「ああ、ダメだ! まだ……まだ消えないでくれっ!」
僕は湯船につかりながら慟哭する。
包み込むように形作った掌の内には、角を丸くしたスクエア型の固形物があった。それは小さな気泡を放ちつつ湯の色をかえる。
しばらくするとラベンダー色に染まった水面から優しい香りが立ち上りはじめ、蓄積したストレスと疲労が溶けていく――しかしその献身の代償として、刻一刻と身を削り小さくなっていく固形物。
やがては泡沫に消える運命。
嗚呼、なんと悲しき結末か……まあ、ただのバスタブレットの話なのだけど。
毎度思うが、入浴剤が消えさる時の喪失感は異常だ。できることなら一生そばにいてほしいのに。
「ふう〜。いい湯加減だぜ」
茶番にも飽きてしまったので、僕は足を伸ばして肩まで湯につかった。備え付けの小窓からのぞく夜空では星が瞬いている。
いまはイベントダンジョン中層へ到達した日の晩だ。一日がかりで中層へ到達し、ダンジョンを脱したのが本日の明け方頃。それから始発で帰宅し、さらに半日ほど爆睡して現在に至る。
「……さて。疲れも取れてきたし、そろそろ上がろうかな」
当然ながら『JPタウン』を出て現実の肉体へと戻ったわけなのだけど、その際一瞬にして疲労困憊状態に陥った。現実の肉体とアバターはある程度リンクしており、ステータス補正によって軽減されていた疲労が一気に襲ってきたのである。
けれどそのダメージも、睡眠と長風呂のおかげでだいぶ癒すことができた。
そんなわけで、僕は体がしっかり温まったところで風呂からでる。次いでスウェットに着替え、喉を潤すためキッチンに向かう。
「あら夜月、いいタイミングじゃない。呼びに行こうと思っていたところよ」
「んー?」
冷えた麦茶をコップに注いでいると、同空間にあるリビングの方から秋穂さんの声が飛んでくる。見ると、ソファに座りテレビへ視線を向けているようだった。
「生放送でダンジョン特集やってるわよ。なんか、イベントのやつだって」
「え、マジで?」
僕がコップを持ったままそばに寄ると、秋穂さんは「ほら」と言ながらリモコンでテレビを指し示す。画面左上には『新人育成イベント・緊急生特番!』というタイトルが表示されていて、それを教えたかったようだ。
『本日は予定を変更して、現在開催中のダンジョンイベントについて特集していきたいと思います。それでは早速、お呼びしたゲストをご紹介いたしましょう――』
本当にグッドタイミングだったらしい。MCを務める男女が報道番組風のスタジオ中央でオープニングトークを繰り広げ、次のゲスト紹介パートへ移るところだった。
「突っ立ってないで座って見なさい」
「うん」
テレビに視線を固定したまま隣に腰をおろす。それと同時に、僕は思わず「おっ」と声をあげる――画面には椅子にすわる三人のゲストが映しだされており、その内の一人が超有名な男性冒険者だったのだ。
ややあって、注目の人物の顔がアップになる。
『最後のゲストの紹介です。本日は、国内屈指の実力派冒険者である「無雲彰志(なぐもあきし)」さんをスタジオにお迎えしております。無雲さん、お越しいただきありがとうございます』
『こちらこそお呼びいただき光栄です。国内屈指の実力には遠く及びませんけども、有益なコメントができるよう可能な限り努力したいと思います』
無雲彰志(なぐもあきし)。
本人は否定しているが、その自己評価は低いと言わざるを得ない――彼は間違いなく、日本が誇るトップ冒険者の一人だ。
歳は三十代前半。清潔感のある黒のミディアムヘアに、涼しげな目元が印象的なイケメンである。優れた実績もさることながらビジュアル面でも人気が高い。
今はスーツを着用しているが、僕としては高品質の装備品で身を固めている姿のほうが馴染み深い。
『またまたご謙遜を。無雲さんのオールラウンドな戦闘スタイルに憧れる方は大変多くいらっしゃいます。また新人のころより不断の努力を積み重ね、見事に才能を開花させた現在は日本ダンジョン界を代表するスタープレーヤーの一人として活躍なさっています』
『過分な評価をいただき恐縮です』
MCの発言にもあったように、無雲彰志は〝努力の人〟として一般に知られている。
自身はただの凡人でしかなく、天才と呼ばれる冒険者と張り合うには尋常ならざる努力をつみ重ねる他ない――昔読んだインタビュー記事よれば、彼は早期にそう悟ったのだという。
そして実際にどう努力したかというと、ひたすらダンジョンに籠もったそうだ。
聞くと大したことじゃないように思われがちだが、侮るなかれ。その籠もり方が半端ではない。なんと月の半分以上をダンジョン内部で過ごし、残る時間は『JPタウン』に滞在した――つまり、現実生活を完全に切り捨て鍛錬に明け暮れたのである。
真似をする者は後を絶たないが、三ヶ月も保てばいい方だ。ところが無雲彰志は、冒険者登録をしてから五年近くそんな生活を続けた。
控えめに言って狂人の類いだ。
平然とそれをやってのけた彼には、敬意を込めて『ミスターストイック』という二つ名も送られている。
しかも、今もたゆまぬ努力を継続中とネットでは噂されていたので、こうしてテレビでお目にかかれるのは嬉しい驚きである。
『さて、卓越した冒険者として勇名を馳せる無雲さんですが、大人気クランである「エンデバー」のマスターとしても手腕を発揮されていますね』
『おかげさまで頼もしい仲間に恵まれ、切磋琢磨しながら充実の日々を送っています』
『そうですか。そのエンデバーですが、ルーキー加入の件で世間の話題をさらったことはまだ記憶に新しいところです。とりわけ「美しすぎる冒険者・風宮凛さん」の注目度は非常に高く、その実力のほどが気になっている方も多いのではないでしょうか。無雲さん、ずばり如何でしょう?』
『風宮さんは人柄も素晴らしく、極めて高いポテンシャルを秘めた冒険者です。彼女も今回のイベントに参加しているので、個人的にはユニークスキル獲得の大本命ではないかと考えています』
『なるほど。噂通りの逸材なのですね』
そう。無雲彰志は個人としての抜きんでた実力に加え、優れた統率者としての一面も兼ね備えている。
もともとエンデバーは弱小クランだったそうだ。それを国内でも五指に入る実力者集団へと押し上げたのは、誰あろう二代目マスターの彼である。
そのうえ僕の命の恩人、風宮凛の所属するクランでもある。彼女は一月ちょっと前の冒険者デビューと同時に加入したのだけれど、その時はちょっとした騒ぎになった。
『続いては、現在開催中のダンジョンイベントへ焦点を当てていきたいと思います。今回は「新人育成に重きをおいたイベント」とのことですが、まずは概要のおさらいをしましょう』
無雲彰志に対する質問が一通り終わると、MCの誘導に従って次のコーナーが始まる。
女性アナウンサーがモニターやフリップを活用して、該当イベントの要点をわかりやすく説明していく。時折ゲストのコメントを挟み、番組は和やかに進行する。
「ふうむ」
特に目新しい情報はなかったものの、無雲彰志の含蓄あるコメントに思わず聞き入った。
才能豊かな冒険者は、ステータスを獲得した時点で特定の能力値が突出して高かったりするそうだ――しかし、凡人である彼の初期ステータスは人並み以下だったという。
僕もまた、同じ持たざる者。
それゆえ、彼の経験に基づくコメントがやたら心に刺さる。
『それではここで、スペシャルコーナーに移りたいと思います。なんと本日は、ダンジョンを創造した「異人」ことゲームマスターと映像がつながっております』
「……この番組、攻めすぎだろ。生放送だよな?」
番組も三十分が過ぎて後半に入ると、MCの口から驚きの発表がなされた。これはなかなかの珍事だ。
ゲームマスターは過去にテレビの生放送で、なんの脈絡もなくダブルピースをかましながら『Fワード』を連呼した前科がある。本人は後に『やってみたくなったからやった。反省も後悔もしていない』などと供述したらしい。
そのため、昔はともかく今では一般メディアへの登場はかなり稀だ。
自身が携わる媒体は総じて真面目に運営しているわりに、他では何かと奇行が目立つ男なのである。
実際に対面して悪くない印象を抱いている僕でさえ、何かアクシデントが起こるのではないかとハラハラ。
「げぇ、なんであのおっさんが出てくるわけ? ご飯の支度するわ」
俄然前のめりになる僕とは反対に、心底嫌そうな声をあげる秋穂さん。
理由は教えてくれないが、昔からゲームマスターが大嫌いなのだ。声を聞くのすら我慢ならないほどに。だからさっさとキッチンへ退避してしまった。
「ご飯つくるの手伝うよ」
「いいわ。あんたはテレビ見てなさい」
本当は番組の行方が気になっていたので助かる。僕は「ありがとう」と言ってからテレビに目を向け直した。
『やあみんな。元気に冒険しているかい』
目をはなした隙に映像は切り替わっており、画面にはゲームマスターの姿があった。
対面時と同様に高級そうなスーツを着用していて、甘い顔立ちと襟足ながめの金髪センターパートがいやにマッチしている。
またスタジオモニターを介してのリモート出演らしく、どこぞの会議室らしき場所の一席に腰を落ち着けていた。やはり生放送の現場に招くまでは踏み切れなかったようだ。
ともあれ、スペシャルコーナーとやらのスタートである。
『お忙しい中、当番組に出演いただき感謝いたします』
『なあに、気にしないでくれたまえ! ちょうど話したいと思っていたところなんだよ、南雲くんとね!』
何がそんなに楽しいのか、にっこにこのゲームマスター。
そして、やはりというかなんというか……MCを無視して、すぐ自分勝手に会話を始めてしまった。
『やあやあ南雲くん、久しぶりだね!』
『ご無沙汰しております、ゲームマスター。お元気でしたか?』
『もちろんさ。近頃は特に元気いっぱいだよ!』
『ご壮健で何よりです。それに随分とご機嫌のようですね』
生放送で、しかもいきなり展開にもかかわらず穏やかに対応する無雲彰志。顔見知りのようだし、ゲームマスターの扱いには慣れているのかも。
『ふっふっふー、やっぱりわかってしまうかあ。実は最近、なかなかに興味深い新人冒険者を発掘してしまってね』
『興味深い新人冒険者、ですか』
『そうそう。最初はさ、それなりに楽しませてくれたらいいな、程度に思っていたのだよ。ところが蓋をあけてみると、これがまた思いもよらぬポテンシャルを秘めていたみたいでね。それこそ、キミのところの風宮凛に匹敵する逸材じゃないかな。気にならない?』
『それは……確かに気になりますね』
風宮凛に匹敵する新人冒険者。
さしもの無雲彰志も興味をそそられた様子。
僕だって気になる。ゲームマスターにこうまで言わしめるとは、一体どんな冒険者なのだろう。
『しかもその新人冒険者はさ、ワタシの友人の息子なんだぜ! イエーイ夜月くん、見てるかーい!』
まさかの僕だった……嘘だろ!?
全国放送でゲームマスターの口からまさか己の名が飛び出してくるなど、いったい誰が予想できようか。しかもダブルピースを添えて。
つーか、酷い嫌がらせだ。まずもって僕が逸材だなんてありえないし、これで身バレしようものなら絶対ろく目にあわない……人をおもちゃにしやがって、どうにかしてヤツの口を塞げないものか。
しかし願い虚しく、ゲームマスターは勝手気ままに話を進めてしまう。もはやMCは置物状態である。
『それでさ、南雲くん。一つ賭けをしようじゃないか!』
『賭け、ですか?』
突然の提案に、無雲彰志は少し目を細める。その眼光には、巧妙に隠された罠を探るかのような警戒心が伴われていた。