いつだったか父が言った。
「昔は龍は勇者が倒すものだったんだけどな」と。
窓の外を龍が当たり前のように通り過ぎていった。
父はゲーム会社で働いていた。架空の国で勇者が姫を助けるために龍と戦う。伝説の剣を手に入れ、仲間を集めて冒険をする。そんなゲームを父は作っていた。昭和から平成にかけてよく見られる王道のストーリーだ。父はゲームのシナリオを作るとかではなく、プログラマーだった。
父がプログラミングしたゲームを、家で遊んでいたことがある。父が会社から持って帰ってくるのだ。社販で買って、僕に与えてくる。僕はゲームが特別に好きだったわけではないけれど、それでも小学生の頃はよく遊んだし、ある程度大きくなっても暇があれば遊んでいた。
はじまりの町で龍が現れる。僕は勇者になったばかりだから、レベルを見ると弱いけれど、その町では早速「勇者様」と呼ばれている。武器の項目を見ると「剣」としか書かれていない。エクスカリバーとかではないのだ、剣だ。そして、はじまりの町で突如として現れた龍と戦う。大リーグに挑む小学生みたいな感じだ。
「死ぬよ」と父は言った。
父は自分が作ったゲームを息子がやっているのが嬉しいのか、後ろに座って画面を見ていた。当時、小学生だった僕はゲームのお決まりの流れを知らなかった。勇者は死んだ。龍に火を吐かれ死んだ。画面が黒くなり「ゲームオーバー」の文字が現れる。
その龍とは、もっと強くなってから戦わなければならなかった。動物なのか、虫なのか、僕らの住む本当の世界には存在しない、モンスター的なものを倒してレベルを上げて、武器も強化しなければ龍を倒すことはできない。
仲間を見つけることも大切だ。
黒魔法とか、白魔法とかを使える仲間。仲間と連携することで勇者はさらに強くなる。そのような段階を踏まなければ、龍は倒せない。画面は黒くなり、赤い文字で「ゲームオーバー」の文字が現れる。
今、僕の頭の中に赤い文字の「ゲームオーバー」が現れようとしている。
僕の目の前に、龍がいるのだ。
画面の向こうの龍ではない。 現実の龍だ。
完全に目が合っている。人間同士ならば、「どうも」的な会釈して視線を外せばいいのだけれど、相手は龍だ。目を逸らしたら襲って来る感じは否めない。
そもそも「襲う」という漢字。「龍」という文字が入っている。龍に襲われた人が考えた漢字なのではないだろうか。襲われても全く不思議はない。だって、僕はこの龍を倒さなければならないから。龍にとっても生きるか死ぬかだ。それは、僕にとってもだけれど。
僕は勇者ではない。とてもない。
大学を卒業して、新卒で働き始めたばかりだ。
もうすぐゴールデンウイークがやってくる。世間は僕らに向かって「いつまでも大学生気分でいるな」と言うけれど、大学生気分なんかで働いていない。同時に「勇者気分」でも働いてない。どこにでもいる新卒の気分で働いている。
ただ、目の前には龍がいる。
龍にもいろいろなタイプがいる。この龍は陸地型リザードタイプだ。トカゲをゴツくしたような顔をしており、細い首の下に大きな体がある。背中には飛べないくらいの小さな羽がついている。翼と書いた方がいいかもしれないけれど。
陸地型リザードタイプが飛んだという正式な記録はまだない。体はゴツゴツと硬そうな装甲をしている。たとえば日本の警察が持っているような拳銃では、弾は彼らの体を貫通しない。銃弾は装甲に弾かれ落ちていく。龍はまるで、蚊にでも刺されたような涼しい顔をする。
僕の龍戦闘用弾はあと一発しかない。
頑張って視線をずらしてみる。龍に軽く会釈をしながら。若干のコツはある。深々と頭を下げると隙が多くなり龍は襲ってくる可能性が高い。ただ目礼だと、龍は挨拶と感じずにやはり襲ってくるかもしれない。正しくは目礼と会釈の中間ということになる。僕の認識では目礼より頭を下げるのが会釈。その中間を選択することで、龍が襲ってくる可能性を低下させながら視線をずらすことができるのだ。今回初めてやったのだけれど成功した。襲っては来なかった。
視線を右にそらすと、僕の上司の女性「蛇口さん」が倒れている。死んでいるのかもしれない。生きていて欲しいけれど。
鬱蒼と茂った木々の間から光が天使のハシゴのように差している。その中で倒れている彼女はアメリカのファンタジーアニメ映画のヒロインのようだった。アメリカのファンタジーアニメ映画のヒロインだとすれば死んではいないはずだ。アメリカのファンタジーアニメ映画のヒロインは死なないのだ。全てのアメリカのファンタジーアニメ映画を観てはいないけれど、アメリカのファンタジーアニメ映画のヒロインが死んだパターンを僕は知らない。アメリカのファンタジーアニメ映画と同じだとすれば、生きてはいるはず。アメリカのファンタジーアニメ映画だとキスでもすれば目を覚ますはずだ。
シチュエーションとしては最高だ。
目の前に龍がいる。彼女は倒れている。光が彼女に差している。龍を倒して、彼女にキスをする。すると彼女は生き返り、僕は彼女と一緒に暮らす。ハッピーエンド。勇者的ストーリーだ。
ただ大きな問題が二つある。一つは龍を倒せる気がしないこと。もう一つは彼女にキスをしたところで、彼女は目を覚ますのだろうかということだ。
そもそもキスをしても大丈夫だろうか。了解を得ずにキスをするのはまずい。でも、それで目を覚ますとしたらセーフなのではないだろうか。シンデレラなどの作品を思い出すと、承諾書にサインしてからキスをするみたいなことはなかった。意識がないのでサインをするのは難しい。じゃ、キスもいいのではないだろうか。龍を倒したわけだし。
というか、彼女はなんで倒れているのだ?
僕が来た時はすでに倒れていた。彼女の横に武器が落ちている。
僕が背負っているAIロボットのブロンは、「なんで倒れているんでしょうね?」と静かに言っている。AIロボットなのだから、少しは考えて欲しいのに、小さな声で「なんでだろう?」と言うだけだ。
龍に襲われるかもしれない、という状況は理解できているようだ。小声で話しているし。さすがAIと言いたいけれど、AIなら倒す方法を考えて欲しい。
こんなことになるならもっと遊んでおけばよかった。モテたこともなかった。あの時「好き」と言っておけばよかった。結果はわからないけれど、何かしら変わっていたかもしれない。もっと心置きなく龍に挑めたかもしれない。
人は危険に晒されて初めて過去と向き合えるのかもしれない。向き合えたところでモテてないと思うけれど。
「父親がな、モテる顔じゃないもんな」と改めて思う。そこは悔やんでも仕方かない。あいつな、とは強く思う。
いま僕はいろいろなことを考えているけれど、時間にすれば短い。
命が危険に晒された時、僕の中の時間は遅くなる。
龍にしても同じような感覚かもしれない。次の一手を考えているのだ。
龍が体を逸らし始める。文献的に知っている。これは火を吐く際の事前行動だ。
ここで火はまずい。僕にモロに当たるし、木々が燃える。周辺に生えているのは杉だから、燃えれば花粉の心配をしなくて済む気がするけれど、そういうことではないのだ。龍を倒せるのなら、甘んじて花粉症になろうではないか。
視野が暗くなり始める。ゲームオーバーが現れそうになる。
現実でもそんなことがあるのだ。
僕はなぜ今こんな目にあっているのだろう。
時間を巻き戻す、走馬灯のように。
どこかで鳥が鳴いた。
…
僕は2003年に生まれた。東京生まれ東京育ちだけれど、23区ではない。多摩川が流れる東京の人でなければ知らない「市」で生まれ育った。比較的緑が多く、多摩川によく散歩に出かけた。父はゲーム会社で働いていて、母は市役所で働いていた。特筆すべき点がない普通の家だ。もっとも母は僕が生まれる数年前までは激務だったことは想像できる。龍の出現によりいろいろ制度や保障などが生まれその業務は市役所が担ったからだ。
当時のことを僕は知らない。生まれていないからだ。僕に物心が付く頃は龍がいる生活は常識的なのものだった。たとえばリンゴを手に持ち離すと落下するように。
世界の歴史には紀元前、紀元後だけではなく、新たに「龍以前」と「龍以後」という区切りが生まれた。ニュースを見ていても、龍以前にはこのようなものはなく、とよく言っていた。
最初に龍が現れたのは1999年7月の満月が綺麗な夜だった。
ノストラダムスは予言を的中させた。1999年、恐怖の大王が降臨した。恐怖の大王が何を意味するかは長く論争があったけれど、その中ではあまり支持を受けていない旧約聖書にただ一度だけ登場する「龍」だった。もっとも多くの研究者を驚かせたのは、恐怖の大王が龍を意味したことではなく、本当に1999年7月に忽然として、龍が現れたことだった。
夏なのに空は冬空のように澄んでいた。月が夜空を明るくしていた。やがて月に黒い点が現れる。太陽の黒点のように。その黒い点はやがて大きくなり人類は恐怖を覚えた。逆光の月明かりのシルエットに龍は長い髭を伸ばし、やがて逆光を破り、装甲を白く光らせ地上へと舞い降りた。今の分類で言えば「飛行型ルーンタイプ」の龍ということになる。
この最初の龍は「アイン」と名付けられた。子供の頃に親に見せられた「まんが日本昔ばなし」のオープニングに出てくるような龍だ。蛇のように体が長く、翼はないけれど長い髭をたなびかせながら空を飛んだ。蛇のようだけれど手と足があった。手を使って上手にリンゴを齧り、芯だけを残し手を離し落とした。
これはポーランドの首都「ワルシャワ」での話だ。だから日本人は後からニュースでその映像を見ることになる。
僕は大学時代にその最初の場所を訪れたことがある。大学2年生の時で、授業の一環として訪れた。季節は冬でワルシャワは寒かった。無機質なビルが立ち並んでいた。龍以前である1989年までの社会主義体制の香りが残る街だった。それでもショパンの故郷ではあるので、横断歩道の白い線がピアノ鍵盤のようになっていた。精一杯の遊び心がそれだった。
そんな街の一角に石碑が立っている。四角い遊び心がない石碑だ。ポーランド語で何かが書いてある。日本語にすれば「最初の龍が出現して倒れた場所」ということになる。その辺りだけは建物が近代的になっている。どの国に建っていてもいいようなビル。龍が暴れその辺りのビルを壊し、建て替えられたのだ。当時の映像は動画サイトを漁れば腐るほど出てくるし、当時にアップされたものは再生数が4桁万回となっている。
母は「龍の出現のニュースなんて誰も信じなかったわよ」と言った。
アインのニュースを誰も信じなかった。龍は神話の中の、あるいはゲームの中の、またはお伽話の中の存在だった。それが現実のものとして現れた。エイプリルフールだったとしても上手な嘘ではない。しかし、それは嘘ではなかった。
どこからやってきて、何を目的として出現するのか、どのような生態なのかなど、全てが謎だった。アインは軍隊により5日を要して銃弾で倒された。当時の論争として生きたままの捕獲というのもあったけれど、未知の恐怖は龍を倒すことを決定させた。もちろんその後、アインは研究機関に送られ厳重に、厳密に調査された。
ワルシャワの国立博物館に行けばこの時の龍「アイン」の骨格標本を見ることができる。30メートルはあるだろうか。いや、あるのだ。32メートルと書かれている。化石のような形をしているけれど、ほんの20年ほど前のものなので、骨は真っ白で、頭部の目のあった場所の窪みは僕の方を見ていた。
アインを見ても僕は何も感じなかった。
龍がいることが常識な時代に生まれた僕には、鹿やイノシシの骨格標本を見るのと変わりはなかった。当時は多くの人がこれを見るために訪れたそうだけれど、今はどこの国の博物館に出かけても、少なくとも一体は龍の展示があるので、やがて人は減っていった。それくらい龍は満遍なくどの国にも出現した。その日も、その博物館には僕らしかいなかった。
この「アイン」を皮切りに、世界中で龍が確認されるようになった。日本にも出現した。日本で最初に確認されたのは東京だった。アインの出現から32日目のことだ。アインと同じ飛行型ルーンタイプで、新宿駅付近に降り立ち、都庁に絡まるように体を休めた。避難命令が出て、東京はある意味では静寂になった。
母は神奈川の方へ逃げた。父は職場が新宿なので見に行こうとしたけれど、地下鉄の駅に逃げるように指示され、自分の目で見ることはできなかったと言っていた。ただ自衛隊により都庁は白いライトで照らされ、空は昼間のように明るかった。
やがて世界の適応力が発揮される。人々は龍が出現することに慣れた。龍が出現する現実を受け入れ、やがて普通の生活に戻って行った。
僕が生まれた2003年は、世界が落ち着きを取り戻しつつある最中だったということになる。龍が出現することが日常になりつつあった時期で、物心が付く頃はもう全くの日常だった。
世界が大きく変わった点もある。僕の話をすれば、「龍学科」に入学した。正式には、地域環創成学部龍学科だ。龍以前にはなかった学科だ。もし龍以前に龍学科があったとすれば、もっと考古学的なものだったのではないかと予想する。最近、福井の大学に恐竜学部ができたと聞いた。それに近いものだったはずだ。
龍の研究分野は多岐にわたる。龍の出現、生態、体の作りなどを研究する分野もあれば、討伐方法や出現予測などの研究もある。考古学的なアプローチで研究しているチームもいると聞いたことがある。
僕が入った龍学科は地域における龍の利用法を研究していた。龍の分野としては珍しい社会学系のアプローチをする学科だった。もう出現するのは仕方ないので、どのように活用するか、ということだ。26年前に初めて出現したのに、もうそんな分野にまで研究は広がっていた。
僕が大学を卒業して入社した会社の上司、というか社長である蛇口さんは、龍の出現予測を研究してきた人だ。誰もが知る有名な大学に入学して出現予測を研究し、大学院に進学するけれど、途中で辞めて「東京龍研究所」というベンチャー企業を立ち上げた。
誰もが知るベンチャー企業だ、と言いたいけれど、そんなことはない。僕も就職活動を始めるまで知らなかった。
世間では、龍以後にこのような会社が乱立していた。「東京龍研究所」もその一つだった。
「もう討伐しようと思って」と、蛇口さんは僕を面接する時に言った。
年齢は30歳前後だろうか。彼女はスーツを着ていたけれど、どこかくたびれている感じがあった。化粧は薄く、あまり眠っていないようだった。
「正直に言うとさ、補助金が切れるのよ、来年から」と蛇口さんは言った。「もっと直接的な収入を考えると討伐だと思ってね」
「僕はそのような研究は……、大学時代は……」
「誰だって初めてがあるわけだから、それがすでにあったか、これからあるかだから」と言い「行ける?」と続けた。
「はぁ」と僕は返した。
世界が龍に慣れたことには大きな理由がある。龍は脅威であると同時に大切な資源でもあったからだ。だから、補助金が出た。
出現当初は過去の怪獣映画の影響なのか、放射能などの危険性が叫ばれた。しかし、どの龍からも検出されず、むしろ嬉しい効果のあるものが多かった。
まず大きいのは龍の肉と皮の間にある脂肪の部分だ。これを絞り油にする。熱を加えても酸化しにくい特徴を持ち加工しやすく、今まで不治の病と言われた病気の特効薬になることがわかった。
全ての国が討伐した龍の処理に困っていたけれど、この発見により龍は重要な資源となった。
また、翼の大きさ的に飛べないはずなのに、あるいは翼がないのに飛ぶことから調査が始まり、やがて皮膚や骨に今まで発見されていない資源があることがわかった。これを利用することで鉄製品などの軽量化が実現した。柔軟性もあるのでカーボンの上位互換にもなった。スマホの外装にも使われているので、スマホは驚くほど軽くなった。それでいて頑丈だった。
夢の資源だった。研究は盛んになった。討伐もスマート化もされたし、各省庁に龍の部門もできた。補助金もたっぷりと出た。
蛇口さんはそれを使い、龍の出現予測を提供する会社を作った。出現予測は討伐会社や国に提供することでお金を得た。
「補助金がなくなっても、出現予測で利益があるんじゃないですか?」と僕は訊いた。
「出現予測はいろいろな方法があるのは知っているわよね?」
僕は頷いた。
「大気が不安定になるとか、電磁波のようなものが観測されるとか。風力とか重力変化とかもあるわね。ただここ数年はもうそんなの関係ない感じでしょ。どれも占いみたいになっているでしょ。つまり売れないのよ、以前のように」
「会社は潰れますか?」
「どう思う?」と蛇口さんは僕から視線をはずした。
僕は会社を見渡しながら「はぁ」とため息にも似た返事をした。
結果、合格した。後で聞けば、僕しか就職試験を受けていなかったそうだ。龍の分野は人気の業種ではあるけれど、討伐に限れば危険を伴うことが最大の理由で人気がない。以前に比べれば格段に討伐しやすくはなっているけれど、それでも年間に多くの人が亡くなっている。
僕としてもそのような仕事をするつもりはなかったのだけれど、就活に失敗したのだから仕方がない。
公務員が本命だったのだけれど、落ちた。自分の目を疑った。絶対に通ると思っていたから。季節は冬真っ最中で、卒業式に手がかかるような時期だった。急いで4月からのことを考え就活をしたけれど、すでにどこも募集は終わり、研究室の教授が見つけてきた「東京龍研究所」に行くことになった。
「東京龍研究所」は新宿の雑居ビルの三階にある。綺麗とはとてもじゃないけど言えない。僕が面接という大切な場で「はぁ」とため息にも似た返事をしてしまうほどに。
箱がうずたかく積まれ、紙が散乱している。机は蛇口さんのものが窓を背にして一つ、その前に机が二つ向かい合って置かれている。僕が一つ使っているだけで、もう一つは誰も使っていないし、紙と本が積み重ねられ、誰かが使うには難しい状況時なっている。
入り口の横にはスチールラックがあり、龍討伐に必要なものが、大事にとは真逆な感じで置かれている。ただそれらはまだ真新しい。実戦投入されていないからだ。
そんな装備を見ながら「これも補助金で買ったわけよ」と蛇口さんが言った。「討伐なら、また別の補助金が出るからね。討伐すれば報奨金も出る、下請けだけど」
大手の企業が龍関連会社を作った。多くは討伐後の利用を目的にしている。夢の資源なので、多くの企業が興味を持ったわけだ。ただ討伐自体は人的被害が大きいので自前で持つことを躊躇した。最初の頃は持っていたけれど、やがてアウトソーシングということなり、下請けの討伐会社ができたけれど、人気の職種とは言えなかった。
そこで父のセリフを思い出す。
「昔は龍は勇者が倒すものだったんだけどな」
僕のような勇者でもなんでもない人間が、龍を倒す世界になった。
大学の授業として討伐についても学んだけれど、実戦経験はない。危険だから高いお金がもらえるかと言えばそうでもなく、同年代よりはもらえるけれど、一生その仕事ができるか、と言われれば難しい。それでも一部は龍御殿と言われる、龍を退治したお金で立派な家を建てた人もいる。ただこの辺は初期に飛びついた人の利権で、後発では難しいところだ。
「これが助けになるかもね」と蛇口さんは言い、スチールラックの上にある球体を指差した。
龍だけではなく、ゲームでよく見たものが現実になっていた。AIロボットだ。これはどこの誰もが持っているのではなく、蛇口さんが作ったものと聞いた。
ブロンというロボットで、球体をしている。台座がないと自立しない。龍に関する情報を集め、出現予測をする。蛇口さんが開発した出現予測のブログラムも走っているけれど、他の予測と今は大差ない。最近はブロンが討伐に関する情報も教えてくれるようになった。
「5キロくらいだからいけるでしょ、若いし。私はダメよ、重いから」と蛇口さんは当たり前のように言った。
「はぁ」と僕はため息をついた。今度は明確なため息だ。
4月1日に入社したけれど、蛇口さんは次の日からあまり会社にいなかった。
その日も出社して、ブロンに「蛇口さんは?」と訊いた。「打ち合わせです」と言った。
目の部分が液晶になっていて、表情があるのだけれど、憎たらしい表情を浮かべていた。
その打ち合わせは大手との契約で、龍が出現した時に「東京龍研究所」に討伐の依頼が来るようにするものだった。
「5社と契約したわよ」と蛇口さんは夕方に戻ってきて言った。「知り合いが多いのはいいけど、知り合いに頭を下げるのもあれね」
「蛇口さんは討伐の経験はあるんですか?」と4月の日差しが全く入らない、日照権を放棄したような事務所の一室で僕は訊いた。
「ないわよ、初めてよ」と彼女は当たり前のように言った。
僕はクラクラした。
初心者と初心者で龍を討伐しなければならないのだ。武器は揃えたとは言え、倒せるのだろうか。
「倒せる可能性は75%です」とブロンがその表情はどんな感情なの、という顔で言った。
「赤点は回避しているわね」
「赤点は死ぬってことですよね?」
「ネガティブね」と蛇口さんは笑った。
蛇口さんが読めない。ポジティブな人なのか、ただ疲れている人なのか、僕にはわからなかった。現状では龍討伐に前向きなことは理解できる。討伐する気まんまんなのだ。25%で死ぬけれど。
その夜、蛇口さんと飲みに出かけた。飲みに出かけるには困らない立地だった。だって新宿だから。ラブホ街の入り口にある飲み屋に入った。僕は奥に見えるネオンにドキドキしたけれど、蛇口さんはしていないようだった。もはや日常の景色。世界が龍のいる生活に慣れたように、僕もこの景色に慣れていくのだろうか。
ビールが一杯170円と安い居酒屋だった。予約もしていないのに入れた。
ジョッキには麒麟のマークが浮かんでいた。麒麟もいる。陸地型麒麟タイプの龍も確認されている。世界各地にそれぞれ龍やそれに似たものがいるけれど、基本的には出現している。
「討伐への道は開かれたわ」と蛇口さんが言った。「電話が来たら出動って感じね。契約時間は日中ってことになっているから、出勤時間は今までのままで大丈夫よ、基本的には」
「基本的には?」
「それはね、やっぱり急を要すこともあるだろうしね」と蛇口さんは笑った。
僕らは飲んだ。今後のことを考えるとお酒が進んだ。いいお酒か否かと問われればあまりいいお酒ではないように思えた。お互いに今後が心配なのだ。
「なんで龍に興味があるの?」と彼女が訊いた。
「多摩川を遡上する龍を見たんですよね」
龍はどこからやってくるのかまだわかっていない。さらにいろいろなタイプの龍が確認されているけれど、水中での龍はまだ確認されていない。しかし、僕は高校の帰り道に龍が多摩川を泳いでいるのを見た。長さは10メートルほどだと思うので、小型のものだ。龍アラートは鳴っていなかった。
龍が出現すると国はスマホにアラートを飛ばし、どこに出現しているのか、そして避難の有無を伝えるはずだったが反応はなかった。SNSを見てもその龍を見た人はいないようだった。
雨が降っており、僕はいつもと違う道で家に帰っていた。中間テストの最終日なので、多くのクラスメイトは部活が再開され、僕は帰宅部だったので午前中で高校から帰れることを一人喜んでいた。
雨は強かった。溝は雨を処理しきれずに道に小さな沢を作っていた。まだ緑色の木の葉をどこかに流していった。交通量があまりないので、意味があるのかないのかわからない信号機が青色になるのを待って道路を渡り多摩川に出た。しばらく多摩川に沿って土手を歩いた。川の水は多く、午後の早い時間には羽田空港にまで辿り着きそうだった。
今となってはなぜ僕はわざわざ家に帰るには遠回りとなる多摩川の土手を、しかも強い雨の日に歩いたのか思い出せない。事実として僕は歩いたのだ。傘はもはや意味をなさなかった。メガネには水滴がつき、靴はもはや水中のようになっていた。
そこで僕は見た。雨により煙り、茶色となった水の中を泳ぐ白い体に緑色の髭を生やした龍が上流に向かい、体をくねらせ泳いで行く様を。雨の音が消えた。我々の生活に支障をきたす存在ではあるけれど、美しく感じた。傘を落とした。濡れてもかまわないと思った。
龍とはなんだろう、と僕は考えるようになった。だから僕は龍のことを学べる大学に入った。理系からのアプローチが多いので、それはもう誰かにまかせて、社会学的なアプローチを研究したいと思い選んだ。
「あれ以来見ていないし、報告もないですけどね」
「空にも陸にもいるんだから、水の中にいても不思議じゃないでしょ」と蛇口さんが無邪気に笑った。
彼女はもう何杯目かわからないビールを飲みながら、「どこから龍が来ると思う?」と訊いた。
「知らないですね」と僕も真似するようにビールを飲んだ。
「答えはわからないわね。ただ、1999年に初めて出現したわけじゃないと思うのよ」
僕の酔いは少しだけ覚めた。そのような話はたまに聞くけれど、どこにも根拠はなかった。興味のある分野ではあった。大学時代、山間部や海辺の地域に出かけ龍についての聞き取り調査をすると、そのような話を爺様や婆様がした。少し小声で話す。笑われると思うけれど、と前置きをしてからそのような話をした。
地域によっては民話の中にあるこれは、龍のことではないか、と言う人もいた。民話の中には主語があやふやで、クマのことにも感じるし、シカのことにも感じられるものがごく稀に登場した。龍だとすれば龍だ。
そのような民話は明治期になってからのものが多かった。その前の時代の民話には明確にクマやシカなどと明記があった。もちろん明治期の民話にもクマやシカは登場するけれど、主語があやふやなものは龍と言われても納得できるものが少数ではあるけれど確認できた。
「蛇口さんはどう考えているんですか?」と訊いた時、彼女はもう眠っていた。
僕は彼女を背負い飲み屋を出た。新宿では女性を担いで歩いてもあまり浮かなかった。途中で同じような状況の男性に出会った。彼も女性を担いでいた。お互い、目礼と会釈の中間のような挨拶をした。
「東京龍研究所」と小さく書かれたドアを開け、さらに隣の部屋に繋がるドアを開け電気をつける。蛇口さんはそこで暮らしている。
ベッドとダンボールがあるだけの小さな部屋。ベッドの上に彼女を寝かせる。彼女をよく見る。とても龍が退治できるようなタイプではないように思えた。華奢とまではいかないけれど、どこにでもいるか弱いタイプに見えた。それは龍討伐に不安をもたらしたけれど、同時に僕にやる気を出させた。
電気を消した。窓と隣のビルのわずかな隙間から、ピンクや青のネオンの光がわずかに入り規則正しい呼吸をして眠る蛇口さんを照らした。
それからブロンを居酒屋に忘れてきたことを思い出して、取りに戻った。ブロンは怒りの表情を浮かべながら、レジ横の忘れ物と書かれた箱の中に入れられていた。
「一緒に飲んでいましたよね」とブロンは冷ややかに言った。
「飲んでた」と僕は言った。
僕はブロンを抱き抱えながら新宿を歩いた。AIロボットを抱えている人とは一人もすれ違わなかった。