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第32話

時計の針はもうすぐ24時を回る頃だった。


青海ヶ丘総合病院、隔離病棟最上階の、その1番奥の個室。

開け放した窓からは、秋の訪れを感じる少し涼しい風が吹き込み、たなびくレースのカーテンが月の光を溢していた。


真っ白なベッドシーツの上に、真っ白な毛布に包まれて眠る彼女に小さく呼びかける。


「……姉さん」


無論、返事はない。


その声が私の名を呼んでくれることは、二度とないのかもしれない。


その目に私を映してくれることも、その手が抱き寄せてくれることも、その口が愛を囁いてくれることも、きっとないのだろう。


「……っ」


当然の始末。


当然の報い。


当然の___喪失。


この結果を招いたのは、他でもない私だ。

己の自覚の無さが、己の甘さが、最愛の人に犠牲を強いた。


みことは私を愛してくれた、私も彼女を愛していた。

姉妹であることを誇りに思ったし、お互いにとってそれ以上の存在だった。


だからこそ、尊の選んだ結果の責任は他でもない私自身にある。

尊が誰のために戦ったのか、誰のために自分自身を賭したのか、姉に守られていただけの弱い私自身に、無性に腹が立って仕方がない。


こんなことは、二度とごめんだ。


強くなろうと思った、妹のために犠牲になることを厭わなかった彼女のために、せめてその眠りが安らかであるように、終わらせると決めた。


月光が冷たく照らす尊の額に、口付けする。


「……愛してる、姉さん」


〈天使〉のいない世界だったなら、尊は、私たちは、今頃きっと穏やかに暮らせていたはずなのに。

しかし〈天使〉のいない世界だったのなら、私たちは出会うことすらなかったのだろう。


なんという皮肉だ。


踵を返す、病室を出る。


静まり返る廊下に、自分ひとりぶんの足音だけが冷たく響いていた。





「……以上が、検査による結果だ」


青海ヶ丘総合病院、隔離病棟の診察室で、アスカは春華から真の容体について説明を受けていた。


熾天使級を猛然と葬った真、あれからおよそ1週間ほどが経過したが、彼はコックピットで気を失った状態のまま今日まで目を覚ましていない。


「つまり、精神汚染……てことなのね」


そう春華へ返した声は、自分でも驚くほど低かった。


「端的に……説明するなら、概ねその認識で間違ってはいないだろう」


春華は鼻先に乗せた小さな丸いメガネを細い指先で押し上げた。


「呼吸、脈拍はともに安定している。あの戦いで負った打撲等の怪我はあるものの、いずれも重傷ではない」

「……」


隣の病室では、白いベッドシーツの上で真が眠っている。

アスカは診察室とを隔てる大きな窓越しに、その姿を横目で伺った。


あの姿を見るのは、これで二度目だった。


「すまなかった……」

「やめて」

「私は……」

「やめてよッ!」


立ち上がった拍子に座っていた椅子を蹴飛ばしてしまって、大きな音が響いた。


「ふざけないでよッ!私から姉さんを奪って、今度は真くんまで……っ!けっきょくはあなたたちのをあのふたりに押しつけただけじゃない!」

「……その通りだ」


吐き出した言葉を後悔する頃には、遅いと気づいた。


子どもの癇癪を、なだめるでもなく否定するでもなく、言い返すこともせずにただただ受け止めた春華の、その肩がいつもよりもずっと重たそうに見えたのは、気のせいではないはずだった。


「……っ」


けれど、やっぱり腹が立って仕方がなかった。

自分がこうやって怒れば、責めれば、大人たちはそれを贖罪にして心を慰めるのだ。


ずるいと思った。


だって、それでは、自分だけがいつまでもこの罪禍に苦しみ続けなければならない。

春華だけを責めるのは間違いなのだ、そもそも彼女に背負わせた罪は、他でもない自分自身の弱さが招いたもの。


怒りに震え握り締めた拳を、アスカはゆっくりと解いた。

気に入らないことを大人にまくし立てるだけの卑小な自分に、冷たい嫌悪感が溢れていた。


「……ごめんなさい」

「謝る必要はない。君の胸中も、君たちの事情も、私には察するに余りある」

「……」

「人類の未来のためだなどという免罪符に甘んじて、悪魔と取引をしたのは私たちだ」


そう言って、また諦観した大人のふりをする春華に苛立ちを覚える。


5年前、初めて堕天を観測した力天使級と戦ったのは、18歳になる春華が率いていたこの青海ヶ丘の陸戦強襲部隊だ。

街の3分の1が犠牲になって、戦場になった南半分は放棄を余儀なくされた。

黒崎真は、その戦火に巻き込まれ家族を失い、春華によって救われた少年だった。


そしてその彼は、中学2年に進級して一学期中間テストが終わって間も無くの頃、再び〈天使〉との戦禍に巻き込まれ生死を彷徨った。


(ううん、ちがう)


彼を守れなかったのは自分だ。

あの〈ネメシス〉を操り切れると自惚れた自分が、彼をまた不幸な目に合わせた。


自分はただ、尊がいなくても戦えるということを証明しようと必死だった。

どうしようもないくらいに、自分の中には焦りがあった。


真はまさに死の淵から生還を果たした、昏睡状態となった尊の肉体に精神を移すことで。


機体の同調率は搭乗者の肉体に依存する。

結果として、戦力の要となるRevenantと、それと高い水準での同調率を維持できる有能なパイロットを、失わずに済んだのだ。


「……やめてよ、いまさら子どもあつかいなんて」


春華もまた、年齢以上の強さを求められ、年齢以上の責任と使命を課せられて戦っていた。

今の自分たちがそうであるように___いや、彼女が部隊に身を置いていた当時は今の自分たちよりも過酷だった。


人機一体システムは、単に〈ネメシス〉と操縦者の意識を接続して機体性能を引き出すだけのものではない。

同調媒体物質を使ってパイロットの脳に直接働きかけ、戦意の高揚や敵滊心を増幅させて不安や恐怖心を抑制する機能を持っている。

春華が現役であったころはまだ人機一体システムは完成に程遠く、出撃に際してパイロットに対し相当量の抗不安剤などの投薬を行い、戦いへ送り出していた。


肉体的にも精神的にも強い負担ばかりの秋霜烈日を生き残った春華を待っていたのは、発作的な視覚障害と慢性的な色覚異常という後遺症、そして彼女と共に戦った仲間たちは、皆命を落とした。


後遺症だけでなく仲間の無念というあまりにも重い十字架を背負ったまま、それでも、春華は陸戦強襲部隊と関わり続ける道を選んだ。


「真くんは……どうなるの?」

「わからない、としか言えない」

「希望も、持たせてはくれないのね」

「お望みかね?」

「ううん」


春華は席を立ち、隣室の真へ視線を投げた。


「もし、目覚めたら……」

「戦うって……言うでしょうね。目覚めたとき……であったとしても、きっと、私のために戦うって、そう言うわ」


アスカはそう確信する。


診察室を出ていく。

身を切るような冬の冷たさに、アスカはコートを引き寄せて、ひとり、肩を震わせた。



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