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第43話 進み続けること

「ここらで――いいかな? マリア」


 人の少なそうな丘にある公園へ滑らかに着地すると、アキは霊翼を虚空に散らしてマリアに言う。

 マリアは周囲を見回して、気に入ったのか満足そうに「うむ」と頷いた。


 そうしてアキは若干の疲労を覚えて、近くのベンチに腰掛ける。


 近くに自販機の明かりが見えて、アキは喉の渇きを覚えたが、あいにく財布を持っていない。

 すると、それを察したのかマリアがこちらを見た。


「コーヒーでいいな? 私も飲む」

「紅茶じゃないんだ」

「こっちに来てからは淹れてくれる者がいなかったのでな」


 言われて、アキは気まずくなって首を竦める。

 彼女のお茶を淹れるのは自分の仕事だったからだ。


 ほどなくして、冷たい缶コーヒーを2つ持ってきたマリアから片方を渡される。


「ありがとう。……それとごめん」

「冗談だ。寝不足の頭にはこれが効く。私もこの世界に慣れた。5年だ。異なる世界へと渡るという歪みが生み出した、私たちの空白は長かったな」



 ふっと笑うマリアは缶コーヒーの栓を開けて、一口飲んだ。

 それに合わせてアキも同じようにすると、無糖のコーヒーの苦みが口いっぱいに広がる。


 買ってもらったマリアには悪いけれど、少しこの苦みは苦手だな、とアキは手元を見下ろした。


 すると、マリアは少し歩いて落下防止の柵に手をかけて、景色を見ながら口を開く。


「夜でもこんなにも街が明るく、よく見える。しかし、こうして見える景色も、世界の一片でしかない。馬よりも早く駆ける乗り物があり、鳥よりも高く、そして遠くに行ける乗り物もある。金さえあればこの地球という星のどこへでも行ける。本当にこの世界は広い」

「……うん」


 アキが俯いたまま相槌を打つと、マリアは振り返ってこちらを見た。


「そんな世界に、たった1人、放り出された私の気持ちがわかるか?」

「っ……」


 その問いにアキは顔を上げる。

 マリアのお人形のように美しい顔に邪気はない。


「ごめん」


 言い淀んで、アキは今言える精一杯の言葉を吐き出した。

 マリアはその答えに少しだけこちらに近づいてくる。


「なんの手立てもなく、ただ待ち続けるしかなかった私の気持ちがわかるか?」

「……ごめん」


 ぐっとアキは歯を食いしばって、彼女の心の痛みを察した。

 同時に、そうさせてしまった自分自身の胸も痛くなる。


「やっと同じ世界にたどり着いたお前が、記憶を失っていると聞いたときの私の気持ちがわかるか?」


 問いと共に、マリアはぐっと近づいてきて、ベンチに缶コーヒーを置いて見下ろしてきた。


「……本当にごめ――わっ」


 自分には謝ることしかできない。

 言葉を重ねようとした瞬間、アキはマリアに頭をぎゅっと抱えられて、その豊満な胸の中に顔を埋める。


 そうして、しばらくマリアが髪を撫でてくるのに身を任せていると、涙声が聞こえてきた。


「お前にはわかるだろう……。ひとり、別の世界に呼び寄せられ、戦うことを強いられたお前ならば。辛かっただろう。痛かっただろう。私はそんなお前を責めた。私は素直になれなかった。私はお前を守り続けてやれなかった……」


 その言葉を聞きながら、アキは鼻孔にマリアの香りをいっぱいに吸い込む。

 すると、安堵とも悲しみとも、そして後悔とも言える感情が溢れてきて、目頭が熱くなるのを感じた。


「君は頑張ってくれた。君の気持ちは伝わってたよ」

「それでも、私はずっと言えなかったことを悔いていたのだ。だから、今こそ言わせろ」


 マリアは抱えていたアキの頭を解放して、滑らせるように両手で顔を持つ。


「好きだ……。愛している。慕っている。言葉では言い表せないほどに、お前を渇望していた。お前にならば、この身もこの心も……全てを差し出して良いと、今ならば言える」


 泣きながら紡がれた愛の表現に、アキは思う。

 どう応えるべきか。不器用な自分ではわからない。けれど、彼女のことならばわかる。彼女ならばこういうだろう。


 ――受け入れろ、と。


 だからアキは言葉ではなく行動で示した。

 その華奢な体を抱きよせて、近づく顔に触れて、受け入れた。慣れない口づけを。


 コーヒーの香りがして、けれど、その中に彼女の唾液の味を感じて、それがとても愛おしい。

 気がつけばマリアはアキの膝の上にいて、無我夢中でお互いの舌を求め合った。


 しばらくして、呼吸のために唇を離すと、粘る唾液が糸を引いて落ちる。


 そこでマリアは少し気恥ずかしくなったのか、頬を赤らめて顔を背けた。

 だが、改まったようにすぐこちらを見て言う。


「今度こそ、私のものになってもらうぞ。アキ」

「君が願うなら、君の何にでもなるよ。僕は」

「ならば私の夫として、私の騎士として、私だけの勇者として誓え」


 マリアはアキの膝から降りると、一歩退いて手を差し出してきた。

 なにをするのかをアキは察して、【無銘】を顕現させる。


 そして、ベンチから降りて膝立ちになり、勇者である証である刃を両手で持って捧げた。


 マリアは恭しく、それを受け取る。


「汝、我が夫となり、我が騎士となり、我が盾となることを望むか」


 マリアは剣とは言わなかった。

 それが、彼女の望むことならば、とアキは頭を垂れる。


「望むよ」

「汝、我が庇護の下、この世界のわずらわしきもの全てから守られることを望むか」


 異世界での騎士叙勲では聞いたことのない祝詞。

 主人が騎士を守るという矛盾した言葉に、アキは少しだけ笑ってしまう。


 だが、答えは決まっていた。


「君が望むなら、僕はその全てを望むよ」

「よろしい」


 マリアが刃をアキの首に当てる仕草をして、剣を返してくる。

 それを受け取ったのち、鞘はないものの剣をしまうようにして【無銘】を光として散らすと、アキは立ち上がった。


「……ステラ」


 本当の名前で呼びかけると、マリアは首を横に振る。


「その名は捨てた。……世界を渡るときに、魔力を失ったのだ。この髪と瞳もその影響だろう。お前のくれたあの布がなければもっと大事なものを失っていたかもしれん」

「そっか……」

「で、どうだ?」

「え?」


 不意に訊かれて、アキはぽかんと口を開けた。

 何を訊かれているのかわからず、そのまま呆気に取られていると――。


「今の私はどうだと聞いている!」


 ――怒られた。


 理不尽だ。愛し合っていると確かめたはずなのに、容姿が変わってしまったことを気にしているらしい。


「えっと、その……すごく、綺麗だよ。髪も目も……」

「胸はどうだ!」

「えぇ……えっとぉ……や、柔らかかったです」

「夫としてどうかと聞いているのだ!」


 なんだか話が変な方向に向いてるけれど、こんな性格だったなぁ、とアキは思う。


 これに答えると次はお尻とか唇とか、はたまた香りはとか言い出すのだろう。


「聞いているのかアキ!」

「ふふ……。あはは!」

「なにを笑っている!?」


 彼女は変わっていない。年齢も容姿も変わってしまったが、彼女は彼女のままだ。

 そして、アキ自身もまた、だんだんと自分を取り戻している。


 きっと、もっと取り戻すべきものはいっぱいあるのだろう。


 けれども大丈夫だ、とアキは思う。


 一番大事なものを取り戻せたのならば、一番愛おしい彼女がいてくれるのならば。

 広く、そして未だ慣れないこの世界でも迷うことはない。異世界でもそうしてきたように。


 1歩ずつ、進んでいけばいいのだ。


 異世界から帰ってきた自分が、夢想と現実の境界で戦うことになってしまったとしても。


 アキはまた、進み続けることを選ぶのだった。

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