまま、彼が立ち上がる。
「ごめんなさい」
その声を最後に、彼は店を出ていった。
「……どうして彼は、怒らなかったのかしら」
「怒っていただきたかったのですか?」
斎藤の静かな声に、私は気が付くと頷いていた。
ああそうだ。私は彼に、壮太が最後に会いに行ったという友人に、怒ってほしかったのだ。
あの後、忽然と、壮太はいなくなった。どこを探しても見つからず、日本各地の探偵に巨額の報酬と引き換えに探してもらった。でも、見つからない。
彼が行きそうなところ全てに向かったけれど、どこにもいなかった。
そうこうしているうちに、壮太は行方不明者として警察も探すところになった。
壮太のご両親は、私たちの家族の元に面会に来て、土下座した。あの壮太の両親だと分かる、よく似た二人。壮太の方から突如、婚約破棄を申し出た挙句、自殺したことに対する、謝罪のためだという。
両親は私にも同席するよう強要した。当然だと思う。それが、自然。それが、普通。
いえ。
これは、罰なのだ。
「この度は、我が息子が誠に申し訳ないことを……!」
「本当に、本当にすみません……申し訳ありません、お許しください、お許しください!!」
泣き叫ぶご家族を前に、私はその時やっと、自分がしたことの恐ろしさに気が付いたのだ。
愛を試す?
なんて浅はかだったんだろう。壮太がどんなに頑張っていて、どんなに皆に愛されて、どんなに頼られていたのか。何も知らず、何もせず、ただただ「愛されすぎて怖いの」なんて言っていた自分のおぞましさに気が狂いそうだった。
両親は私へ、お見合いを持ってくることはなかった。今まで以上に厳しい勉強が始まり、そこで私は気が付いた。
壮太が背負っていたもの。
壮太がずっと頑張っていてくれたこと。
そのすべてを、今度は私が頑張らなくてはいけないこと。
壮太の死が確かになってから、居ても立っても居られなくなり、最後に壮太に会ったという彼へ会いに行った。それは、叱咤激励を求めていたのかもしれない。彼からの怒りを求めていたのかもしれない。
でも彼は、何も怒らなかった。
何も言わなかった。
無表情のままだった。
「……ねえ、彼は、何も、知らなかったのかしら」
「乙羽様?」
「だって変でしょう? 友人が死んで、その原因が目の前にいるのに、どうして、どうして何も言わなかったの? まさか、彼が、壮太を……殺……っ!!」
斎藤の手が、私の頬を激しく打った。
「乙羽様と言えども!! 言って良いことと、悪いことがあります!!」
「でもっ」
「彼が壮太を殺して何になりますか!! 死ぬ前に壮太さんがお会いしたいと思うような素晴らしい友人だった彼に、彼になんという、なんという疑いを……っ!!」
私を小さいころから可愛がってくれた斎藤が、泣いていた。彼が泣いていたのは私が初めて、運動会で一番をとった時とか、家庭教師のテストで100点を取れた時とか、私が初めてケーキを焼いた日だとか、本当に限られたことばかりだった。そのたびに斎藤は「お嬢様の成長が嬉しいのです」ととても私を褒めてくれた。
でもこの涙は違う。あの、暖かい、嬉し涙じゃない。
失望の、涙だ。
「ごめんなさい」
ねぇ壮太。
私は、どうしたらよかったのかしら。
どうしたら、あなたと、あのまま、笑いあえたまま過ごせていたのかしら。あなたの愛に、疑問の1つも持たないままに暮らしていればよかったのかしら。愛されているからそれでいいと、割り切れていたらよかったのかしら。
何も返せない私が、そのままあなたからの愛を、浴び続けてよかったのかしら。
守られてばかりで、よかったのかしら。
あなたは私のこんな気持ちを、分かっていて、それでもなお愛していたのかしら。
もう聞けない。
もう、確かめられない。
「ごめんなさい」
マークの言葉が、今更のように胸を串刺しにしていく。そう、話せばよかった。どんな下手な言葉でも、あなたに伝えればよかった。私のこの、胸の奥に閉じ込めた言えない何かを、伝えようとすればよかった。
そうすれば。
そうしていれば。
あなたは、死ななかったかもしれない。
「そうた」
もういない。あなたは、この世の、どこにもいない。