「もぉー、返してってばー」
薄曇りの空を背景に揺れるゴーグルに向かって、
たわむれに己のゴーグルを奪った目の前の男は、してやったりと言わんばかりに満足げな笑みを浮かべている。
「ほらハル、あともうちょっと」
「ちょ、届くわけっ、ないっ。むぅー」
「がんばれー」
頭上から、くつくつと喉を鳴らす音が降ってくる。
まるで他人事のように声援を送る
「こうなったら……!」
すとん、とハルのかかとが地面につく。腕を下ろして視線をあさっての方向に向け、ハルは静かにため息をついた。
「あれ? あきらめる?」
小首をかしげるキョウヤの言葉に、ハルは否定も肯定もしない。
次の瞬間、スッ、と息を止めて彼を見遣ったハルは、腕を伸ばしてキョウヤの顔面に狙いを定めた。
「隙あり!」
「うおっ!?」
おもわずキョウヤが背をのけぞらせて一歩後退する。彼の頭の横を、ハルの細い指先がすばやく横切っていく。
「あぶねっ……」
「っわ、わわっ……!」
しかし勢いよく伸ばしたハルの右手は空しかつかめず。それどころか、勢いあまったハルは前のめりになってキョウヤの胸板へとダイブした。
「っ!」
「はい、つかまえたー」
バランスを崩したハルの体を支えつつ、キョウヤはふわりと彼女の腰に両腕をまわした。
ハルはといえば、またしてもゴーグルを取り返せなかったくやしさのほうが勝っているのか、彼にやんわりと抱き寄せられたことなど気にも留めていない様子である。
ひたいをぶつけたらしく小さく憤慨するハルの頭上で、キョウヤはふっ、と目を細めた。
「キョウヤのばーか。なんでよけるの」
「はいはい、ごめーんね」
恨めしそうに見上げてくるハルに、キョウヤはまったく詫びる気配のない声色でそう返した。そうして少々赤くなっているハルのひたいに手を伸ばす。
「痛いの痛いの飛んでいけー」
「ふふっ」
キョウヤの指先が、ふわり、とハルのひたいをなでた。
くすぐったそうに目を細める彼女の笑みに、キョウヤも満足そうな表情を浮かべる。
「おーいお前らー、もちっと静かにしとけー」
バスの後方に荷物を積み終わったらしい真木の声に、二人は互いに身を引いた。
苦笑する真木と小畑が、手を止めてやわらかい表情を浮かべたまま二人を見ている。
「もうすぐ終わるからなー。準備しとけよー」
「はーい、すんませーん」
片手をあげて謝罪の言葉を口にするキョウヤの隣で、ハルもぺこりと頭を下げる。
だが顔を上げた次の瞬間、ハルは小さく息を飲んだ。
それは彼女だけでなく、シュウもまた同様で。
互いに幽霊でも目の当たりにしたかのように、一瞬呼吸すらも忘れて立ちつくしていた。
時間にすればそう長くはない。
だが二人の視線は交わったまま、互いにしばらく動けなかった。
「……ハ、ル……?」
硬直したままのシュウの唇が、小さく震えた。
ぶつかったままの視線を先にはずしたのはハルのほうで、彼女はそのままくるりとシュウに背を向ける。
黒いワンピースの裾をつかむハルの肩が、わずかにこわばって上下に揺れていた。
「ハル? どした?」
「……っ」
「おでこ痛い?」
顔をのぞきこんで前髪に手を伸ばすキョウヤに、ハルは無言のままふるふると首を左右に振った。だがやはり、その表情は硬い。
「……」
無言のままハルから視線をはずしたキョウヤが、一瞬だけ視界の端にシュウをとらえる。
彼は、にらむようにしてハルだけを見ていた。
――なんつーかまぁ、……そーゆーことか。
ハルの異変の元凶は十中八九、彼であろう。ただの顔見知りというわけではないのは明白。
その関係性については想像にたやすいが、キョウヤはあえてそれを口にしようとは思わなかった。その代わり、シュウの視線からハルを隠すように半身を寄せて彼女の肩を抱く。
先ほどよりも鋭くなったシュウのまなざしに、キョウヤは素知らぬ顔をして小さくため息をついた。
「二人とも、お待たせしました。帰りますよー」
小畑の声がこだまする。
マイクロバスのエンジンがかかる音に、キョウヤは片手をあげて返事をした。
「ハル、帰ろっか」
眉間にしわを寄せてうつむくハルの頭を軽く引き寄せて、キョウヤはぽん、ぽん、と手のひらをやわらかく弾ませた。
目的地へ向かって走るバスの窓から見える景色は、次第に人の営みを失っていく。
焼失した木造家屋の残骸。
むき出しになって曲がった建物の鉄骨。
崩れ落ちたコンクリート片。
それらが道の両端にいくつもの山を形成していた。
かつて道路だったアスファルトの状態はけっして良いとは言えない。波打つ道路は、いたるところがひび割れ盛り上がってはくぼんでいる。
目に映る景色の損傷の激しさが、この地域の現状を物語っているようだった。
時おり大きく揺れる車内では、若者同士がひそひそとささやきあう声が聞こえていた。お前はどこから来たのかだの、自分が世界を救ってやるだの、それこそ取るに足らないような内容ばかりである。
そんな声を聞き流しながらシュウは、じっ、と窓の外を見つめていた。
――なんだってんだよ、クソッ!
車窓の奥に見える光景に、シュウは無意識に奥歯を噛みしめた。
あってないような道路交通法を無視してバスに並走する漆黒の大型バイク。ハンドルを握る金髪の男の腰にしっかりと腕をまわして体を密着させるハルの姿に、シュウは焦燥感を覚える。
――まじで意味わかんねぇ!
三年前、一方的に別れを告げ、突如として自分の前から姿を消したかつての恋人。
彼女との予期せぬ再会をよろこび安堵する一方で、自分の知らない男と一緒にいる彼女に対するいらだちが、シュウの心境をより複雑なものにしていた。
――なんなんだよ! わけわかんねぇ!
空き地を出発してから一度も、ハルはシュウのほうを見ようとはしなかった。
「ねぇ! ちょっとシュウ!」
「……チッ」
「ねぇ、聞いてる!?」
隣の席からエリカが声を荒らげる。
不機嫌な表情を隠そうともせず、エリカは外の景色から目を離さないシュウの肩を揺らした。きれいに整えられた前髪の下には、小さな縦じわがいくつも刻まれている。
「ねぇってば!」
バスに乗りこんだ当初はかろうじて返ってきていた相づちもいつの間にか無反応となり、それでもめげずに一方的に話しかけるも、ついには小さな舌打ちが返ってきたともなれば、エリカの機嫌は悪くなる一方である。
仮にも恋人同士。彼の意識を釘づけにしているものがなんであれ、エリカにとっては恋人をないがしろにするなどもってのほか。その原因が自分以外の女であれば、なおのこと許せるはずがない。
「ちょっとぉ! シュウ!!」
「……うるさい。なんだよ?」
雑音のひとつと化していたエリカの声に、ようやくシュウが反応したときだった。
機械的な電子音が、警告を発するかのように車内に響き渡った。