完全な不完全――それは『ひとがた』
気がつけば見知らぬ山の中だった。
慌てて車のブレーキを掛けた。
時刻は午前二時を過ぎている。
静寂の中、ヘッドライトだけが、行く手の深い闇を照らしている。
底知れない夜気の漂う道は、車がようやく通れる幅だった。
カーナビは青梅市のN街道にある吹上峠を表示していた。
道の先に、古いトンネルが黒い口を開けている。
どうやら廃道に迷い込んだらしい。
往来が絶えて久しい路面には、青々した葛植物が繁茂し、道の両側から木々の枝が覆いかぶさっている。
よく見れば枝は枯れ、白々とした枝にも蔦植物が絡み付いていた。
突然、エンジンが止まった。
いくら始動させようと試みても無駄だった。
ボンネットオープンレバーを引いて車外に出た。
木々に切り取られた空に月どころか星影すらなく、辺りは真の闇だった。
トンネル内の壁を伝って流れ落ちる水の音だけが、微かに聞こえてくる。
その音に交じって……。
シュ……シュ……
トンネルの奥から、水音とは違う音がかすかに聞こえてきた。
シュ……シュ……シュル
ひそやかな音がしだいに明確な音に変わっていく。
衣擦れのような音だった。
背中をゾワリと悪寒が走った。
音がピタリと止んだ。
耳を澄ませたが、もう水の音しか聞こえない。
気を取り直してボンネットに手をかけたときだった。
シュル、シュル、シュル
突然、音が間近に聞こえてきた。
息を詰めてトンネルの中を凝視した。
光る影がおぼろげに見えた。
しだいに輪郭を形作っていく。
漆黒の闇から何者かが立ち現れる。
シュル、シュル
衣擦れの音のみで足音は無かった。
ライトの中に、花嫁衣裳のような白無垢に身を包んだ女の姿が浮かび上がった。
不自然なほどの白さが闇に輝きを放つ。
気配がまがまがしい。
女がこちらに視線を向けぬまま口を開く。
「お迎えにまいりました」
優しい声音が闇に広がって解ける。
女の目が闇の中、燐光のようにきらめく。
綿帽子を被っているためハッキリ見えなかったが、雪のように白い肌を持ち、人形のように丹精な顔をした若い女だった。
女には、黄泉路から引き返してきた者が持つ忌まわしさがあった。
滑るように車に近づいてくる。
「アッ」
肩先をトンと突かれただけで吹っ飛ばされ、背中から車の前面に激突した。
態勢を立て直して、得意の空手技で攻撃を掛けた。
だが女は柳のような身のコナシで飄々とかわす。
打ち掛けの長い袖が、引きずる裾が、白い光を放ちながら闇に舞い踊る。
夢の中のように現実味が無かった。
攻撃は手もなく、やり過ごされる。
息が切れる。
胸が痛い。
悪夢の真っただ中にいるようだった。
だが、打撲による背中の痛みが現実だと教えている。
辺りを覆う湿った闇に、ジャスミンに似た花の香りが匂い立つ。
車内から警棒を取り出した。
フリクション・ロック方式の警棒を勢いよく振り出す。
鋭い金属音が静寂に響いた。
警棒で女の二の腕を強打した。
だが、手応えだけで、ダメージを与えられなかった。
女の体の背後に冷たい炎が燃えさかる。
鬼気迫る姿に気圧される。
人智を越えた化け物に対しては畏怖の念を抱くしかなかった。
舌がこわばる。
深呼吸をして胸の鼓動を抑えた。
どうあっても……守る!
コメカミを流れる赤い血潮が波打つ。
一点に気を集中して警棒を振るった。
渾身の一撃が女の額を強打する。
パリン
陶器が割れるような音が響いた。
綿帽子の純白が光を放って宙を舞う。
黒髪に縁どられた女の顔があらわになった。
パックリ割れた額から、鮮血がタラタラと流れ出す。
「よくも、わらわの顔を……」
右手で傷口を押さえ、激しい怒りに顔を歪ませる。
「どうしてくれようぞ」
女の左手の指が突き出された。
文金高島田に結い上げられていた髪が解け、虚空に広がっていく。
「ウッ」
足が地面に縫い止められたように動けなくなった。
握りしめていた警棒が、カサリという音を立てて、蔦植物の海に落ちた。
足元に茂った蔓が伸びて体に巻き付いてくる。
足首から下が、火に炙られたように熱くなる。
絡んだ蔓が燃えている。
「ジワジワ焼き殺してやろうぞ」
女がけたたましい笑い声を上げる。
炎は一気に燃え上がることなく、足首からフクラハギへと、しだいに這い上がってきた。