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怪談喫茶もののけ堂
怪談喫茶もののけ堂
中靍水雲
ホラー怪談
2025年04月24日
公開日
1.4万字
完結済
『本日の日替わり……雨の降る日にいただく塩大福とほのかな苦みの抹茶』  きつねは「ふうん」といいながら、古めかしい引き戸を見上げた。  そのわきには、けやきの木の看板があり、店の名前が彫られている。 『怪談喫茶もののけ堂』  きつねは前足で引き戸を開けた。

もののけ堂へようこそ

「〝ねえ、とりかえっこしない?〟 そいつは、そういったんだ」

 公園の冷たいベンチに座る少年は、いかにもぼろぼろの服装をしていた。見るからに、貧しそうな身なり。髪はぼさぼさで、伸ばしっぱなしのようだ。悔しそうに涙を流しながら、少年は両手をひたいにこすりつけている。

「ぼくが、あんなことをしなければ……お父さんは自殺なんてしなかったのに!」

 まさか子どもを置いて、自ら命をたってしまうとは。それもそうか。聞けば、自分の会社が倒産したせいで、この少年は貧乏になってしまったそうなのだから。だが、少年の隣に座る妹は、出会った瞬間から表情を崩していない。常に、お手本のような笑顔を浮かべている。幸せそうに、ニコニコ、ニコニコと。不自然なほどの白い歯は、作り物のように輝いている。このような笑顔をどこかで見たことがある。昔、祖父といっしょに商店街に行ったときのことだ。老舗の洋品店の店頭ににょきりと立っていた、マネキンの笑顔。この妹の笑顔は、それにとてもよく似ている。

「お前だ……お前のせいだ!」

 少年は目に涙を浮かべ、顔を鬼のようにゆがませ、今にも妹に飛びかかりそうだ。

「お前が僕のうちに来なければ! 弟を返せ! 返せよ!」

 小泉百雲モモは少年の肩に手を置き、落ち着いた声で語りかけた。

「大変だったんですね。お気の毒でした。しかし、いい話を聞かせて頂きましたよ。この怪談、ぜひこのぼくにいただけませんか? 非常においしくなりそうなんでね」


 *


 ぬるい空気が漂う、満月の夜だった。

 闇に紛れ、雪のような純白のきつねが細い路地裏へ、するりとすべりこんだ。珍しい白いきつねだというのに、夜道を歩く人は見向きもしていない。それもそのはず。誰にも、このきつねは見えていないのだ。

 きつねは、月明かりが照らしている路地をのんびりと歩いていく。しばらくすると、小さな古民家が現れた。門灯が光る家の前に、立て看板が置かれている。

『本日の日替わり……雨の降る日にいただく塩大福とほのかな苦みの抹茶』

 きつねは「ふうん」といいながら、古めかしい引き戸を見上げた。

 そのわきには、けやきの木の看板があり、店の名前が彫られている。

『怪談喫茶もののけ堂』

 きつねは前足で引き戸を開けた。なかは、落ち着いた雰囲気の喫茶店――なのかと思いきや、どこか怪しい。壁には鬼のお面や幽霊の日本画、奇怪なオブジェ、おどろおどろしい掛け軸、そしていたるとこに生けられた桔梗の花々。その咲き乱れる桔梗にまぎれるようにして、ずっしりとした鈍色の石が置かれている。それを見て、きつねは大きな口をへの字に曲げた。

「モモー。なんやのこの石。またわけのわからんもん買うたなあ」

 きつねのねっとりとした怒声に、店の奥から顔を出したのは、短い黒髪に切れ長の瞳、歳の頃は中学生ほどの少年だった。

「なんですか。また文句ですか。コトコのくせに生意気ですよ」

「くせにとはなんやの。あたしは忠告してあげてんのよ。このままだとこの店、あんたの趣味のもんでパンクするって」

 桔梗の花にかこまれた鈍色の石は、高さ百五十センチほどの大きさだった。まるでその石を弔うように桔梗たちは寄り添っている。

 散財は彼の悪癖だった。小言の多いきつねに、少年は面倒だといわんばかりに頭を掻く。

「お客さん、ぜんぜんけえへんのに、なんでまたむだづかいすんのよ」

「そうでしょうか。これを買ったことがむだだとは、ぼくは思いませんがね」

「今月中にきっちり売り上げ作らんと、この店潰れてまうよ。じいさまから引き継いだこの店、守りたいんとちゃうの」

「ぼくは人間です。ゆえに、欲望には勝てません。実に人間らしいでしょう。神の使いであるあなたの守るべき対象は、とても愚かだ。守りがいがあっていいですよね」

 ぺらぺらとのたまう少年に、きつねは呆れたとばかりに眉間にシワを寄せ、犬歯をむきだしにする。

「いっつも、うちにご高説たれるモモ先生は賢い人間だとばかり思っとったけどなあ。あほやったんかあ。そやったかあ」

「コトコ。ぼくのどこか愚かだといいたいんですか。ぼくは人間総じて愚かだとひとくくりに感想をのべたまでです。アダムとイヴが知恵の実を食べ、裸であることが恥ずかしいことだと気づいてしまった。しかし、知恵があることを愚かだと思うことになんの恥がありますか。無知こそ恥だ。そして、ぼくは無知じゃない。ゆえに、物の価値に気づき、手元に置きたくなる。知識があるがゆえに、欲もでる。この法則が、あなたにはわかりますかね、コトコ」

「能書きたれとらんで、さっさと客寄せの新メニューでも考えんかい」

 モモにとって、コトコをいい負かすことなど、容易い芸当だった。しかし、ここは大人しくカウンターのなかに戻ることにする。

 亡くなった祖父の店を引き継いで、三ヶ月。客足は遠のくばかりだった。祖父の店だった頃の常連客が来ても、もう次に来ることはなかった。メニューは増やすことはあっても、減らすことはしていない。祖父の味も、小さい頃から味わっているから知り尽くしている。接客も、問題ないはずだ。

 コトコが、定位置であるハンモックブランコのクッションに丸まった。そろそろ夜の十時。ひとりくらいは、客が来てもいい頃合いだが。

 そこへ、ガラッと引き戸が開いた。チリーンという、鉄鈴の涼やかな音色が店内に広がる。

「はあ。ずいぶん雰囲気が変わったようでありまスなあ。小泉九雲クモの店は」

 翡翠色のガラスペンを持った、モモの手が止まる。新メニューを書きつけていた紙のふちをくしゃりとにぎった。

 平常をよそおいながら、必死に祖父の笑顔を思い出し、それを顔に張りつける。

「いらっしゃいませ。クモはぼくのおじいさんですよ。もう亡くなりましてね。ぼくがあとを引き継いだんです。ああ、ぼくは孫の小泉百雲モモといいます」

 とことこと歩いてきた黒猫を、モモは祖父そっくりの笑顔で見下ろした。コトコよりも何倍も小さな黒猫だが、普通の猫とは違う箇所がある。しっぽがふたまたに分かれているのだ。

 カウンターの椅子に飛び乗った黒猫は、小さな胸をそらせながら、懐かしそうに目を細め、店内を見渡している。

「わしは猫又のチカナというものでありまス。まさか、クモが天寿をまっとうしてしまっていたとは知らなんだ。最後に来店したのは、何年前だったか。わしにとっては、つい先日のことのようだというのに。人間の年月というのは短いものでありまスなあ」

「ええ、本当に」

「『走馬灯』を食べるあの感覚。ゾゾゾとして、フワフワッとする、恐怖の味。たまらないのでありまス。また食べたいと思い、今日は来店したのでありまスよ」

「さあ、どうぞ。クモのメニューもありますが、ぼくが考案したオリジナルのメニューもありますよ。今日はゆっくりしていってくださいね」

 モモが差し出したメニュー表。そこにはさまざまな料理名が書かれていた。

『居心地の悪いぶどうが乗る和パフェ 五百円

 叫び出しそうなゴマクッキー 百円

 夜がかたまった羊羹 三百円

 涙を知らなさそうな色とりどりのドロップ 十円』

「うまそうでありまスなあ。どの『走馬灯』が一番絶望感に満ちておるかなあ。わしはこのゴマクッキーが大好きで、よく注文していたのでありまスよ」

「ああ、そうでしたか。では、こちらにしますか」

 そっけなく答えるモモに違和感を覚えつつも、チカナは首を振った。

「いや、今日は日替わりにしようかと。クモのお孫さんの腕、確かめさせてもらいまスよ」

 すると、モモは「ふふ」と微笑み、ダンッとカウンターを叩いた。動揺したチカナの全身の毛が、ぶわりと逆立つ。

「ぼくの腕をはかるというわけですか。いいでしょう。人間が実際に体験した怪談を祖父が菓子にし、あなたがた妖怪に提供していた、怪談スイーツ『走馬燈』。ぼくはクモの孫ですよ。そのぼくに作れないわけがない。満足させてみせますよ。おしぼりで肉球でもふきながら、待っていてください」

 モモのくちびるはニッコリと笑っているが、その目はちっとも笑っていない。チカナは、思いもよらぬ接客を受け、戸惑うばかりだ。

 ハンモックブランコで丸まっていたコトコの片目が、チラリと開かれた。

「自分のじいさまにあそこまで対抗意識を燃やしとる孫も、珍しいわなあ」

 五分後、チカナの前に黒いお盆が置かれた。

「お待たせしました。『雨の降る日にいただく塩大福とほのかな苦みの抹茶』です」

 波がたゆたうような和皿に塩大福がちょこんと乗っている。その隣には、上品でおちついた色合いの抹茶椀にまろやかな香りの抹茶。

 チカナは思わず「おお」と声をもらした。

「一瞬のすきもない盆上のレイアウト、漂う香り、クモに決して劣らない出来でありまス」

 正直なレビューに、モモは「そうですか」と何でもないことのように応えた。チカナは猫の前足で器用に菓子楊枝をつかみ、塩大福を切っていく。サクッと突き刺し、ざらざらの舌にそれを乗せ、もぐ、と味わう。

 とたんチカナの舌の上で、怪談スイーツ『走馬燈』の味が広がる。

 塩辛くで苦い、怪談の味がじわり、じわりと染みこんでいく。


 *


「ねえ、とりかえっこしない?」

 突然、声をかけられた。

 神社の本殿に腰かけ、コンビニで買ったあんぱんを開けかけていたときだった。ぽかん、としているおれに、その子はもう一度いった。

「ねえ、とりかえっこしない?」

「……なんの話? お前、だれだ」

 見たことのない子だった。自分で切ったかのような、ざんばらに切りそろえられた髪。色あせたシャツに、微妙な丈のハーフパンツ。男なのか、女なのかもよくわからない。顔色はとても悪く、うつろな瞳をしていた。

「とりかえっこしたいの」

「いや、何を?」

「あんたの弟と、うちの妹」

 まず、何をいっているのかわからなかった。そしてなぜ、そんなことをしなければならないのかと思った。

 しかし、待てよと思う。弟を交換? ふむ、と考えこんだ。おれには、一歳下の弟がいる。だけど最近、とても生意気になってきていた。おれが六年生で、弟が五年生。弟自身も、高学年というプライドが出てきたのか、やたら反抗してくる。おれのほうが年上なのにさ。

 このあいだなんて、貸したマンガを返してきたはいいけれど、ページが折れ曲がっていた。なので文句をいったら「それくらいで怒るなよ」なんていってくる。親に兄弟で共有しろといわれているゲーム機を独占されていたので、「そろそろ交代しろ」と怒ると、すぐ親にいいつけにいく。こういう時あいつは、弟という立場を利用する。本当に、小賢しいやつだ。結果、お母さんには「お兄ちゃんなんだから、弟に貸してあげなさい」と叱られるしまつ。

 今おれがこんなところであんぱんなんて食べているのも、弟がうるさかったからだ。家にたくさんの友達を連れて来て、リビングでゲーム大会。おれの知らないやつらばかり。あんなにたくさんの友達、おれは家に連れて来たことなんてない。

 おれと違って、弟は冗談がうまくて、人懐っこくて、甘え上手だ。友達も多いんだろうな。

 そんなことを考えて、自分の家なのに居心地が悪くなったおれは、テーブルにあったあんぱんを持って、家を飛び出した。なんでおれが家を出なくちゃいけないんだ。

 弟の友達は知らないんだろう。本当のあいつは、うるさいし、すぐ泣くし、親にだけいい顔をする、いいところなんてひとつもない。

 本当に、可愛い妹だったら、よかったんだ。悪いところも、笑って許してやれたのかもしれない。

 とりかえっこか。できるっていうんなら、してやってもいいかもしれないけれど。

「どうやって交換するんだよ。役所に書類でも提出するのか」

「ここにサインしてくれれば、明日には交換されてるよ」

 その子が出してきた紙には、『兄弟姉妹交換承諾書』と書いてあった。大人が持っている書類みたいで、かっこいい。ごっこ遊びにしては本格的だなと、半信半疑のままに、おれは『氏名』のところに名前を書いた。するとその子は続けて、ハンコにインクをつける丸い台をさしだしてきた。

「この朱肉に親指をつけて、名前のとなりにおしてね」

 おれはいわれた通りにした。こんなことで家族が交換できるなんて、笑える。カードゲームのトレードみたいで便利だな、と思った。

「これで交換は成立だね。明日を楽しみにしてて」

「待てよ。なんでお前は妹を交換したいんだ」

 なんとなく質問をしてみたが、相手は答えなかった。本殿の裏へと、さっさと走って行ってしまった。結局、あの子が誰なのかもわからないままだ。

 あの子がいなくなると、だんだんと自分のやったことが恥ずかしくなってきた。家族をよその家と交換だなんて、そんな夢みたいな話、あるわけないじゃないか。素直に信じて、あほらしい。

 おれは真っ赤に染まった親指を見て、急速に頭が冷えていくのを感じ、ごしごしとズボンでぬぐった。そして、やけくそぎみに、あんぱんにかぶりついた。


 次の日、おれは驚いた。朝食を食べようとリビングに行くと、見知らぬ女の子がいたのだ。いつも弟が座っているイスで、食パンをちびちびと食べている。

「おはよう、早く食べちゃいなさい」

 いつもとようすの変わらないお母さんに、おれは戸惑った。お父さんはもう仕事に行ってしまっている。おれは、キッチンで冷蔵庫をのぞいているお母さんに「ねえ」と話しかけた。

「あの子、誰」

「あの子?」

「あそこに座ってる子だよ」

「ちょっと、あんた。なんで自分の妹にそんな他人行儀なのよ」

 冗談だと思われたらしい。お母さんは「くすくす」と、笑っている。

「いや、あの席っていつも……」

 弟の名前をいおうとして、言葉がつまった。名前が出てこないのだ。いつもあんなに呼んでいたのに。いくら思い出そうしても、だめだった。弟のことを思い出そうとすると、頭のなかにモヤがかかったみたいになってしまう。届きそうになったら、遠のいていく、夢のなかのようだ。もどかしくてたまらない。なんなんだ、この感覚は。おれは、背中に寒いものが走った。何かが、おかしい。

 でも、間違いない。あの承諾書は、本物だったんだ。

「お兄ちゃん」

 ハッとして振り返る。おれの後ろで、妹がニコッと微笑んだ。

「早く食べないと、遅刻しちゃうよ?」

 片手を握られ、おれがいつも座っているイスに連れて行かれる。席につくと、妹は花のように顔をほころばせた。なんて可愛い子なんだろう。アイドルみたいだ。おれのクラスにも、ここまで顔の整った子はいない。信じられない。これから毎日、この子はおれの家にいるんだ。だって、おれの妹になったんだから。

「途中まで、いっしょに行こうよ」

「……ど、どこへ?」

「ふふ、学校に決まってるじゃない」

「あっ、そ、そっか」

 急いでパクパクとパンをたいらげながら、チラチラと横目で妹を見る。これが、妹か。どこからどう見ても、生意気で仕方なかった、あの弟じゃない。昨日までは、たしかにそこに、弟が座っていたのに。夢じゃないんだ。弟はおれの前からいなくなり、代わりにこんなに可愛い妹ができたんだ。

「ははっ」

 ふわふわと浮き足立った気持ちで、おれは最後のパンを口のなかに放りこんだ。


 その日の下校中のこと。あの子がいた。昨日、神社で弟と妹を交換したあの子だ。弟といっしょに歩いている。おれの、本当の弟。何かを話しているようだけれど、よく聞こえない。耳をすませてみるものの、まわりの騒音がうるさすぎる。後ろめたい気持ちで、おれは電柱のかげに隠れた。

「何か欲しいものはない?」

「えっ、姉ちゃんが買ってくれるのか?」

「もちろん。あなたは可愛い弟なんだもの。なんでも買ってあげる」

「やったあっ。姉ちゃん、大好きーっ」

 おれは、弟からそっと目をそらした。ふたりはどんどん遠ざかっていき、やがて見えなくなった。

 弟は、幸せそうだった。にこにこと偽物の家族を見あげていた。昨日まで、おれの弟だったくせに、もう家族を気取っているようだ。他人に甘えるのがうまい、あいつらしい。プライドなんて、ないんだろうな。

 おれの弟であったことなんて、忘れたいってことかよ。おれだって、もうお前の名前なんて忘れたよ。いずれ、顔も忘れるだろうさ。

 そう思ったとたん、なんだか、胸にぽっかりと穴が開いたような気分になった。

 おれは後悔しているのか。弟が他の家の家族になったことを。いや、そんなわけはない。だって、家に帰れば、妹がいるんだ。

 こんなところをふらふらしていないで、さっさと家に帰ろう。


 妹は、やっぱり可愛かった。貸したマンガはきれいに読まれているし、ゲームはいつもおれを優先してくれる。わがままなんてひとつもいわないし、いつも明るく笑ってる。憎たらしいところなんて、まったくない。弟とは大違いだ。

 ああ、交換してよかった。あの子はなんでこんなにいい妹を交換したいなんて思ったんだろう。今ごろ、弟のわがままに振り回されていないといいけどな。

「交換したのがあんな弟で、申し訳ないなあ」

「お兄ちゃん。なんの話?」

 リビングでひとりくつろいでいると、妹が走ってきた。走り方も、アニメで見たお嬢さまみたいに上品だ。弟は足が遅いから、走り方もかっこ悪い。おれみたいに足が早ければ別だけど。今思えば、走り方を教えてもよかったのかもな。過ぎたことだが。

 妹はさっきのおれのひとりごとが、やたら気になっているみたいだ。お父さんもお母さんも共働きで、まだ帰ってきていない。家にはおれたち二人だけだし、「あの話」をしても大丈夫だろう。

「おれの弟と、きみを交換したって話だよ」

「え?」

「どう、この家は。前の家と比べて」

「お兄ちゃん。なに変なこといってるの?」

 妹が、顔を歪める。心底、不思議そうな顔でおれを見ている。まるで、こっちがおかしいみたいに。

「変なお兄ちゃん。私、部屋で宿題やってくるね」

 そういって妹は、二階へとあがっていった。どういうわけなのか、妹は前の家のことを忘れてしまっているらしい。

 まあ、そのほうがいいのだろう。弟もおれのことは忘れて、今の家で楽しくやっているのだろうし。

「これで、よかったんだ。間違いなく」

 小さくつぶやいた言葉は誰にも聞かれることなく、リビングの床に落ちていった。


 お父さんが勤めていた会社が倒産した。追い打ちをかけるようにお母さんも、パートをクビになった。ふたりの再就職先はなかなか見つからず、貯金を切り崩しながらの生活が続き、家はどんどん貧乏になっていった。おかずが一品、減る。お風呂のお湯は前の日のものを温め直す。靴下に穴が開いても、縫い直して履かされる。いらないものを売りに出すといわれ、おれのゲーム機が、まっさきに売られていった。お母さんが図書館から借りてきたらしい『食べられる雑草』という本を読んでいたとき、おれは心底とほうに暮れた。まさか、こんな日が来るなんて。

 なのに、なぜか妹はニコニコしている。どんどんと貧しくなる家のなかで、妹だけが毎日笑顔で過ごしていた。なんで、こんなときに笑っていられるんだよ。こいつ、おかしいんじゃないのか。おれたち、雑草を食べさせられるかもしれないんだぞ。なのに、よく笑ってられるよな。おれが苛立ちを隠せないでいると、妹の頭にお父さんがぽんと手を置いた。

「笑顔でがんばろう。そうすれば、いずれもとのような生活ができるようになるさ」

 妹は、みんなを励まそうとしていたらしい。お父さんもお母さんも、妹の笑顔に救われたのか、申し訳なさそうに目に涙を浮かべている。なのにおれは、妹の可愛い笑顔に対して、何も思えなかった。笑顔で生活が楽になるんだったら、苦労はしないんだよ。笑うなんて、ありえないだろ。おれはゲーム機を売られてるんだぞ。

 弟のままだったら、すでに文句をいっていたところだ。


 どう生活を工夫しても、家は貧しくなるばかりだった。両親の再就職先はいまだに見つからない。どこの面接を受けても、不採用。誰でも採用するような、コンビニや倉庫作業の仕事も、不採用だった。大学まで出て、これまで前職一筋で頑張ってきたお父さんをなぜ不採用にするのかわからなかった。お母さんも同様だ。寝られていないのか、二人の目の下には濃いクマがあった。

 おれたちは、心が死んでいくような気分を、毎日毎日味わっていた。なのに、妹は幸せそうな顔で笑っている。両親の辛そうな顔を見ても、おれのふてくされた顔を見ても、変わらない教科書に書いてあるようなほほえみ。

 いつからか、朝昼晩、妹のその笑顔を見ているうちに、おれは気分が悪くなるようになっていた。可愛い家族の笑顔が、マネキンのように見えるのだ。不気味で、気味が悪いと感じるのだ。くちびるを決まった角度に曲げて、目じりを計算されたぶんだけ下げる。そんなお手本を切って、貼りつけたような妹の笑顔におれは、ゾッとする。

 可愛い妹を、気持ち悪いと思うだなんて、おれはひどい兄だ。

 そしてここにいたのが弟だったら、と思わずにはいられなくなっていた。あいつだったら、「お兄ちゃん、毎日辛いね」って、おれと同じ気持ちでいてくれたはずなんだ。気味の悪い笑顔なんてせず、おれと同じ気持ちを分けあっていたはずなんだ。

 こんな妹、もういらない。

 ああ、どうしておれは——弟を交換してしまったんだろう。

 ちらりと、妹を見ると、その目はどこも見ていなかった。まるで、本物のマネキンのようにどこでもないどこかを見ている。そこには、お父さんもお母さんも映っていない。

 ただ、何でもない何かを、映していた。


 *


「すばらしいでありまスっ」

 チカナの歓声に、コトコのシッポがざわりと波うった。モモはいたって冷静な顔でたずねた。

「いかがでしたか。チカナさん」

「美味でありました。まことに美味でありました。人間の涙の絶妙な塩辛さ、しめった空気感のしっとりとした味わいと、ねっとりとした舌触り。くわえて、抹茶の苦さの加減が、いいあんばい」

「当然です。ぼくの走馬灯が、祖父に負けているわけがありません」

「は、はあ。そうでありまスか。いやはや何にせよ大変満足でありまス。これは他の仲間たちにも教えてさしあげねば」

「そうですね。クモに負けない、すばらしい走馬灯だったとお伝えください」

「はあはあ、了解でありまス」

 チカナはカウンターの上にチャリンと小銭を置いて、帰って行った。チリーン、という鉄鈴の音色が客のいなくなった店内に響きわたった。

「モモ。何してるん」

 ハンモックの上からしっぽを垂らしながら、コトコが呆れたようにいう。

「一目瞭然でしょう。接客ですよ」

「ちゃんとした接客せなあかんって、いつもいうてるやろ。お客さんが離れていっとるわけ、まだわかっとらんの」

「ぼくのどこに問題があるんですか」

 何が不満なのかと聞かれれば、それは山のようにある。

 クモの話を出すと、とたんに機嫌が悪くなるところ。自信家すぎて、お客さんにナメた態度を取るところ。くわえて、散財癖があるところ。

 しかし、コトコは黙りこむ。

 全てをはっきりいったら、その百倍にしていい返してくるのが、この男。それをわかりきっている腐れ縁のコトコは、ついしどろもどろになってしまう。

「あかんとこは……めっちゃある。あんたは賢い子なんやから、わかるやろ」

「ぼくはクモが仕事と趣味を両立しながらも、店の経営をしていたことを知っています。そうです、ぼくはクモと同じことをしているだけですよ。さらに、ぼくは自分の欠点を把握したうえで、その場における最善の手を打っています。経営ができなくなるほど、趣味に金銭を投じてなどいません。自分の欲をすべて捨てて店に没頭しろだなんて、コトコはいいませんよね」

 こういうときのモモは、まるで口から生まれてきたのではないかと思うほどの早口で、コトコに追い打ちをかける。どんなに自分が不利であっても、言葉という言葉をそこらじゅうからかき集め、さも自分が正義とてもいわんばかりに、一気に畳みかけるのだ。

 こうなってしまっては、何をいっても納得することはないだろうと、コトコはお手上げとばかりに「ぐぬぬ……」とうなった。

 そのとき、ガタンッ、と店の扉が叩きつけられるように開けられた。

「モモちゃん。景気はどうかな」

 黒い和服を着た年老いた老人が、震え鳴りやまぬ鉄鈴の音色とともに店のなかに入ってきた。

「その『ちゃん付け』止めてくださいっていいましたよね。気持ち悪いですよ」

「クモちゃんと違って、はっきりいうよねえ。接客なのに、大丈夫かなあ」

 茄子のようにいびつに伸びた頭に、濃いまゆ毛。相手を小バカにした態度は、似たもの同士といわざるをえないモモの琴線にたびたび引っかかるようだ。

 老人は、カウンター席に座ると「お冷や」とだけいって、ほおづえをついた。心の底から嫌そうに、竹のコースターを出すモモ。琉球グラスに注いだ水をそこに置くと、老人は一気にそれを飲み干した。

「んで、売り上げは上がったの」

「いいえ」

「だよねえ。がんばってるのにねー。なんでかなあー」

「あなたがいるからですよ。さっさと出て行ってください」

「ぼくう?」

 老人は、へらっと顔を崩した。モモの冷たい態度も、老人には暖簾に腕押しのようだ。

「ぼくはここが気に入ってるんだ。だから、いるんだよ。クモちゃんのころからね」

「貧乏神にいられては、店が潰れてしまいます」

 モモがジロリとにらむと、老人は悪賢く歯を見せた。

「その呼び方、嫌いっていったのに。いい加減、エレジイって呼んでよ」

 ぷう、と頬をふくらませるエレジイに、モモは軽蔑のなまざしを向ける。ハンモックから降りたコトコが、エレジイの隣に座った。カウンターに前足を置いて、訴える。

「やからな、モモ。もっと新しいお客さんを呼んで、店を繁盛させんと、このじいさんに店潰されてまうで」

「いいじゃん、いいじゃん。モモちゃんも色んなお買い物して、物欲満たしたいでしょ。モモちゃんの好きにやればいいんだよー」

 両方向から正反対の意見にはさまれる、モモ。なまりのような重めのため息をついてから、エレジイにメニューを差し出した。

「イスに座ったからには、注文してくれるんですよね。飲食店のイスにタダで座れると思わないで下さい」

「はは。モモちゃん、笑顔が怖いよお」

 のらりくらりとした会話をくり広げながら、メニュー表を受け取るエレジイ。

「じゃあ、この『ふどうでもいちごでもよかったフルーツどら焼き』をもらおうかなあ。そういえば、このあいだ牛丼屋に行ったんだあ。すごく早く料理を持って来てくれたんだよねえ。すごいよねえ。モモちゃんもあれくらいがんばれば、お客さんが戻って来てくれるかもしれないよねえ」

「どら焼きですね。せいぜい年寄りらしく、縮こまってそこに座っていてください。苔やカビていどなら、あなたのおしゃべりの相手をしてくれるでしょう」

 ぺこりとおじぎをし、カウンターに戻る。エレジイがじっとりとした視線で作業を見つめてくるので、うっとうしい。わざとらしくカチャカチャとキッチンツールを鳴らしながら、さっさと注文品を用意していく。

「お待たせしました」

「おお、待ったよお。待った、待った」

 注文してから、五分と経っていないのに、大げさにはしゃぐエレジイ。その目の前に、格子柄の四角いお皿が置かれた。あんことクリームにつつまれた、大きなぶどうといちごがごろりと入った、どら焼きだ。

「うまそうだ」

「当然です」

「いただきまーす」

 モモが「どうぞ」と手のひらを見せる。エレジイは大きな口を開けて、はむっとどら焼きにかじりついた。とたん、舌の上にじんわりとした、甘い恐怖が広がっていく。じゅわじゅわと染みだすフルーツの酸味に、エレジイの肌がぞわりと震える。おいしい恐怖の時間が、エレジイの舌を幸せに満たしていく。

 『走馬灯』が、はじまる。


 *


 お父さんの倒産から、数ヶ月。毎日毎日、心をすりへらしながら、おれと家族はひっそりと暮らしていた。

 そんなある日。また、あの子を見つけた。

 神社で会ったときとは、だいぶ印象が変わっている。肩まで伸ばされたつやつやの髪に、真っ白なワンピース。顔色も前までは土のように不健康そうだったのが、今では薔薇のように華やかだ。

 その隣に、弟が並んでいた。一緒に暮らしていたときには、見たことがなかった晴れ晴れとした笑顔。とても幸せそうだった。今のおれとは、大違いだ。

「待てよ」

 おれは、思わず話しかけていた。ふたりは同じタイミングで振り返った。

「はあ」

 弟は、きょとんとした顔でおれを見あげた。完全に初対面、といった表情で。おれの胸にずきん、とトゲが刺さったような感覚が走る。涙が、こぼれそうだ。

「なんで……そんな顔するんだよ。おいっ」

 弟は不思議そうにするばかり。名前を呼んだ、今の気持ちを伝えたい。悪かった、悪ふざけが過ぎた、今大変なんだよ、お父さんの会社が倒産したんだ、戻って来てくれよ、また一緒に暮らそう。なのに、こいつの名前が思い出せない。肝心な時なのに、なんでだよ。

 弟と視線を合わせるのが気まずくて、おれは逃げるようにあの子に話しかけた。

「どうしたんだよ。その格好。前とずいぶん……違うけれど」

「あはは」

 すると、あの子はさっきまでの笑顔をスッと消した。顔色はすっかりよくなったようだが、神社で会ったときの、あのうつろな瞳は変わっていない。

「おれの家、貧乏になったんだ。お父さんもお母さんも、仕事がなくなった。きみは随分と、その……幸せそうじゃないか。神社で会ったときは、あんなに不幸そうだったのにさ」

「へえ。そんなふうに思ってたんだ」

 ぐにゃりと顔をいやらしい笑顔に曲げるその子に、おれはつい、カチンとなる。

「やっぱり怪しいと思ったんだよ。サインまでさせてさ。お前が何かしたんだろ、おれの家族に! 白状しろよっ」

 感情のままに怒鳴りつけたその時、弟がおれの目の前に飛び出してきた。その子を守るように、真剣なまなざしで。

「あんたさあ。ぼくの姉さんに、ひどいこというなよ。誰だか知んないけどさ、いきなり怒っりだすとか、どういうつもり?」

「いや、その……」

「この人はぼくの大事な家族だ。人の家族にいいかがりつけてんじゃねえよ。もう行こう、姉さん」

 吐き捨てるようにいうと、弟はその子の手を引いて、さっさと行ってしまった。その場に取り残されたおれは、しばらく一歩も動けなかった。

 おれは、家族から弟を追い出した。弟が憎たらしかったから。ちょっと困らせられればそれでよかった。本当に妹ができた時は、嬉しかった。あんな簡単なやり方で、手軽に家族が交換できるなんて、ラッキーとまで思った。

 どこがラッキーなんだ。結果、弟は幸せになり、おれは不幸になっている。ばかみたいだ。

 なんでおれなんだよ。おれがあんなことをしたのは、弟が悪いんだ。弟がわがままだったから、おれはあんなことをしたんだ。おれは……おれは悪くないのに!

「ばかなお兄ちゃん」

 おれの後ろに、可愛い妹が立っていた。今の暴言は、この子の口から出たものなのか。おれは信じられないような気持ちで、彼女を見上げた。

 妹の笑顔はいつもと違っている。くちびるはもっとも美しい角度で曲げられ、完璧な笑顔なのに、どこか冷たい。

 インクを垂らしたガーゼのように、じわじわとおれの心が不安に染まっていく。きみはいったい、誰なんだ。どうしておれのところに来たんだ。

「あそこの神社にはね、もう神さまはいないんだよ。今は、貧乏を呼びよせる神さまが住んでいるんだ。あの子が、それだよ」

 さっきの子が、貧乏をよびよせる神さまだって。それじゃあ、まさか。

「ね。あの子、サービスいいでしょう? 神社であんぱんを食べていただけのきみの願いを叶えてくれたんだよ。そして、きみが貧乏になるたびに、あの子は徳をつんで、幸せになっていくの。すてきなシステムでしょう」

「し、システムだって……? じゃあ、きみはいったい、どこの誰なんだ」

「私は、あの子が一生懸命に作った、可愛い人形。あの子の貧乏神のちからがたっぷりつまった、手作り木偶人形よ」

「な、なんでこんなことを……」

「私ね、あの子のことが好きなの。だから、貧乏の神というだけで痩せ細っているあの子を見るのは、もう耐えられなかった。あの子に、幸せになってほしかったのよ。そして、今回の計画を彼女に提案したってわけ」

 おれは人形の女がぺらぺらを話を進めていくたびに、絶望でからだが凍りついていくのを感じた。いっそこのまま、気を失ってしまいたかった。

 しかしそれは、おれの頬に添えられた、あまりにも冷たすぎる人形の手によってはばまれた。

「ふふふ、これからも末永くよろしくね。私のお兄ちゃん」


 *


 ごくり、とエレジイは最後のどら焼きを飲みこんだ。そして、満足そうにモモから出された緑茶をすする。

「いやあ、うまい。実に、素晴らしい走馬灯だったよ。さすがは、クモちゃんの……」

 いいかけたエレジイの口を、コトコの長いしっぽがあわててふさいだ。

 しかし、時すでに遅し。バンッ、と台を叩くモモの目は、まるでナイフのようにするどくつりあがっている。

「何かいいましたかね。そこのジジイは」

「いやいや、何も。あはは」

 少しも気にしたようすもないエレジイに、コトコは「ふう」としっぽで冷や汗をぬぐった。モモは「まったく」といいながら、エレジイが平らげた皿を下げた。蛇口から水が流れ出る音、潔癖のモモは下げた皿をすぐに洗う。特に、生意気なジジイのたいらげた皿となるとなおさらだ。

「いやはや、楽しそうだねえ。コトコちゃん」

「何が?」

「おままごとだよー」

「ままごとなんて、してへんよ」

 エレジイはしわくちゃの目元を悪童のように細め、いやらしく笑んだ。

「ええー。ぼくがあげた人形、こんないじわるな子に育てちゃってさあ。その前のクモちゃんは、ごりっぱな性格に育ててたみたいだけど、今回のはなにー?」

「ええやんか。どう育てようとあたしの勝手でしょ。あたしは『走馬灯』があったこの店を守りたいだけや。レシピを作り続けてくれる誰かがおればええのよ」

 コトコが見つめる先。カウンター側の壁に、一枚の写真が飾られている。白黒の古い写真だ。そこにはコトコにとって、懐かしい顔が写っていた。

 優しく微笑んでいるその人は、いつ雲の上に行ってしまったんだったか。長くこの世にとどまっているコトコには、もう思い出せなかった。



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