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第3話

「ひなちゃん」


披露宴が終わり、ほとんどの人間がそれぞれ次の場所へと向かったところで猪狩さんから声をかけられた。


「よかったら少しお茶、しない?」


あの猪狩さんが私をお茶に誘ってくれている。

これって夢でも見ているんだろうか。


「あー、でも、おじさんとおばさんも一緒だよね?」


「大丈夫です!

父と母には断ってきます!」


困ったように彼が笑った瞬間、思いっきり言い切っていた。


「いいの?」


「はい。

どうせまた、今までの兄の成長を聞かされるだけなんで」


兄の結婚が決まってからというもの、ことあるごとに両親はこれまでの兄の話ばかりしている。

そして最後に言うのだ、「あの篤弘だから絶対、お嫁さんを幸せにするだろう」

と。

もうそれには耳にたこができているし、少しくらい私が抜けたって問題はないだろう。


猪狩さんに待っていてもらい、両親に少し知り合いと話してくると伝える。

夕食の時間までには戻ると約束したら、特になにも言われなかった。

今日はもつ鍋を食べに行くのだと張り切っていたし、それは私も少し楽しみだった。


お茶といってもこの近辺には詳しくないので、そのまま披露宴をおこなったホテルのカフェテリアを利用する。


「ひなちゃんは今日、泊まり?」


「はい。

ここのホテルに泊まって、明日の飛行機で帰ります」


兄たちの新居は糸島にあるが、東京から来福する人たちの利便性も考えて挙式と披露宴は博多はかた駅近くのホテルにしてくれた。


「猪狩お……」


つい昔の癖でお兄ちゃんと言いそうになり、慌てて口を噤む。


「猪狩さんも泊まりですか?」


「いや。

俺は明日、仕事があるから日帰り」


小さく咳払いして言い直した私を彼はおかしそうにくすくす笑っていて、頬が熱くなった。


「しかしほんと、びっくりだよ。

あーんな小さかったひなちゃんが、もう立派な女性になってるんだもんな」


思い出しているのか彼の目が遠くを見る。

最後に顔をあわせたのは彼が大学に進学して家を出たときなので、猪狩さんが十八、私が八歳のときになる。


「もう二十年近く会ってないですもんね」


「だよなー。

俺ももう立派なおじさんだし、ひなちゃんも大人になるよな」


はぁっと彼が憂鬱そうなため息をつき、つい笑っていた。


「おじさんって猪狩さんは十分、格好いいですよ」


「そんなこと言ってくれるのはひなちゃんくらいだよ」


彼は笑っているが、きっと今だってモテるに違いない。

さりげなく確認した左手薬指には指環はなかったが同じ年の兄だって結婚したくらいだ、もう結婚してお子さんがいてもおかしくない。


「兄とはあれからも連絡、取ってたんですか」


だったら教えてくれたらよかったのにと兄に恨み言を言いたくなる。


「いや?

大学出るくらいまではちょいちょい連絡取ってたけど、就職してからは忙しくってさー。

ここ十年くらいは年賀状のやりとりくらいしかしてないよ。

それがいきなり結婚する、だろ?

驚いたのなんのって」


猪狩さんは驚いているが、確かにそんな状況で突然、結婚するから出席してくれとか言われたら驚くに決まっている。

しかし彼は〝年賀状のやりとりくらいしか〟と言ったが、十年もそれを続けているなんてそれだけふたりの親友としての絆は今でも続いているのだと感じさせた。

だからこそ兄は、彼を結婚式に招待したのだろう。


「でも、無二の親友の結婚式だろ?

これは出ないわけにはいかないって、駆けつけたってわけ」


おかしそうに彼が笑う。

そういう関係がちょっと、うらやましかった。


「猪狩さんはまだ、結婚とかしてないんですか」


そわそわと返事を待つ。

いや、彼が結婚していなかったとして、私はどうする気なんだろう?


「あー……。

仕事が忙しくてそれどころじゃないっていうか。

というか、彼女ができても長続きしないんだ」


猪狩さんは困ったように笑っているが、長続きしないというのが意外すぎる。

見た目がイケメンなのはもちろん、私の中で彼は優しくて頼れる人なのに。

私基準では恋人として百点満点な彼を振る人間がいるとは信じられない。


「え、猪狩さんを振る人間がいるんですか?」


驚きすぎて思わず考えが口から出てくる。


「社会人になってからふたりの女性と付き合ったけど、どっちにも『私と仕事、どっちが大事!?』ってフラれたな」


はははっと乾いた笑いが彼の口から落ちていく。


「お仕事に理解のない方だったんなら、運がなかったと……」


「違うんだ」


私に最後まで言わせず遮ってきた彼は、少し思い詰めた表情をしていた。


「休みが不規則で、やっとデートの約束を取り付けたかと思ったら当日、しかもデートの最中に急に仕事になったっていきなり置いて帰られたらそりゃ、嫌になるだろ?」


「ああ……」


それは確かに「私と仕事、どっちが大事!?」とキレそうだ。


「かといって部署を変わるとか、ましてや仕事を辞めるとかいう選択肢は俺にはないし、それで喧嘩になって終わり。

そんなことが二度も続くと、もういいやって気になってきてさ」


ひと息つき、彼がコーヒーカップを口に運ぶ。

きっと猪狩さんも傷ついていたのに、別れた彼女たちを悪く言わない彼は私からしたら好感度が高い。


「その。

猪狩さんのお仕事って……」


「公務員だよ」


眼鏡の向こうで目尻を下げ、彼がにっこりと笑う。


「えっと……」


「だから。

公務員だよ。

……って、これも喧嘩の原因だったんだけどね」


はぁっと彼は、憂鬱そうにため息をついた。


「仕事柄、あんまり詳しく話せないんだ。

ごめんね」


「いえ」


気にしていないと笑ってみせる。


「ひなちゃんは気にならないんだ?」


猪狩さんはなぜか、何度かパチパチと瞬きをした。


「正直に言えば気になりますよ?

でも前になんかで、自衛官とか機密情報で乗ってる船とかでも家族にも教えられないとか見たんで、そういうのかな、って。

だったら仕方ないじゃないですか」


「ひなちゃんは相変わらず、可愛いね」


嬉しそうに彼が笑う。


「可愛いって私、もう子供じゃないんですけど」


子供扱いされた気がして、不満で唇を尖らせたが。


「その顔!

昔のまんまだ!」


彼を喜ばせるだけだった。


「いやー、ほんと懐かしいわ。

『猪狩お兄ちゃん、ご本読んで』って俺の膝に上ってきてたあのひなちゃんがこんなに綺麗になっててビビったけど、やっぱり昔のまんま変わってないんだな」


「うっ。

子供の頃の話はいろいろ恥ずかしいので、やめていただけると……」


なんかもう、猪狩さんにいろいろしていた自分の記憶がよみがえる。

いまさらながらあれらを語られるのは恥ずかしすぎる。


「え?

そう?

ひなちゃん、篤弘より俺に懐いてて、家に帰ろうとするたび『帰っちゃダメー!』って泣くから、しょっちゅう泊まってたよな」


「うっ」


ええ、ええ、そうでしたが?

それで兄と猪狩さんと三人で、川の字になって寝ていましたが?

うん、でもこれはまだ、傷が浅いから大丈夫だ。


「女の子連れてきたら絶対、俺にべったりくっついて睨んでたよな」


子供の独占欲って怖い。

でもこれもまだ、耐えられる。


「極めつけは『大きくなったら猪狩お兄ちゃんと結婚する』ってみんなに宣言してさ」


「わーっ、わーっ!」


思わず大きな声が出てしまい、周囲の注目が集まった。


「あっ、……えっと。

すみま、せん」


熱い顔で取り繕い、座り直す。

猪狩さんはおかしそうに喉を鳴らしてくつくつ笑っていた。


「……それを持ち出すとは意地悪です」


「そうか?」


しれっと言い、彼はすっかり冷えてしまったコーヒーを飲み干した。


「子供の言ったことです、気にしないでください」


必ずこれを持ち出されるとわかっていたから、子供の頃の話はしたくなかったのだ。

子供の頃、猪狩さんは私のもうひとりのお兄ちゃんであり、王子様であり、ヒーローだった。

格好よくて優しくて、そんな彼に可愛がってもらえるのが自慢だった。

でもそれは小さな子供からは十も年上の彼がそう見えただけで、定番の「大きくなったらお父さんと結婚する」と同じなのだ、あれは。


「気にしちゃダメなんだ?」


「え?」


彼がなにを言いたいのかわからなくて、まじまじとその顔を見ていた。


「ひなちゃんは俺と、結婚してくれないの?」


「え?

え?」


状況が整理できず、頭の中をクエスチョンマークが大行列で通り過ぎていく。


「ここで再会したのもなにかの縁だ。

ひなちゃん。

結婚、しよ?」


「え?

は?」


私の手を取り、にっこりと笑う彼をただ見ていた。

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